4 現実の快楽
天を仰げば、澄みきった空に高くたなびく鱗雲が見えた。
僕は首が痛くなるまで顔を上げ、吹き渡る爽やかな風に秋の訪れを全身に感じた。
「ササの御用意が整いました」
小袖姿の紗矢が酒の支度が出来たと呼びにきた。新たに抱えた側室だ。
「打掛ではまだ暑いか?」
はにかみながら首を振った。
紗矢はけして打掛を着ない。他の待女の目を気にするのだろう。
紗矢の歳は二十一歳。大柄で肉付きよく肌は白いものの、大きな眼と鼻梁の通った躑躅ヶ崎館一の醜女で名を馳せていた。その醜さのためなかなか嫁の行き先が決まらず苦悩した父親は伝手を頼り紗矢を館の側室付きの侍女として入れた。
側室はその容姿に驚き、毛嫌いして、人目につかぬよう下女の仕事ばかりをやらせていた。
僕が紗矢を知ったのも偶然であった。井戸端で下働き女たちの中に途轍もない美人がいるのに気づいたのだ。
勝頼には正室のほか側室が五人いた。長期入院をしていた僕にとって、涎の出るような生活だったが、美女の誉れ高い女たちは、能面の女面のような顔だった。
美女の基準が違いすぎるのだ。不健康そうな色白小太りはかしづかれて育ったの証で、日焼けし引き締まった身体は食うや食わずの下賤の出自になるのだ。
お歯黒、引き眉では禁欲生活の長かった僕でも食指は動かなかった。
正室、側室との同衾は怪我を理由に遠ざけていた。
この時代では美女は能面のような顔立ちなのだから、紗矢のような鼻筋の通った細面の顔はとんでもない醜女扱いだ。
だが、僕は違う。紗矢は美しい女性だ。
紗矢を側室にすると、家臣らは呆れ、ますます狂人と見なされるようになった。
九月 ── 武田勢八千は浜松城に侵攻した。
重臣らが画策し、陣代である僕を外して軍議の前に話しが決まっていたのだ。体裁を整えるだけの軍議に僕はむっとし、ぐずぐずと出陣を渋っていたら、「御留守居で結構」と突き放され、「お美しい側女でも可愛がっていなされ」と下卑た嘲りを浴びせられた。
腹が立ったが、どうせ重臣らは城ひとつ落とすことなどできやしない。
ふた月ほど東三河で小競り合いを繰り返し戻ってくるだ。僕としては家老衆がその間いなくなるのは好都合だった。
「小山田左兵衛尉様がお見えです」
「うむ。通せ」
廊下を踏み鳴らし小山田信茂が入ってきて平伏した。
「お呼びにより小山田罷り越しました。御身体が優れぬと聞いておりましたが」
「挨拶などよい。近くにこい。頼みがあるのだ」
取って付けたような挨拶など聞く気はない。浜松攻めから重臣らが戻らぬうちに話を決めなければならない。
「そなたに鉄砲隊を組織してほしい」
「そ、それは! 我が隊に御不満があらされるのか」
小山田は血相を変えた。小山田隊の主力は投石である。
鉄砲の有効殺傷距離は50メートル程度に対し、小山田隊の投石は縄や割り竹を使い200メートルも飛ばすし、至近距離からの威力も直撃すれば命を落とす。敵からもっとも嫌がられる部隊だ。石などその辺の河原にいくらでもあるので、金がかからないという利点もある。それに騎馬を主力とする武田にとって轟音を発する鉄砲は馬が驚くので嫌われているというのもあり、鉄砲はあるにはあるが重要武器として用いられていないのが現状だった。
「不満はない。だが、どうしても鉄砲が必要なのだ。最前線のそなただから頼むのだ」
「他の者に、御命じて下され。それがしには」
「記憶がないのだ」
「はあ? …… なにの ……」
「撃たれてから、過去のことが全て消えた。だが、先のことが分かるようになった」
「な、何を、お戯れを」
「狂っているわけではない。よく聞け。年明けに本願寺顕如より使いが来る。信長が本願寺に与する城を攻めるというものだ。親族、家老衆は徳川攻めの好機と捉え、出陣することになるのだ。だが、本願寺派の城は早々に落城し、信長は二万の兵を率いて救援に駆け付ける。対する我が軍は、徳川だけと侮り一万五千の兵力だ」
「ま、まさか……」
小山田の眼に恐怖の色が走った。話している僕でさえ、まともではないと思っているのだから当然だろう。
「必ずそうなる。ふふっ。狂人の戯言と思われればそれまでだがな」
僕は金粒の詰まった袋を渡し、鉄砲を買えと命じた。
信じたどうかはわからない。なら、鉄砲購入の既成事実だけ作ってしまおうというわけだ。
信茂は訝し気な顔つきで、それでも袋は押し戴き退出した。
(あとひとつ。こっちの方が重要だ)
信茂は言われた通り鉄砲隊を組織する。勝頼を裏切り汚名を着せられるが、裏を返せば最後まで残った要領の悪い家臣なのだ。親族衆など先を争い織田に寝返っている。
小山田信茂は必ず役に立つ。
あと、もう一人味方につけなければならない。こちらを口説くのは骨が折れそうだ。