53 親族との確執
「硝煙が底をついております。食料もあとわずか」
小原が帳面を持って、居室にきた。
「金蔵の銀を使え。復旧にバラ撒いても十分あまる」
「いつも通りですか」
「ああ」
さすがに信忠の居城だけあって巨万の富を蓄えていた。
金箱が天井まで積み重ねられた金蔵が二つもあったのだ。
鉄砲も三千挺を超えていた。
信長に馬鹿にされようと、収奪物が多いのは嬉しい。
食料、弾薬を補充するにしても、惜しみなく金を使えば市井が潤う。
気前よくバラ撒けば、好景気になり評判も上がる。
「上杉のことか?」
いつも通りと分かっているのに、わざわざ来たということは景虎の件以外にない。
「はあ。いまか、いまかと待ちかねております。今一度使いを出しては」
小原は憂いを帯びた顔を向けた。
「下総。心配はいらない。わたしに考えがある」
わざと小声で言った。密謀めいた話にするためだ。
「考え?」
「もし、上杉勢より早く叔父らが到着したら」
「到着したら‥‥」
小原が顔を寄せた。
「わたしは遅参に激怒し面会を拒む。叔父らを犬山辺りに留め置くのだ」
小原の表情がぱっと明るくなった。
「な、なるほど! 上杉様が入城するまでお会いしない。その手があったか!」
土屋の策だが、言わなくていいだろう。
「和睦の件はわたしの方でどうにかする。別件を進めてくれ」
「はっ」
意気揚々と出て行く小原の背を目で追って、僕は溜息を吐いた。
信長との和議は、両家の筆頭家老で執り行われた。
山県と佐久間盛政である。
取り決められたのは、美濃、伊勢の譲渡および岐阜城の兵士の解放。
そして、互いに、伊勢、美濃、飛騨、越中、能登の国境を越えた軍事行動の禁止である。
信長にすれば、背後を警戒することなく、西の毛利を攻められという都合のいいものだった。
しかし、信長は近江から東に兵を進められず、新領地の平定を急ぐ僕にも利点があった。
西の毛利、将軍義昭は武田の進軍に期待しているようだが、同盟も密約も無いのだから、裏切ったと言われることもない。
僕としては悪い条件ではない。
だが、問題は、信長が越中、能登まで入れていることだった。
領主景虎の承諾もなく勝手に不可侵と決めているのだ。
確かに景虎が越前に侵攻したのは、僕を助けるためだ。
商船の船頭から話を聞いて、即時に行動を起こしたのだという。
京の神余から使者が来たのは、既に越前に侵攻していたときらしい。
つまり、景虎の方が、京の神余より戦況を早く知ったのだ。
無茶苦茶な話だが、お蔭で武田は助かった。
景虎なら、僕が言えば和議の条件に有無も言わず承知すると信長は見ているのだ。
武田家当主の信勝ではなく、信長があえて僕と和議を望んだのはそのためだ。
だが、この和議には小原を悩ませた原因が含まれていた。
僕は信勝の陣代で信長と和議を結ぶ権限などない。
いくら戦で領土を広げようと、武田家当主は信勝なのである。
出兵も論功行賞も当主の許可が必要なのである。
宿敵信長との和睦となれば、今までは事後報告で済んでいても、必ず異議を唱えてくるはずだ。
ましてや、不可侵を決めている。
叔父らは、承諾することを引き換えに、己の領土を増そうとするだろう。
筆頭家老の山県でも、親族衆筆頭の逍遥軒の取り成しはできない。
当主の意向を笠に着る逍遥軒らに、家臣が逆らうなど出来るはずがない。
できるのは景虎だけだ。
逍遥軒からすれば、山県は家臣だが、景虎は当主信勝と対等同盟を結んでいて、地位も信勝より上位の関東管領だからだ。
「何故、甲斐勢は遅れたのだ? 残雪などあるまいに」
「い、いえ、それは・・・ 面目ござらぬ」
岐阜城東郭の大広間に、二十数人の諸将が二列に並んでいる。
真ん中には、逍遥軒、川窪信実、一条信龍が膝を折っていた。
「陣代殿の窮地を知らなかったわけではあるまい?」
「はっ。いえ、要請を受けるまで存じませんでした」
「わたしは報せなどなくとも、武田の窮地を救うべく駆けつけたのだがな」
景虎が打ち合わせ通り、逍遥軒を問い詰めていく。
「僭越ながら同盟国として言わせてもらうぞ。信長を侮っておられぬか」
「そのようなことは! ・・・‥ 重々承知しております」
逍遥軒が真っ赤な顔を向けた。
後ろに控える二人も悔しさを滲ませている。
小原の心配をよそに、叔父ら甲斐勢は景虎の到着より十日も遅かった。
小芝居の段取りは万全である。
「まあまあ。弾正少弼殿。叔父上らも何かと忙しいのでござろう。その辺でご勘弁願えぬか」
筋書き通り、僕が割って入った。
「しかし、御親族衆が遅れるようでは、家臣に示しがつきませぬぞ。ましてや相手は信長。四郎殿でなければ、取り返しのつかぬ事態だったではありませぬか」
「これ、この通り。叔父らになり代わり、頭を下げまする」
「いやいや、頭をお上げ下され。余計なことを申し上げました」
噴き出しそうだったが我慢した。景虎も肩が震えている。
「それに陣代として叔父上らにも、謝らなければならないのです」
ここからが、本題である。
「‥‥‥ 我らに?」
逍遥軒が顔を向けた。
「御屋形様の了承を得ぬまま、信長と和睦致しました」
僕は逍遥軒を窺がった。。
「そ、その和睦については、後ほど伺います」
やはり逍遥軒は、家臣の前での発言を避けた。
異議を唱え、ごねるだけごねて分け前を掠め獲る気なのだ。
「それが、信長を侮っているというのだ! 和議は戦況次第。時機を逃せば変心することもあり得るのだぞ!」
景虎が怒声を上げた。
「弾正少弼殿!」
「いえ、言わせてもらいます。四郎殿でなければ織田に互してはいけぬ。親族衆の方々はどう思いか」
「弾正少弼殿!」
止めるのは振りだけだ。この後は筆頭家老山県の出番だ。
「逍遥軒様に申し上げる。此度は徳川次郎三郎の謀反により予期せぬ戦。ならば、戦の始末は陣代が行うのが筋と存ずるが」
山県が膝を進め、逍遥軒に言った。
あまり台詞は上手ではないが、仕方がない。
「し、始末とは・・・ なんのことだ」
「はい。和睦、論功行賞、全てございます」
当然とばかりに山県が言ってのける。
これはいい。戦同様迫力が凄い。
「なっ! 四郎・・・どのに、い、一任しろと・・・」
「おお! たしかにそれが道理! われは出過ぎた口を利いたようだ。逍遥軒殿お詫び致すぞ」
景虎がまとめて、僕が最後の一撃をおみまいするのだ。
「叔父上。処理が済みますれば御報告致しまので、此度は御容赦いただけますか」
三人が一斉に憎悪の目を向けた。
景虎いなければ増上慢だと、がなり立てただろう。
だが、諸将の前で足掻けば恥の上塗りである。
「しょ、承知いたした。・・・・・・ 軍装を解きますゆえ、下らせてがらせていただく」
逍遥軒不貞腐れたように頭を下げ、信実、信龍を促し退室した。
内藤、土屋に出番は無かった。
山県がだめなら、二人が後押しすることになっていたのだ。
景虎が得意気に顔を向けた。
合縁奇縁 ── 景虎は男だが神に感謝したい。
土屋の気持ちがほんのちょっとだが、わかったような気がした。
「いささか、やりすぎだったのは」
逍遥軒ら甲斐勢は、三日ほど岐阜城に留まったあと、逃げるように帰国していた。
「叔父らなど、あれでいい」
新領地も転封後の領地も、全て家臣に分け与える。
一坪たりとも直轄地にする気はない。
直轄地にすれば、逍遥軒らの懐を増やすだけだからだ。
「お気持ちはわかりますが、御親族衆と揉めるのは今後に響きますぞ」
「今後?」
叔父らに媚び諂ったところで、信勝が十六になれば陣代を外される。
当主の父というだけの何の権力もない隠居とされるだろう。
だからこそ、逍遥軒ら親族に、わざと家臣の前で恥をかかせた。
親族衆の権威を削いでおきたかったからだ。
小原は今後に響くと言った。
僕が武田家当主となるのに響くということだろう。
信玄遺言時の領土は、甲斐、、信濃、駿河と飛騨、上野の一部だった。
それを僕は十七国、五百六十万石まで版図を拡大した。
天下を狙える大勢力に押し上げた。
信玄が夢みた将軍の地位さえ、僕が当主になれば可能かもしれない。
遺言通り十六の信勝が当主とならなくとも、僕の嫡男である以上、次に家督を継げばいい。
親族衆を懐柔すれば、遺言の棚上げができると小原は思っているのだ。
小原には悪いが、天下も当主の座も、僕は要らない。
まっぴらである。
一時凌ぎとはいえ、信長と和睦した。
信勝が正式に当主となっても、短期に武田家が滅亡することはないだろう。
武田家滅亡、勝頼自刃。──
これを避けるために信長と戦ってきたのだ。
僕は何の権力もない隠居でかまわない。
いや、それを望んでいる。
この身体が老いるまで平穏で、豊かに暮すことができさえすればいい。




