52 和睦
家康の策謀。荒木の謀反。今度は上杉の挙兵だ。
三度、窮地を救われた。
敵は全て信長である。偶然とは思えない出来過ぎた事態だ。
尤も、勝頼になったこと事態が、不可思議な事なのだから考えても仕方がないのだが、弄ばれているようで、山県のように素直に喜べない。
上杉軍三万二千の侵攻に山県、内藤、土屋は驚喜した。
信長は上杉侵攻に兵を退き、動けなくなった。
背後に怯えることなく、岐阜城攻撃に集中できる。
「ワハハ。ワシのゆうた通りであろう。御神代だからこそ、こうなるのよ」
「それがしも信じておりましたぞ」
「さようだな。下総はワシより早く見抜いておった。それに引き換え」
山県が内藤、土屋を揶揄いだした。
「なにをゆう。ワシとて疑ったことなどないぞ」
「それがしとて、御神代の神威を疑ってはおりませぬ」
神威 ── 神から授かった威光の事だろう。
それが、弄ばれているようで、釈然としないのだ。
大体、神余親綱の使いが来てからひと月と経っていないのだ。
三万二千もの兵を動かすことを神余は何も言ってこなかった。
景虎からも使者はない。
越後からの進軍では、どんなに早くても二十日はかかるだろう。
どうやって遠地の越後で信長の動きを察知できたのか。
また、三万二千もの兵を引き連れて来たのは何故なのか。
救われたものの、疑問ばかり残るのだ。
タン。タタン。タタタン。 ──
銃声とともに喚声があがる。
東門を攻める朝比奈隊だ。
伊勢勢が山頂に移ったため手薄になっている。
仁科が攻める西門より突破は早いかもしれない。
「朝比奈隊、門を打ち破り郭を占拠」
「仁科様、西門を打ち破りました」
信長来襲を警戒しない城攻めは、じわりじわりと敵陣を侵食していた。
「御屋形様。使者が参りました」
信長の援軍は期待できないと、追い詰められた信忠が使者を寄こしたのだと思った。
「信忠が折れたか。会おう」
「いえ、それが、使者は大垣城に。安土からのようです」
「信長からの使者?」
「そのようです」
和睦を求める使者だった。
岐阜城は風前の灯火。信長が言い出さなければ、信忠は死ぬまで籠城を止めず、降伏を拒み続けると思っているのだろう。
小原を大垣城に送り、使者に合うように命じる。
「ワハハハッ。信長は美濃、伊勢を手放したうえ、金もくれると申したか」
山県の笑が狭い客間に響き渡った。
豪快な笑い声だが目は笑っていない。
「舐めておる。金で信忠を救えると思っているのだ。城を落とし首を送りつけましょうぞ」
内藤が怒りを表したが、僕は原因だろう。
降伏した城の武器や金を真っ先に奪い取り、占領地の金銀山を大規模に開発し直轄地としている。
金に貪欲だと思われていても仕方がない。
「領国の不可侵を申したのは、東国を諦めたということではないのですか。武田は東、織田は西。一考の価値があると存ずる」
考え込んでいた土屋が言った。
「いいや。右衛門はあまい。ただの一時逃れ、毛利がかたずけば必ず破棄するわっ!」
内藤がすかさず、異を唱えた。
「あまいのは修理様の方では。この和議を蹴れば信長の後ろ盾がどう出るか」
「なにぉ。‥‥‥ 後ろ盾?」
土屋は後方に控える小原に目配せした。
「使者は信長の一族、織田左馬允でありましたが、主、信長を右府様と申しました」
膝を進めた小原が言った。
「右府様? ‥‥‥ それがどうした?」
「だからあまいというのです。右府とは二位の右大臣のこと。主人を様付けで呼んだということは、朝廷の意向を匂わせたのでしょう」
内藤の顔色が変わった。
「な、ならば、信長は右大臣として和議を申し出たということか」
少し間があったが、土屋が肯いた。
「右大臣の申し出を蹴ったとなれば、朝敵と見なすことができまする。それが狙いかと」
長い沈黙が続いた。
史実でも勝頼は朝敵になっている。
天正十年、武田を滅ぼすために信長が、朝廷を動かし勝頼を東夷としたのだ。
東夷 ── 東国未開の地の蛮族ということだ。
ボロボロの勝頼に汚名を着せる。
信長らしい底意地の悪いやり方だ。
僕にすれば、朝敵だろうが、東夷だろうが、歴史上、勝てば取り消されているので、どうでもいい事だが、山県らは違った。
「仕方あるまい。和議に応じては、いかがか」
甲斐源氏宗家の武田が、朝敵の汚名を着せられることに耐えられないのだ。
山県の言葉に、内藤、土屋も頷いた。
「和議に応じるとして、上杉様との仲裁は、どう答えましょう」
「御神代が申せば、弾正少弼様は直ぐに退くであろう。んっ。‥‥ ということは信長め、上杉との同盟は表向きと知っておるのか!」
内藤が言うように、景虎は僕の家臣を憚らない。
武田と上杉は対等同盟で、景虎は関東管領である。
信勝の陣代など相手にならない地位なのに、仕えているつもりなのだ。
「御屋形様。それでよろしいですか」
小原の言葉を背で聞いて、僕は庭に出た。
桜も終わり辺りは新緑の季節を迎えている。
半年近く戦に明け暮れている。
丁度いい、やめ時だ。 ──
僕は足元にあった石ころを手に座に戻った。
「下総。使者はいくら寄こすと言った?」
何事かと、山県らが手にした赤子の頭ぐらいの石を凝視している。
「一万両と申しておりました」
「ほう」
山県らから溜息が漏れ出す。
一万両は地域によって違いはあるが、米なら二万石程度が買える金額だ。
大金である。
そのうえ城の消失を間逃れ、信忠の命と引き換えに金を貰えるのなら悪くはない。
願ってもな好条件だ。
だが、金さえ出せば折れると思われるのは気に食わない。
本当のことだから、余計に気に障る。
「金の返礼だ」
石を前に投げた。
「ガハッ。信長に庭の石コロを贈りまするか! それは良い」
「そのような石を贈っては、喧嘩を売るようなものですぞ」
「いや、霊験あらたかな石とでも言っておけば、問題にはなりますまい」
小原が不安げな目を向けた。
「和議に応じる。右衛門に下総の帯同を命じる。石の銘はボンクラだ」
「ボ、ボンク‥‥‥? ぎょ、御意」
今の時代では、いくら優秀な土屋でもわかるはずがない。
江戸時代の賭場言葉だ。
賭場を盆を開くといい、その盆が暗い。
つまり、勝敗の見通しができない盆暗というわけである。
当然、信長も意味はわからないだろう。
戦場と賭場をなぞかけした、当て擦りだ。
夏を思わせる日差しの中、信忠は岐阜城の城門を開いた。
列をなす武田兵の中を平服、脇差だけの織田兵が近江に落ちて行く。
罵声や怒声はない。
敗兵に対し粗暴な行為は禁止している。
これは、上野厩橋城で喜多条が降伏し、城から出たときに由来している。
薄気味悪いと言うのだ。
「同輩や親族を殺した憎き敵に、石ひとつ投げないのはかえって困惑致しました。今思えば御神代様の底知れぬ慈悲。感服致した次第です」
慈悲はどうでも、気味悪いほど僕の度量を示せるのは願ってもないことだった。
敗兵に憐れみをかける。──
常に戦では心がけているようにしている。
僕は中山道沿いの高台に、錦の御旗を高々と掲げ、去り行く織田兵を見た。
信忠は近習に囲まれ一度も視線を上げなかった。
負けたことより、金で命を救われたことが屈辱なのだろう。
「そろそろ入城下され」
阿部が朱房の飾りをつけた馬を曳いて来た。
呆れるほど派手な飾りつけだが、これは演出効果を狙ったものだろう。
騎乗すると大歓声が起こった。
派手な演出は家臣らを喜ばせ、歓声は城門を潜っても治まらなかった。




