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67 武田軍西上開始

 「苦労をかけた。これよりは本貫を治めよ」

 「はい。数々の御無礼お許しいただき、感に堪えませぬ」

 躑躅ヶ崎館に入り信勝と面談する。

 勝頼になって扱い方がわからず、薄い親子関係しか築けなかった。

 そこを逍遥軒につけ込まれたとすれば信勝に罪はないだろう。


 下座の信勝の顔は晴れやかである。

 肩の荷が下りたのであろう。

 だが、江戸に幕府を開けば信勝が二代将軍となるのだ。

 武田家当主とは比べ物にならないほどの大任である。

 文武に優れた小原のような補佐役をつけなければならないだろう。


 「わたしは京に上る。甲斐を頼むぞ」

 山県勢、遠山ら先発隊は、すでに出発している。

 「隼人。信勝の補佐を頼む」

 「都に武田菱がはためくのを見られぬは残念ですが、お任せくだされ」

 残党が蜂起することも考えられ、原、安中隊三千を残すことにした。


 天正十一年八月 ──

 和田、内藤、真田勢三万が伊奈を南下。青崩峠、兵越峠を越え遠江に入った。

 僕は馬場の相模勢一万を率い甲州往還から駿河に向かう。

 江尻で上杉軍一万と合流。東海道を西上した。

 紗矢と次郎は、すでに駿府城に戻っており、つかの間ではあるが元気な顔を見た。


 「有村平太郎に、紗矢から褒美を渡してくれ」

 「それは良い事ですが、郡方の芦田からでいいのでしょうか」

 紗矢がコロコロ笑った。

 いずれ正体をばらさなければならない。有村の驚く顔が楽しみである。


 浜松で朝比奈の駿河勢と合流。先行する内藤、和田と合わせて五万五千。

 美濃や尾張、伊勢の兵を含めれば、実に十万を超える兵数だ。

 兵糧、武器弾薬は、伊豆の梶原、鈴木、松下、駿河の間宮、間宮、小浜、千賀ら水軍二百隻が、尾張や伊勢の湊に輸送する手筈である。


 武田の西上に各地で展開していた諸将らは慌ててたようだ。

 伊勢を窺がっていた松永、筒井が兵を退いたのを皮切りに、河内で池田恒興、堀秀政、信孝と対峙していた荒木、安宅、三好も双方とも兵を退いている。

 三好、安宅にいたっては帰国しているのだ。

 武田の進軍の目的がわからないため居城に戻り防御を固めるのだろう。

 京にいた織田信忠も急遽安土に戻り、近江を固め武田の進軍に備えているらしい。


 進軍十日 ──

 岐阜城入った僕は、家老衆、その副将、小原ら元近習を参集し軍議を開いた。

 武田の当主となった僕の決意表明である。

「わたしは日の本を治めることにした。叔父、弟、義兄弟を滅ぼしたのはそのためだ。意に添わぬ者は武田を離れよ」


 関東の内藤らは承知のことであるが、土屋、小原以外の尾張、美濃、伊勢の諸将は、僕に対してどういう思いを抱いているかわからない。


 「意義はありませぬ。十郎め兄上に逆らうなど言語道断。見つけ出し首を刎ねましょうぞ」

 たった一人になった親族衆、仁科盛信の発言に諸将らが頷く。

 「いささか遅うございましたぞ。御神代、いえ、御屋形様が武田を率いるのに異存ある家臣などおるはずがありませぬ」

 秋山が笑みを浮かべていった。

 遅いというのは、武田の当主か、天下を狙うことか、どちらともつかないが、諸将らにしてみれば両方なのだろう。

 後ろに座る元近習の跡部、小宮山が涙ぐんでいるのを見ても、僕が立つのを待ち望んでいたのだ。


 「皆の気持ちよくわかった。思う存分働いて貰うぞ」

 「ははっ」

 諸将が居住いを正し、頭を下げた。


 「右衛門。朝廷への根回しはどうなっている?」

 土屋が信忠攻撃を控えていたのは、朝廷と深く繋がっているからだ。

 下手に動けば朝敵の汚名を着せられるため手控えていたのだ。

 「幸い都には山県様がおりますれば、ほどなく鎮撫総督の詔勅がくだされます」

 「鎮撫総督? 征夷大将軍に任ぜられるのではないのか?」

 景虎が土屋の答弁に疑問を投げかけた。

 「そのような職がありますのか。如何ほどの権限がありますので?」

 内藤が首を傾げる。

 わからないのも当然である。

 鎮撫使とは奈良時代に、地方の治安を維持するための臨時職なのだ。

 明治新政府が忘れられていた職を見つけ出し、地方の騒乱、反乱を鎮めるため鎮撫総督を作った。

 奈良時代と同じ臨時職だが、軍制、軍令、諸大名の進退、領地の処分など広く裁量できる職としたのだ。


 「日の本の騒乱を鎮める職だ。将軍だろうと右大臣だろうと遠慮はしない」

 権限など知ったことではない。

 武田の武力をもってすれば、解釈次第でどうにでもなる。


 「下総。右衛門。那護野の湊に間宮の船が入る。大久保長安が金を持ってくるのだ。朝廷への献金を頼む」

 「はっ。鎮撫総督叙任の礼金ですか」

 「帝だけではない。親王、女御、摂家、清華家、名家、半家の全てに金をばら撒く」

 「いかほど献金致しますか」

 小原が身を乗り出した。

 最下位の公家にまで金を配れば生半可な金額ではすまない。心配になったのだろう。


 「まずは五十万両」

 「おおっ」

 居並ぶ諸将から呻き声があがった。

 僕は無位無官であるが、位など金で買えたのだ。

 遺言の当てつけに、わざと望まなかっただけだ。

 受領名を貰う献金は七百貫も払えばいい。

 米にして約千五百石程度。大した金額ではない。

 

 史実でも信長の父親信秀は、伊勢の外宮仮殿の造替費として七百貫文を寄進して、三河守に任ぜられている。

 尾張を治めていて三河守を望んだのだのは、三河支配の正当性を持たせるためだろう。

 秀吉が関白となるのにどれほどの金を使ったのは不明だが、近衛ら四摂家に千石から五百の加増をしている。

 家康は征夷大将軍の宣下の礼として皇室に銀一万両、親王に千両、新上東門院に二千両、後水尾天皇生母に千両を献じ、皇室に一万石の領地を加増している。

 武力だけではなく財力も見せつけなければ、宮中の公家は靡かない。

 黄金五十万両は米にすればおおよそ二百八十万石ぐらいか。

 関東の年間の収穫量に匹敵する莫大な金額になる。


 「信忠から近衛らを引き離す策ですか。それならば都に兵を進めても咎められることはない」

 京への進軍を控えていた土屋が破顔した。

 朝廷に遠慮する必要がなくなれば、存分に織田を攻められると考えたのだろう。

 「勅使が来るまでに兵を整えて置け」

 「応っ!」

 全員が立ち上がり拳を突き上げた。

 目の上の瘤であった親族衆を排除したことにより、結束が強くなったわけではない。

 親族衆、小山田ら、親族衆に味方した者の領地が、恩賞として目の前にぶら下っているからだろう。


 軍議の後、小原を居室に呼んだ。

 親族衆の領地は、要所の城に城代を置いたものの、配下は寄集めの兵ばかりだ。

 逍遥軒に遠ざけられた小原、跡部ら側近を戻さなければ恩賞地など決められない。


 「下総。早急に領地替えをしたい。親族衆の領地を治める者を決めなければ政にも支障をきたす」

 逍遥軒が軍制改革を行って、まだ二年と経っていない。

 加増するとはいえ、よほどうまく動かさなければ領地替えに不満が出るだろう。

 「なかなかに難しいことです」

 永らく親族衆が支配してきた領地だ。領民との結びつきもある。


 「やり過ぎたか?」

 小原はにこりと微笑んだ。

 「牢に繋ぎ影武者を用意するなど親族としてあるまじき行為。滅ぼして当然です」

 

 僕が囚われているのを気づいたのは小原である。

 何度か北信の被災地に使いを出したが、面会ができないうえ返書さえ渡されなかったためだ。

 惣藏ともに甲府に潜伏したが、信長の死により西が騒がしくなり領地に帰らざる得なくなったが、逍遥軒を探っていた風間と偶然会い、僕を探すことを頼んだのだという。

 お陰で親族衆の野望を阻止できた。

 もし、あのまま牢に閉じ込められていたら、佐竹、結城らの侵攻に武田は窮地に陥っていただろう。

 

 「御親族衆の領地は、当面御屋形様の蔵入り地と致しましょうか」

 「蔵入り地⁉ それでは加増を期待している者らが収まるまい」

 「鎮撫総督に西国の領主らが素直に従うとは思えませぬ。成敗すればその地を治める家臣が必要になります。よほどの将でなければなりませぬ」

 なるほど。そうなる可能性は高い。

 

 丹羽長秀と会ったことは話していない。

 武田を新将軍にしようと画策しているのを知っているのは、死んだ逍遥軒だけだ。

 信忠を始末すれば、織田の家臣らは丹羽に促され武田の傘下に入るはずだが、蒲生についた南条、宇喜多、荒木らがどう出るかわからない。

 三好、長曾我部の四国勢、大友や島津ら九州勢、これらも素直に従うはずもない。

 それに丹羽が毛利を懐柔していると思っているが、これも本当のところはわからない。

 鎮撫総督として西に乗り込み敵対する勢力を平らげれば、押さえとして縁もゆかりもない地に家臣を配置しなければならないのだ。


 「天下とは、面倒なものだな」

 小原が蔵入りを勧めるのは、戦費や献金など莫大な金が必要になるからだろう。

 駿河で不自由なく暮らせたら良かったと、後悔が顔に出たようだ。

 「御屋形様なら必ずや成し得ます。元の近習を集め対処致しましょう」

 「頼む。そなたらが頼りだ」

 跡部、小宮山らを配下に戻すとしても、大名の統括、朝廷、寺社の統制、外交、貿易、治水、交通の管理の国政に対応する組織を作らなければならない。

 頭がクラクラするほど面倒なことだが、征夷大将軍になると決めた以上、避けては通れない。


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