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6 決戦 設楽原⑵

 天正三年五月二十一日 払暁 ── 長篠城包囲に二千の兵を残し武田軍六千は天王山から押し出した。


 信実率いる武田軍と徳川の強襲軍とのは干戈の響き聞こえてこない。土地の猟師五人を雇い入れ先導役にしている。どのような山道を通ろうと三千の敵兵を見逃すことはないはずだ。


 だが、安心はできない。史実を変える事ができるのか、こればかりわからない。


 僕は馬上より何度も振り返った。


 ざわめきが前方より聞こえてきた。先陣の山県隊が高台に到着したのだ。ざわめきは敵の歓声だろう。

 奇襲部隊に追いやられ、まんまと面前に誘い出されたと思ったのだ。


 敵陣は砦と呼べる構えだ。山を段々に削り、半里も続く柵の内側に鉄砲の筒先を並べている。湿地を挟んで敵との距離は一町(約110メートル)ほど。びっしりと並べた柵の中の敵兵が囃したてているのが見えた。


 「なんという鉄砲の数だ。彼奴等、城でも築く気か」

 「フフッ。あれでは攻めてはこれまい。意外に小山田の鉄砲隊が効くかもしれぬ」


 山県と馬場の声が聞こえてきた。陣形が整い次第、三軍の大将は本陣に来るように命じておいたのだ。


 「我らとて手を出せまい。四郎殿もここまで読めたのなら、違うやりようがあったのではないか」


 叔父の梢遥軒信廉だ。未だに僕を認めず同格扱いだ。まあ、いい。ここさえ凌げれば消えてもらっても構わない。


 「山県らに床几を出してやれ」

 馬廻りに命じ床几を並べさせた。三人は並べられた床几を見て呆然としている。


 「四郎殿。敵を前に、これは如何なる」

 「床几に腰掛けている暇などありませぬぞ」

 口々に不満を漏らす。


 「まだまだ、仕掛けぬ。まあ、座れ」


 敵の挑発に乗っては困るため大将を呼んだのだ。しばらく隊に戻すつもりはない。

三人は憮然としながらも床几に腰を下ろした。無言である。


 ドン、ドドーン。突然銃声が響き渡った。右陣の山県軍の方からである。山県が立ちあがった。


 「待て! 徳川が突っかけて来ただけだ。小山田の鉄砲隊に任せて置け」

 「し、しかし」


 山県の前面は徳川だ。挑発のため攻込んで来たのだろう。わずか百挺の鉄砲隊であるが、追い払うには役に立つ。小山田が用意できた鉄砲は三百挺。百づつ三陣の先頭で備えさせている。


 「見ろ。固く閉ざしたようでも、馬出しはある」

追い払われた徳川の小隊が柵の中に入るのが見えた。


 「そこを目掛け攻込めと申されるのか! 兵庫助が敵の奇襲部隊を叩いた所で退路を確保したのみ。待ち構える鉄砲隊に攻込むなど無謀でござろう」


 信廉が口を挟む。指揮に逆らわないという約束など守る気はないのだ。


 「黙っていたが留守居の高坂弾正に、城を空にしても攻込めと命じてある」


 わざと信廉を無視して、山県と馬場にいった。この戦の要はこの二人だ。そしてこの先があるのなら、僕が生きていくのに絶対に必要な家臣だ。


 「な、なんと⁉」

 「そ、それでは上杉の押さえは、ワシの深志城だけになる」


 馬場美濃の深志城、高坂弾正の海津城は、上杉謙信の押さえとして重要な城である。馬場の出陣に海津城の高坂が残り、上杉に睨みを利かせることになっていたのだ。


 「謙信が動かぬよう、手紙で褒めてやった」

 「褒めた……?」


 「将軍を追放した織田に与する其方は表裏比興の者だとな。のお、喜兵衛」

 「えっ、はひゃい」


 突然声をかけられ馬廻りの武藤喜兵衛は戦場に似つかない素っ頓狂な声を出した。


 この戦で兄二人を失い家督をついで真田安房守昌幸となり、表裏比興と後世に知られることは恐らくない。七割程度は歴史を変えることに成功しているのだ。後は眼前の織田、徳川を叩き潰し完全なものにしなければならない。


 「ワハハ。それはよい。謙信は意地でも武田領に踏み込みますまい」

 憮然とする信廉を尻目に、山県、馬場は破顔した。


 これで少しは勝頼の器量を見直すだろう。


 「伝令でございます」


 武藤が幔幕をたくし上げ百足背旗の武者を迎え入れた。


 「川窪兵庫助様、敵の奇襲部隊との戦に勝利。長篠城攻撃に移るとのことです」

 片膝をついた伝令が、切れ切れの息で告げると、山県らは手を叩いて喜んだ。


 「兜をもて」

 僕は小姓に命じた。八割は成った。いよいよだ。


 「そ、それは。諏訪法性の兜では…… ない……」


 山県が呻いた。白熊は同じだが、金の巨大な脇立てを兜に装着している。のちに山県の赤備えを家臣に加え、勇猛果敢を継承した徳川の家臣伊井直政と同じような拵えにした。


 今この時点でのちは無くなる。これが僕の決意だ。


 「わたしが許されたのは諏訪法性の兜だけだ。諏訪南宮の旗は許されてない。旗と兜は対のものだな。形だけの兜など要らぬ」


 陣代のため兜の着用だけ許可した親族衆に対する当てつけだ。信廉がそっぽを向いた。


 「敵の動きが慌ただしくなりましたぞ」

 馬場の声に合わせるように伝令が駆け込んできた。


 「高坂弾正様、与良木峠を越え黒瀬到着」

待ちに待った知らせだ。僕は軍配を握りしめた。


 「兵数は?」

 馬場の問いは、己の深志城の状況確認だろう。


 「約五千」


 伝令の答えにがくりと肩が落ちた。海津城が空では謙信に対抗できない。攻めて来れば落城の憂き目にあうはずだ。


 馬場の落胆はよくわかるが、謙信に北信濃を取られたところで、この戦を勝たなければ先はない。

織田、徳川連合軍を完膚なきまでに叩き潰し、この兵力をもって上杉謙信に当たるだけだ。


 眼前の敵がにわかに騒がしくなった。山頂より下に向かって騒ぎが伝播している。奇襲部隊の敗戦を知ったのか、あるいは高坂の出陣を知ったのか。


 「よし。持ち場に戻れ」

 敵の統率が乱れ始めた。好機だ。


 「ははっ」

 三人は頭を下げ己が隊に向っていった。


 「山県! 少し待て」

 「まだ、なにか」

 振り向いた山県の顔を見てぞくりとした。まるで獲物を狙う狼の眼だ。


 「徳川の兵をあまり殺すな。逃げる者は逃がせ。なるべく降伏させろ」

 「手を抜けとおっしゃられるか!」

 戦場に出たくてうずうずしている山県に酷な話だろうが、存分に働かれては困る。


 「鉄砲が欲しいのと、家康には使い道がある。赤備えの其の方なら容易いであろう」


 小山田に命じたものの購えた鉄砲は三百ほどだった。西を押さえた織田に買い負けたのだ。武田家中は鉄砲を軽んじている。滅亡に繋がった要因は改めなければならない。


 「承知するかわりと言ってはなんですが、まだ答えを聞いておりませぬ」


 何を聞かせていなかったのだろうか。軍議でのことと気づくのに少し時間がかかった。

 その間、山県は瞬きもせず僕を見ていた。よほど情勢を読み切ったのが気になるのだろう。


 「わたしには、頭を撃たれる前の記憶がないのだ。己も家臣も、亡き父や兄のことさえ何も覚えておらぬ。頭の中が空っぽなのだ。ところが、どういうわけか、先のことが見えるようになった。いや、聞こえるのだ。この城を狙え。敵が来るぞと…… 信じられるか?」


 ここまできたらもう構わない。信じようと信じまいと織田、徳川連合軍を前にして反旗を翻すことはないだろう。僕は長く生きるために史実に逆らっている。ここを凌いだところで重臣らに背かれては生きていけない。山県はどういう態度を示すのか僕は凝視した。


 「合点がいきもうした。さもありん。四郎様には諏訪上社大祝の血が流れておりますゆえ」

 山県は破顔した。


 神の加護か。便利な言葉だが確かにある。臨終の床にあった僕が、健康な身体を手に入れたのだから神の思し召しだろう。なら、遠慮なく存分に歴史を変えてやる。僕が生きるためだ。


 織田軍は、すでに山頂、中腹の軍勢がいなくなっていた。信長は逃げたのだ。殿軍なのだろう、鉄砲隊が裾野に固まっている。徳川の撤退は織田に比べて遅い。いまだ中腹の兵士ら右往左往していた。


 「はじめよ」

 巨大な脇立ての白熊を風に靡かせ、高台に立って軍配を掲げた。

 「貝を吹け!」

 傍らに立つ武藤喜兵衛が大声を上げた。


 喊声が上がり、丘を駆け降り二つの黒い塊が眼下の湿地を竹束を押し立てゆっくりと進んでいく。左陣の馬場隊と中央の梢遥軒信廉隊だ。右の山県隊はまだ見えない。降りた所で止まっているようだ。


 ダン。ダ、ダ、ダン。織田の殿軍から銃声だ。逃げ腰なのだろう音が揃っていない。


 ドン。ドン。ドン。山県隊の攻め太鼓が打ち鳴らされた。真っ赤な塊が川を飛び越え湿原を疾走する。

 

 流石は戦国最強の騎馬軍団山県の赤備えである。鉄砲に怯みもせず数騎の武者が馬出しの柵に飛びつき破壊した。馬出しだけではない。いたるところで縄を切り柵を破壊し雪崩れ込んだ。梢遥軒隊も馬場隊も負けてはいない。柵を破壊し入り込むと敵兵を蹂躙し逃げる敵を追い始めている。


 勝った。── 戦は大勝である。


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