65 武田家当主宣言
「深沢城の駒井は、馬場様の配下ですが、近頃は伊豆奉行の栗原に接近しており、どう出るか分かりませぬぞ」
伊豆奉行の栗原は逍遥軒の手下だ。
馬場と栗原は互いに牽制しているらしい。
「堂々と深沢に乗り込む。孫三郎ごときに遠慮は要らない」
栗原に与していようと、駒井に僕に敵対する度胸はないだろう。
駒井の兵は五百ほど。配下につければ貴重な戦力になる。
翌未明。山間の細道を深沢に向け出発した。
深沢まで一里(約四キロ)となった地点で、先行した物見が武士を連れて戻ってきた。
「風間ではないか」
情報収集に馬場から貰い受けた北条の透破風間孫右衛門だ。
「下山の牢獄を突き止めたのは風間殿です」
惣藏が耳打ちした。
「穴山梅雪の離心を見抜けず、面目次第もありませぬ」
風間は身を縮め頭を下げるが、逍遥軒が裏にいたのだ。
いかに風魔とはいえ防ぎようがない。
「深沢からか? 駒井は誰に着いたかわかるか」
「駒井孫三郎は、城門を閉ざして引き籠っており、敵か味方か不明です」
「深沢を避け、先を急がれた方が無難ではござりませぬか」
風間の報告に惣藏が割って入った。
逃亡に気づいた穴山が追っ手の兵を差し向けているはずだ。
穴山勢が深沢に侵攻すれば、駒井は降伏するだろう。
穴山、駒井の兵に追われては、小田原に逃げることはできない。
僕は腹を括った。
駒井は誰に着けばいいのか迷いがあるのだ。
これを利用するしかない。
「正面から乗り込む」
深沢城は小規模の平城ながら、北側の崖を背に南側に本丸、二の丸、三の丸と、それぞれの郭を堀で断ち切り土橋で連結した城である。三の丸には三日月濠を持った馬出しがあり、兵数さえ揃えればなかなかに堅固だ。
「開門! 開門! 先の御陣代武田四郎様がお見えである。開門いたせ!」
大手門の前で惣藏が大音声で呼びかけるも、門は閉じられたままだ。
数百の兵が息を殺し、わずか二十人ほどの僕らを窺がっているのだ。
「武田四郎である」
僕は馬を前に出した。少数兵であるのをさらけ出した以上、あとには引けない。
「わたしは武田家当主となることを決意した。孫三郎よ。逍遥軒に着くのであれば、武田の武士らしく弓矢をもって答えよ」
ざわめきが城内から起こった。
閉ざされた門がゆっくりと開く。
転がるように出て来た武者が膝をついた。
「駒井孫三郎昌直。御神代様に忠誠を誓います」
駒井に誘われ本丸に入った。
深沢の兵数は小者までいれて五百ほど、鉄砲は三十挺を保有していた。
穴山の追っ手はどれくらかわからないが、どうにかなる兵数だ。
「駒井。関東の諸将に使者を出せ。わたしの当主宣言だ。信勝であろうと逍遥軒であろうと従わぬものは全て叩き潰す。先ずは穴山、小山田、成田を叩き潰せと触れ回れ」
「はっ。小田原の馬場様に援兵を御命じになりますか」
「そうしてくれ。ただし、穴山の追っ手はそなたとで当たる。峠道で襲撃すれば蹴散らかせるはずだ」
当主を宣言をするのだ。徹底的に叩き見せしめとしなければならない。
穴山の兵は予想より多い二千であったが、伸び切った横腹を突き、断崖に突き落とし数百を屠る。
五倍の敵を相手に完勝であった。
これで僕の武田家相続が本気であることを示せたはずだ。
誰に着くか迷っている諸将らも旗幟を鮮明にするだろう。
三日後、小田原城より望月信永が二千の兵を引き連れ深沢城に迎えに来た。
「民部はどうした」
「馬場様は五千を率い津久井に布陣しております。小山田も相模川の対岸に兵を配置致したようです」
八王子城の二里(約二キロ)南の地点だ。
「そうか。小山田は退く気はないのだな」
「そのようです」
史実でも小山田信茂は勝頼を裏切っている。しかも俄かに変節しての裏切りで、信長は見苦しいと小山田の首を刎ねているのだ。
彦太郎を担ぐ逍遥軒に着いたとて、小山田がどこまで本気なのかはわからない。
不利になれば途端に降伏を申し出るかもしれない。
だが、今回だけは許すつもりはない。
今までとは違う僕を見せなければならないのだ。
平穏で長く豊かに暮らせればいいと、権力争いに一歩退いていたのが間違いだった。
信玄の遺言など早々に無視して、親族衆が僕を排除しようとするなら、武力で叩き潰せばよかったのだ。
この家中分裂の原因は、中途半端に親族衆を扱った僕のせいだろう。
生き延びるために、全てが中途半端だった。
江戸に幕府を開くか ──
丹羽長秀に乗せられたようで癪だが、僕はそう決意した。
「木下藤吉郎には浅田、望月と共に国府台の里見を攻めさせよ」
「はっ」
「内藤は三枝、小幡を率い、下総の簗田、常陸の小田とともに、佐竹、宇都宮を徹底的に攻めよ。中立を決め込む者は敵と見なせ。佐竹の居城太田を焼き払ってやれ」
「御意」
「和田は、原、安中とともに結城を攻めよ。調略など無用。上杉勢が関東に来るまでに、小山、水谷、多賀谷ら結城勢を屠ってしまえ」
「はっ」
小田原城から川越城に本陣を移し、関東の諸将らに敵対する勢力の掃討を命じた。
八王子城の小山田、忍城の成田は、馬場、上杉氏憲の攻撃に崩れ籠城している。
降伏の条件は、小山田信茂と成田氏親の切腹であるが、両者とも応じていない。
「民部、氏憲。ぬるい四郎はもういない。逃げ去るものは構わぬが、小山田も成田も生かしてはおけぬ」
「総攻めでございますか?」
「ああ、一気に決めるぞ。和田や内藤に援軍を出さなければならない」
「ははっ」
小山田に鉄砲戦を指導したのは僕だ。そのため鉄砲の数は家中随一である。
八王子城攻めは壮絶な撃ち合いとなった。
僕は城を望む高台に旌旗を高々と掲げ布陣した。
信玄の遺言で禁じられた御旗、諏訪法性、孫子の旗。それに足利将軍家錦の御旗が風に舞った。
今までのような信勝の陣代と違う。
武力により武田家を相続することを示したのだ。
八王子城内の動揺は手に取るようにわかった。
城を囲んで三日。
兵のほとんどが逃亡し、小山田信茂は一族とともに城に火をかけ自裁した。
「忍城に兵をすすめよ」
小幡隊五百を残し、馬場とともに忍城に兵を進めた。
忍城から黒煙が上がっている。
「成田氏長。打ち取りました」
上杉氏憲が家臣を連れ首級を持ってきた。
「勝鬨をあげよ」
これで関東の逍遥軒方は滅ぼしたことになる。
上杉勢の到着を待ち、伊豆の栗原と江尻の穴山を攻めることにする。
「今少し、御決意が早ければと悔やみまする」
小田原に向かう途中、馬場が馬を寄せ言った。
長篠での勝利の後、いくらでも当主となる機会はあったのだ。
「すまない。遺言に縛られていた。それ故このようなことになったのだろう。しかし、もう迷わない。わたしは天下を治めるつもりだ」
「旗頭一同待ち望んだことです。必ずや成し遂げられまする」
禁じられている旗を掲げたことは、逍遥軒のもとにも届くだろう。
僕の不退転の覚悟を見せてやったのだ。
逍遥軒はどうでるのだろう。
信勝を利用し収拾を図るのかもしれないが、彦太郎に家督を継がせる腹積もりあった以上、逍遥軒を許すつもりはない。




