62 囚われる
天正十一年一月七日 ──
駿府城の広間に、叔父の河窪信実を迎えた。
「江尻まで我がお連れ致す。早々に御支度を」
二つほど年上の叔父は不貞腐れたように言った。
先触れの使者は来ており仕度は出来ている。
帰城の途中で僕を連れ江尻の戻るのが、気に食わないのだろう。
たった二里半(約十キロ)の距離を戻るだけなのに、不機嫌だった。
だが、お門違いだ。決めた逍遥軒に文句を言えばいい。
僕だって蟄居の許しを受けるのに、躑躅ヶ崎館まで駕籠で行かなければならないのだ。
供は十人のみ。河窪や穴山の家臣に取り囲まれた罪人扱いである。
行列を作って甲府に乗り込むのを牽制したのだろう。
駿府城から江尻城までは河窪が、江尻城から躑躅ヶ崎館は穴山に護送されるのだ。
「これは。これは。ようおいで下された」
江尻城の広間で穴山が手をついて頭を下げた。
義理の兄弟になるが家臣筋のため腰は低い。
穴山は江尻転封後、出家して梅雪を名乗っていた。
「ささやかながら、前祝いの膳をご用意させて頂きました」
穴山の近習が襖を開けると、豪勢な膳が見えた。
供の分まである。
誘われ座に着くと、へらへらと酒を進めてきた。
鼻につく調子の良さだ。
穴山氏は武田代々の重臣で、梅雪は信玄の娘を娶り親族衆の列に加わっている。
つまり僕の義兄だ。
信玄が才覚を認め娘を嫁がせるほどの武将のはずだが、逍遥軒ら親族衆にへりくだるさまは、商人かと目を疑うほどだ。
史実での穴山梅雪が、信長の甲斐進攻に早々に寝返ったことが頭にあるからなのかもしれないが、それを差し引いても信のおける武将には見えないのだ。
「梅雪殿。前祝いと言ったが、叔父上はただ蟄居を解いて下されるのではないだろう?」
なみなみと盃に酒を受け、作り笑顔の梅雪に聞いた。
「逍遥軒様のお考えは、それがしのような者には計りかねまする」
はぐらかされた。まあ、知っていても穴山は言わないだろう。
北佐久の状況を聞きたかったが、躑躅ヶ崎館に行けばある程度は分かるだろう。
「さあさあ。皆も存分に食してくれ。甲斐では当分海の魚は食えなくなるぞ」
梅雪は調子よく家臣にも酒をすすめている。
僕が甲斐、信濃から離れられなくなるということを無意識に言っている。
「ご無礼とは存じますが、御次男様が誕生されたという噂を聞きましたが?」
瓶子を差し出しながら梅雪が言った。
「ちっ、蟄居中ゆえ、こ、公言は控えていっ」
酔ったのだろうか、呂律が回らない。
「さようですか。それは心配でござりましたな」
梅雪の声も割れ鐘のように聞こえた
ガチャンと物の割れる音が響き渡るが、眼がちらついて焦点が合わない。
「ば、ば・い・せ・っ」
意識が遠のいていく。
梅雪の口が、大きく開くのが見えた。
頭が痛い。── 吐き気がする。──
「み、水をくれ。水を⁉」
自分の声で我に返った。
僕は跳ね起き、明るい方に顔を向けた。
格子柵の先の壁には火皿が等間隔で置かれ、灯心がゆらゆらと燃えている。
ガッチャと格子の隅から音がした。
真っ黒な塊が、小さな扉を開けたのだ。
目を凝らすと黒い塊は人である。
黒い着物に黒のたっつけ袴、すっぽりと顔を覆う黒い頭巾を被っているのだ。
小口から瓶子と椀が差し出された。
黒ずくめは、扉をガチャリと閉めると、深々と頭を下げ床板を軋ませながら奥に消えた。
僕は這い進み瓶子を手に取ると椀に注いだ。臭いは無い。水である。
僕は一気に飲んだ。椀では間に合わず瓶子から直に飲む。
まさか。これも毒⁉ ──
ゴホッ。ゴホッ。飲んでいる途中で頭をよぎり咽た。
そうだ。僕は江尻城で穴山梅雪に何かを飲まされたのだ。
そして投獄された。
なぜだ。 ──
座り込んだ手が床の感触を伝える。
畳⁉ ──
這い戻り寝かされていた布団に座り込んだ。絹地の綿布団である。
回りを見まわす。格子と壁板だけではない。襖がある。
黒装束が消えた方向に襖があるのだ。
何のために ──
僕はふらふらと立ち上がり、襖を開けた。
何も無い板の間で、格子柵が続いている。
板の間の先に板戸があった。開けてみると厠である。
「おい! 誰かいないか。おい!」
僕は格子を掴み奥に呼びかけたてみた。
廊下の軋む音に、誰かが来ることが伺えた。
思わず格子から後退りするほど驚いた。
現れた五人は、同じように黒装束で全員が黒頭巾を被っているのだ。
二人は膳を捧げ持ち、三人は火桶を持っている。
「お前たちは何者だ! ここはどこだ!」
怒声を上げても答えはない。無言である。
「答えろ! わたしをどうするのだ!」
小口から二つの膳が差し入れられ、火桶が格子の外側に並べ終わると、五人は端座して平伏し去って行った。
膳には山盛りの飯のほかに、焼き物、汁物、香の物が乗せられていた。
「飯などいい! どういうことか説明しろ! おい!」
格子を掴み叫んでみるが、戻って来る様子はない。
「わたしは武田家当主の父親だぞ! 誰かいないのか! 説明しろ!」
あらん限りの言葉を叫んでも誰も来ない。
段々自分が惨めで虚しくなってくる。
叫んでいても馬鹿らしいだけだ。
穴山に、いや、逍遥軒に投獄されたのだ。
何のために、逍遥軒は僕を投獄したのだ。 ───
いくら考えても分からなかった。
壁板に刻んだ正の字は三つになった。
投獄されて十五日経ったのだ。
無言の黒子に世話される日々が続いている。
僕は部屋の中を歩き回り、腕立て伏せや腹筋、スクワット運動が日課になった。
身体を鈍らせないためでもあるが、退屈で仕方がないからだ。
見張っているのだろう、運動が終ると黒装束が現れ湯の入った桶と布を持ってくる。
「どうなっているのだ。なんとか言え!」
いくら話しかけても無言である。
用が終ると平伏し去っていく。
せめて会話のひとつでもあれば気も紛れるのだろうが、いくら話しかけてもうんとも寸とも言わない。
一度など平伏したとき、クックックッと笑い声を聞いた気がする。
家臣共々僕を見下しているのだろう。
顔を隠すのも後難を恐れてことか。
飢えも寒さも無い、至れり尽くせりの牢ではあるが、誰とも会話が無いのは結構辛い。
穴山は、投獄しても僕に敬意を示しているつもりなのだろうか。
地下牢や土牢ではなく、屋敷のような牢のうえ、食事も城と変わらないものを用意している。
たぶん穴山は、逍遥軒の命令に嫌々に従っているのだと僕に示したいのだろう。
躑躅ヶ崎館に僕が行かなければ騒ぎになるのは目に見えている。
露見しても最上のもてなしをしていたと、自分が助かる道を作ったのだ。
正の字が四つ並んだ日。廊下の奥から男らの声が聞こえた。
何を言っているのかは分からなかったが、投獄されてから初めて聞く牢番士の声だ。
穴山か、逍遥軒が来たのかも知れない。
僕は格子の前に座り、廊下の奥を注視した。
穴山でも逍遥軒でも、どちらでも構わない。
なぜ、このような扱いを受けるのか、問い質せる。
誰だ? ───
廊下を軋ませ格子の前に現れたのは、知らない男であった。
齢の頃は四十ぐらいか、身形はいい。上級の武士のようだが覚えがない。
「初めてお目にかかります。丹羽越前守長秀と申しまする」
「なっ⁉」
唖然としている僕に、丹羽は興味深げに牢を見回して言った。
「御不自由でしょうが、今しばらくご辛抱くだされ」




