56 信長の奏請
「湊に梶原殿の船が入りました」
近習の報告に、僕は文机を離れ縁側に出た。
十一月というのに、まだ樹々は葉をつけている。
甲斐や上野にはない暖かさだ。
いよいよ、農業政策に取り掛かるか。 ──
開拓、干拓、灌漑により農耕生産の向上を図るのだ。
水害にも備えた治水をおこなう。
米の生産量を上げ、各地に越後の苧麻のような特産品を作り出さなければならない。
先ずは温暖な駿河から三河に、綿花、サトウキビの栽培を推し進めるつもりだ。
梶原には異国の種や苗を手に入れるように頼んでいた。
綿花やサトウキビだけではない。
穀物でも果実でも珍しいものなら何でもいいという注文を出している。
作れるかどうかもわからない作物でも、試してみなければわからない。
十にひとつでも成功すれば上出来である。
街道整備で関銭徴収のために造られた数多の関所を撤廃したため、湊から遠地に物を運ぶ商人が少しずつ増えている。
伊豆の梶原、駿河の間宮ら武田水軍が、尾張や伊勢に船を出し商いに精を出しているのは、湊にあげた西の品物が飛ぶように売れるからだ。
ならば、こちらからも売れる産物を送りたいというわけだ。
「備前。久しぶりだな」
「ああん。‥… こ、これは、御屋っ」
「しっ!」
僕は慌てて口に人差し指をあてた。
ここで御屋形様と呼ばれては、わざわざ着替えた意味がない。
樽に腰掛け一人巴川を見ていた梶原に、丁度良いとばかりに声をかけたのだ。
「どうだ。手に入ったか」
「はい。綿花の種も甘庶も一貫目ほど購えましたが、おっしゃられた甘庶が、これでいいのか。木の棒のようですが」
一貫は三・七五キロ。良く手に入ったものだ。
「甘庶は挿せば根付くらしい。よくやった」
サトウキビは茎を挿すと根付くと本で読んだ気がする。
うろ覚えだが、やってみる価値はあるだろう。
「それはもう。御屋っ、四郎様の命なら琉球も辞せませぬ。それと三つばかりですが唐芋と言うのを手に入れました」
「唐芋‥‥ おお、でかした!」
サツマイモである。薩摩国に琉球から芋が伝わったのは今頃なのだろう。
飢饉を救う救荒作物になるのだ。
「たった三つです」
「芋の芽を育てて、葉が茂ったら蔓を切り取り、挿せばいくらでも増やせるはずだ」
薩摩から青木昆陽が手に入れ、サツマイモと呼ぶことになる。
今後はタケダイモと呼ばれるのかもしれない。楽しみである。
「はあ。御屋形様の知識には驚くばかりです」
梶原が目を白黒させている。調子に乗りすぎたようだ。
「貨幣は使ってみたか」
三ヶ月の間に景虎は、鋳造した貨幣を次々に送ってきた。
僕は梶原に渡し、西の商人の反応を確かめさせたのだ。
「それが、金の見定めに手間がかかり、結局は碁石金を使わざる得なくなりました」
いまだ甲斐で鋳造している碁石金の方が信用があるということだ。
がっかりである。
十二月も十日が過ぎて、また嫌な時季になった。
「本当によろしいのですか」
「いい。わたしは病だ。とても躑躅ヶ崎館には行けない」
跡部がまた年賀の儀を言い出した。
陣代として参席しないのを慮ったのだろうが、新年早々叔父らの顔など見たくない。
どうせ一年ほどで、その陣代も外されるのだから行く必要もないだろうと、仮病を使った。
それに、小原、阿部、小宮山らが、まだ伊勢、美濃から戻っておらず、仕事は山積みである。
一年で領国経営の道筋をつければならないのだ。
のほほんと新年を祝っている暇はない。
「嘘を吐いたと下総が知れば何と申すか‥‥」
跡部は小原を持ち出し食い下がる。
岐阜城での叔父らとの一件を聞いているのだ。
小原にもやりすぎだと釘を刺されている。
「下総はそちのように、くどくど言わない。年賀の儀などどうでもいいと思っているさ」
「なっ⁉ そ、それがしがくどいと! 下総よりくどいと申されますか!」
小原は同輩や部下に繰り返し指示を出す癖がある。うっかり忘れを防ぐためだ。
重要な仕事に長年就いているため身に着いた習性だ。
武辺ばかり尊ばれ文官は軽く見られる。
そのため小原ら奉行の下には気の利いた者が少ない。
奉行職はくどくならざる得ないのだが、跡部は心外だったようだ。
「大炊助もくどい方だと思うが」
僕もくどく跡部を揶揄ってみる。
「し、下総ほどではないでしょう。断じて違いまする」
怜悧で実直な跡部がむきになった。
これは面白い。
「御屋形様。小原下総守様がお見えです」
小姓の声にぎょっとなり、目を見合わせると跡部が首を振った。
噂をすれば影が差す。小原が戻ってきたのだ。
「火急と思い先に帰国致しました。小宮山、阿部は、隊を纏め直に戻りまする」
「どうした? 連絡はなかったようだが」
埃だらけである。余程急いで帰ってきたようだ。
「はっ。どうぞこちらへ」
「御尊顔を賜り、恐縮至極でございます」
後ろに平伏していた武士は、小原の近習ではなかった。
上杉の京奉行、神余親綱の家老の佐々木である。
「佐々木か。京で何かあったのか?」
佐々木は深々と頭を下げた。
上杉家の陪臣が名前を覚えられていることに感動しているのだ。
景虎が僕の家臣を憚らないのだから、佐々木の中では陪臣の陪臣と言う思いがあるようだ。
どうも、やりづらくってしょうがない。
「佐々木。わたしの前では気を使わなくてよい。気軽に話せ」
「ひゃい。さ、三条卿より内々のお話しが主人ありました」
佐々木は居住いを正し身を乗り出した。
身体から埃が舞い上がりキラキラと輝いた。
「禁裏では、御屋形様に従三位左近衛大将委任の話しが持ち上がっているそうです」
「ほう。それは凄いな」
景虎は関東管領ではあるが、この職は幕府の役職であり任免権は足利将軍にある。
今では存在していない鎌倉公方の補佐役という名ばかりの職だ。
左近衛大将は宮中の左右の近衛の長官であり、古来より近衛長官を経て、大臣や摂政、関白に昇進する出世役だ。
「ち、違いまするぞ。上杉様ではありませぬ」
小原が慌てて口を挟んだ。
「これは、したり」
佐々木が己の額をぺチリと叩く。
二人と目が合った。
「御屋形様です」「御神代様です」
二人の声が重なり意味不明の言葉に聞こえたが、僕らしい。
驚きはしたが、ありそうな話だ。
岐阜城の金を権中納言の三条実綱に献金している。
実綱は三条西家からの養子で兄の公国は権大納言である。
献金の礼替わりの昇進だろう。
「三条卿が、御推挙下されさたのか?」
「いえ、近衛卿ではないかと、噂されております」
佐々木が言葉に合点がいった。
信長である。
信長は右大臣。武田を左近衛大将にして下に置きたいのだ。
それにしても、甲斐守から左近衛大将への昇進とは、随分張り込んものだ。
「良いではないか。信長の下とはいうのが気に食わないが、歴代武田家当主、一番の出世だ」
家中が昇進に湧けば、僕の年賀の儀の欠席など気に掛ける者はいなくなる。
丁度いい報せだ。
「御屋形様です」「御神代様です」
また、同時に二人が言った。
「んっ?」
「御屋形様です! 御当主ではありませぬ。武田四郎様の話しです。だからこそ、それがしが急ぎ戻ったのです」
小原の言葉に僕は絶句した。
信勝ではなく、僕が賜る? ──
「神余を除いて、この話しを知っている者は?」
「土屋様になります」
覗くように見ていた小原が答えた。
「そうか。ならばこの話は他言無用。御断りしよう」
「お、お待ち下され!」
隣室に控えていた跡部が転がるように出て来た。
「大炊! そなた居たのか。盗み聞とは近習として有るまじきことぞ」
小原の言葉も意に介さず、跡部は佐々木の脇に膝を揃えた。
「源頼朝公は、右近衛大将から征夷大将軍に、足利将軍家も代々任いております。将軍義昭公から御旗を託された御屋形様なら、左近衛大将の任官は言わば征夷代将軍への布石ではござりませぬか。お受けするべきです」
跡部が額に汗を浮かべながらにじり寄った。
「そなたらには済まないが、受けるわけにはいかない」
「な、なにゆえでございますか」
「大炊! 控えよ」
食い下がる跡部に小原の一喝が飛んだ。
「しかし‥‥」
「わからぬか大炊。武田が割れれば喜ぶのは信長ではないのか」
跡部は僕の言葉に唇を噛みしめた。
信勝を越えた官位を受ければ、家臣らは僕を当主に据えようとするだろう。
信玄の遺言を楯にする逍遥軒ら叔父らと揉めるのは目に見えている。
信長らしい狡猾なやり口だ。
「佐々木、すまぬが神余に信勝の昇進なら喜んでお受けすると伝えてくれ」
「ははっ。では三条卿にお骨折り頂きましょう」
小原を残し跡部と佐々木を退室させた。
信長の思惑は土屋も小原も見抜いているだろう。
なら、なぜ急いで戻って来たのか気になる。
「いいのか」
「はい。そう申されるとは思っておりました」
「ならっ」
小原は、すまなそうに手で制した。
「右衛門尉様もそれがしも、本心は大炊と変わりませぬ。もし御屋形様が‥‥ いや、よしましょう」
小原が顔を顰めた。
言いたいことは、なんとなくわかる。
信玄の遺言に囚われず、武田の家督を継げと言いたいのだろう。
遺言など死にゆく信玄の自分勝手な思い込みばかりだ。
己の死を三年隠せだの、謙信と和議を結び頼れだの、挙句には信長、家康、氏政との戦い方まで残しているのだ。
その上、自分の後継者はわずか六歳の孫で、十六歳の元服まで勝頼に陣代を命じている。
陣代は幼少の信勝に替わり、政務や軍務を統括する代理職だが、勝頼は武田家累代の旗を禁じられている。
唯一許可された諏訪法性の兜さえ、信勝が当主となったら渡さなければならない。
武田の陣旗を掲げられない代理が、家臣らにどう思われるのか、微塵の配慮のない扱いだ。
嫡男義信を謀反の咎で処分したあと、後継者には五男の仁科盛信にする話もあったそうだから、なおさら勝頼が家臣らに侮られることになったのだ。
突き詰めれば、信玄の遺言は武田家を滅亡に追いやった原因だ。
僕は重臣らとの確執を取り除き、形はどうであれ信長を打ち破り、家康、氏政を滅ぼしている。
遺言でしたためた懸念など、死に逝く者の妄想になっているはずだ。
「いずれは‥‥ いや、叔父御ら次第か」
「はい。そう心得ておりまする」
そう言って小原は頷いた。
家臣の思いは皆同じだ。
初陣もまだな信勝に、巨大化した武田を纏める力はない。
逍遥軒が補佐しようと必ず乱れが生じる。
僕の威光に縋るときを待つのが、家中に波風を立てないやり方だと思っている。
小原には悪いが、期待を持たせるような言い方をした。
いずれ ── そんなものは来なくいていい。
面倒なことはまっぴらだ。
僕は歴史通り死ななければ、それでいい。




