41 憐憫
日の出前に始まった長久手での戦は、一刻(約二時間)とかからず武田の圧勝だった。
赤備えの突撃に岡崎勢の陣形は崩れ、右陣の岡部らが散々に蹴散らした。
中でも秋山隊は敵陣奥まで切り込み、本陣を突いたため信康が退却。
岡崎勢は総大将を失い、総崩れとなった。
「追え! 追え! 他の部隊に遅れをとるな!」
算を乱して逃げる岡崎勢に武田の兵は執拗に襲い掛かった。
七里(約二十八キロ)の道のいたるところに首のない骸が打ち捨てられていた。
千五、六百は討ち取っているはずだ。
退却の途中で逃亡した兵を合わせれば三千は減っただろう。
留守居と合わせて、籠城している兵数は二千程度になっただろう。
日暮れ前に岡崎城から半里(約二キロ)北の井田城、百々城を陣所とした。
軍議を開きそれぞれの持ち場を決めた。
西側に依田、久野、向井ら二千。東側大手門を朝比奈ら二千。中央の馬出しに山県、秋山ら三千。巴川沿いに岡部、天野ら二千。馬出し後方に本隊千である。
「日の出前に移動。攻撃は各将の判断に任せる」
「はっ」
全員が立ち上がったとき、近習が入ってきてた。
「小原様より使者が参っております。如何いたしましょうか」
「構わない。ここに呼べ」
江尻城の小原の動向は全員が知りたいことだろう。
全員が腰を落とした。
「鉄砲千二百挺、吉田の湊より野田城に運び込みました」
小原の側近が平伏していった。
居並ぶ将から感嘆の声が上がる。
喉から手が出るほど欲しかった鉄砲だ。
全軍合わせて八百挺。岡崎勢相手なら十分だろうが、信長が相手では不安だったのだ。
しかし、命じた覚えはない。
山県に視線を送ると、慌てて首を振った。
「小原は野田城か?」
「い、いえ。主自らも船に乗る予定でしたが、普請奉行が鉄砲と射手以外は必要ないと揉めに揉めまして、野田に入城したのは掻き集めた射手百二十人のみです」
「普請奉行? まさか木下藤吉郎か!」
「はっ。さようです」
織田を良く知る秀吉が、武田の鉄砲の少なさを見抜き手を打ったのだ。
天下を簒奪したのは伊達はない。
「あの男、また出しゃばったか! 小原もよく我慢したものだな」
山県が苦笑いを浮かべた。
切れ者で通っている小原が、新参の秀吉の意見を受け入れたのを驚いているのだ。
「木下藤吉郎とは?」
岡部が秀吉に興味を持ったようだ。
「ほれ、織田の近江三郡に羽柴筑前というのがいただろう。そ奴よ」
「ああ、今浜だか長浜だかの城主ですな。召し抱えたのですか?」
「ほう、知っておったか。普請方に召し抱えたのだ」
武田の武将らにとって、秀吉などたまたま出世した小者あがりの武将にすぎない。
実際、史実とは違い長篠で大敗し、わずか二年ほどで減封され城替えとなっている。
羽柴筑前守秀吉を意識していたのは、歴史を知る僕だけだ。
「攻め方をかえる。鉄砲が不足している隊は取りに行け」
「はっ」
岡崎城攻めに時間をかけることはできない。
ドンドドン、ドンドドン ── ドンドドン、ドンドドン ──
鉄砲の弾丸が馬出しの柵や土手にあたり土埃を巻き上げた。
執拗に行われる斉射に、辺りは白煙に包まれ視界はすこぶる悪い。
ドンドドン、ドンドドン ──
バチッ、バチッ ──
馬出しからの応射に、並べられた竹束が嫌な音を立てる。
「兵が少のうござる。攻め掛かれば落とせまするぞ」
山県が床几から立ち上がった。
門前に築かれた半円土塁の馬出しは、押し寄せた敵を柵と堀で防ぎ、両脇の出口から攻め掛かり攻撃に転じることができる、攻守を兼ね備えた小郭である。
武田が得意とする築城術であるため、山県には弱点も見えるのだろう。
「いや、鉄砲の修練にもなる。徹底的に撃たせろ」
鉄砲に不慣れ者まで駆り出しているのだ。
当たる当たらないなど二の次で、鉄砲数の違いを敵に見せつけければいい。
北側はわざと手薄にしているのは、敵兵が逃げ出しやすくするためだ。
夜襲を警戒して水堀周りに数隊を配備し、陣所の寺に引き上げた。
予定通り城攻めの一日目は鉄砲戦のみで終わらせた。
「明日は各隊の判断で、攻め掛かってよろしいのですな」
「思う存分やってくれ。本丸を落としてもかまわぬぞ」
山県が苛立つのはわからないわけではない。
力攻めで落とす自信があるのだ。
だが、尾張での一戦を前にして、兵の損害をなるべく小さくしたい。
圧倒的火力の差に、今宵のうちに逃げ出す兵も多いだろう。
さらに手薄になれば、やりやすくなるはずだ。
しかし、その夜の訪問者により、明日の攻撃を中止にせざるを得なくなった。
家康の正室、信康の実母、瀬名が、内藤信成を通し面会を申し込んで来たのである。
正室の瀬名は、城より四半里(約一キロ)離れたの築山に屋敷を建て暮らしていて、築山御前と呼ばれていた。
「家康の室、瀬名と申します。御目通りを賜り感謝申し上げます」
ふくよかな顔をした中年の女性である。
「武田四郎だ。用件を聞こう」
「の、信康をお許し下さい。徳に誑かされておるのです」
徳とは信康の正室徳姫のことだ。信長の娘である。
長篠の後、家康が武田に臣下したため、離縁したはずだ。
「徳姫の誘いに乗り、信康は謀反したのか?」
瀬名が肯いた。
「己が妻と子を取り返すのだと。・・・申し訳ありませぬ」
「ほう」
驚きである。本気で感心した。
妻子を取り戻すために無謀な戦に出た信康に感動さえ覚えた。
徳姫は九歳で嫁いでいる。信康も同じ齢で、以後八年近くを夫婦として暮らしてきた。
娘が生まれた直後、同盟を破棄し徳姫は離縁となり戻されている。
互いに想い合っていたのならば憐れである。
「降伏すれば命までは取らない。しかし、信康は承知しないのではないか」
三方ヶ原の過ちをまた踏んだのも、信康の焦りのせいだろう。
「わ、わたしが、母が人質になれば信康は降ります」
敵陣にきた理由がわかった。
自ら捕虜になり嫁と母のどちらを選ぶか信康に決めさせるつもりなのだ。
史実でも嫁姑は上手くいっていなかった。
勝頼内通を信長に密告したのは徳と言われている。
信長の娘なのだから当然のことだが、おかげで信康は切腹、築山は斬首となっているのだ。
「瀬名殿。そのような交渉をわたしがすると思うか」
瀬名は不敵な笑みを浮かべた。
「後見であった石川伯耆守を使者に立てまする」
僕は瀬名に押し切られ二日の猶予を与えた。
「御神代。無駄でござりましょう。信康が折れるはずがない」
山県を居室に呼び、瀬名との一件を話した。
当然の反応だ。二日を無駄に過ごすことになりかねないのだ。
「すまない。わたしのわがままだ」
信康に同情し瀬名に押し切られたとは言えなかった。
「まあ、石川伯耆を引き込めたのは上々。仰せの通りに致しまする」
山県はそう言って部屋を出て行った。
おそらく神託があったのだと勘違いしたのだろう。
ぐずぐず言われないのはありがたいが、歴史は変ったのだ。
この先どうなるかなど、もう僕にわからない。
全くの未知だ。
心底そう思っていた。
だが、二日後に起こったことを見ると、全てが変わったわけではないのかもしれない。
信康が石川に刺殺されてしまったのだ。




