39 岡崎城攻め
「陣触れは如何致します。遠、駿、三に発しまするか」
野田城の大手門の前に岡部が出迎えた。
まだ着いたばかりなのだろう。街道には荷馬が列を作っていた。
「奥三河は当てには出来きませぬぞ。家康についたかもしれませぬ」
山県が言うのは、菅沼や奥平のことだ。
信濃、三河、遠江への道があり重要地点であったことから、侵略者に対し一族が敵味方に別れ、家の存続をはかってきたのだ。
長篠城で討ち取った奥平貞昌も今川、徳川、武田と寝返りを繰り返し、また徳川に帰参したという経過がある。
「軍議を開く。陣触れはそれからでよい」
野田城は長篠城から移した小笠原信興の居城であるが、土屋の与力として尾張沓掛城にいるのだ。
よって、留守居の兵は四百に満たない。
岡部の兵と合わせて九百程度だ。
吉田城の朝比奈も五百ほどだが、天野景貫は在城で千は見込める。
総数三千七百 ──
城を空っぽにしても岡崎城の軍勢より少ない兵数だ。
野田城と吉田城の距離は四里(約十六キロ)ほど、馬を飛ばせば一刻(二時間)もかからない。
朝比奈、天野が駆けつけてきて軍議となった。
山県、岡部、朝比奈、天野、大島と野田城留守居役の本間が、岡崎を描いた絵図面を取り囲み座った。
「この辺りに布陣しております」
大島が岡崎城の東に白石を置いた。
岡崎城からおおよそ二里半(約十キロ)、野田城からは六里(約二十四キロ)の山中らしい。
「山中を通れば、野田に向かうのは容易ではないか?」
岡部でなくともそう思う。東側の山道にまで兵を出しているとは思えない。
「主、善右衛門尉はここで踏みとどまるゆえ、御陣代様にお伝えしよと申しました」
「踏みとどまる? 自ら陣を張ったのか。何故じゃ?」
「よくわかりませぬが、離れるわけにはいかぬと」
大島が頭を下げた。秋山独特の感が働いたのだろう。
信玄の頃から神出鬼没が持ち味だ。武田の先手で右に出る者はいない。
「岡崎の兵を動かさぬためですな。それにしても無茶をする」
山県が見抜いた。
家康単独で兵を挙げるはずがない。信長が動くのだ。
「遠、駿、三、仁科に陣触れを出せ。関東の旗頭にも報せろ。場合によっては動かす」
「はっ」
山県が不敵な笑顔を浮かべた。
岡崎城に秋山が張りついていれば兵は動けない。
軍勢を揃える時間は十分にあると踏んだのだ。
「お、お待ち下され」
軍議が終るというときに、野田城留守居役の本間が甲高い声を発した。
六十はとうに越えた老将だ。
「なんだ?」
岡部が本間を睨んだ。
大島と本間は陪臣である。
身分上、問われたことは答えられるが、自らの発言は控えなければならない。
「三河守様は岡崎にはおられませぬ。那護野の城を直し居城としておりまする」
「それがどうした」
岡部が声を荒げた。
岡崎に居ないのは皆知っている。
本間の主人小笠原信興も家康も土屋の与力として尾張にいるのだ。
いや、待て。 ──
「伊勢、那護野、岐阜、岡崎。土屋は四方を囲まれると言いたいのか」
「御意」
老将は飄々と頭を下げた。
山県が舌打ちが広間に響き渡る。
悠長に構えている暇は無くなった。
打って出なければ土屋らが殲滅されるのだ。
「鉄砲は、何挺ある?」
本隊百、野田城五十、岡部百、朝比奈百二十、天野二百。合計五百七十挺であった。
通常の戦備えなら十分な数だが、相手が信長となると心許ない。
家康はどうだろう。
長篠で散々叩いた。
鉄砲を軽んじていることを祈るしかない。
「では、御陣代。暴れてきますぞ」
「うむ。依田らが来れば、わたしもすぐに出る」
「はっ。その前に小城は片づけておきまする」
山県が深々と頭を下げ軍列に戻って行った。
陣触れを発し二日が経っていた。
浜松に残してきた赤備え五百は、一夜のうちに野田城に入っている。
赤備えの機動力には敵わないものの、昼前に向井正重三百、午後には久野忠宗二百、武藤常正百五十と遠、三衆が駆けつけてきた。
わずか千ほどの増兵だが、貴重な戦力だ。
山県は赤備え千三百に岡部五百を加え、千八百で打って出た。
五、六千の岡崎勢に対し、無謀ともいえる攻撃に出るしかなかったのは、奧三河勢同様、誰が敵なのか、わからないからだ。
岡崎城近くに陣張りして、参陣した者は味方、城を閉ざした者は敵とすることにしたのだ。
実に荒っぽいやり方だが、こうするほか短時間で選別する方法がなかったのだ。
山県の陣を張る場所は、岡崎城から東南三里(約十二キロ)の荻の廃城だ。
土塁や堀が残っていて、多少の手を入れれば、平地よりは使える跡地で、家康の一族の大草城と深構城の真ん中である。
挟撃されれば、窮地に落ちかねない危険な場所だが、秋山に荷駄を届けて遊撃隊とした。
岡崎の兵が出撃すれば、秋山が食いつくはずだ。
その日の夕方、依田信潘三百が野田城に入った。
それに加え、家康方と見ていた奥三河の菅沼、奥山が参陣を伝えてきている。
奥三河勢は兵農分離が遅れていて徴兵に手間取っているようだが、明後日の夜までには入城できるらしい。
「武藤。遅れて参陣してくる兵らを纏めてわたしの陣所に送れ。明朝出陣する。」
「御意」
寄せ集めの兵でも、僕は戦場に出なければならない。
岡崎の敵兵はもとより、信長に圧力をかけるのだ。
夜明け前に野田城を出た。
朝比奈隊を先頭に二千六百の寄せ集めの兵で出陣した。
吐く息は白く、頬にあたる風は冷たい。
あと六日で年が変わる。新年を戦場で迎えることになるだろう。
将軍家の陣旗を押し出しての行軍だった。
天照大神の金文字は残し、八幡大菩薩の文字は消してはあるが、白地日の丸の錦御旗だ。
二本の武田菱の昇旗、白熊毛、金の大脇立ての兜姿なら遠目にも僕とわかるはずだ。
狙撃を警戒しながらの行軍だが、僕の出陣を敵に知らしめるためなのだから仕方がない。
三河の道は整備が行き届いており、日が落ちる前に荻廃城に何事もなく着いた。
「深構城を陣所に致しました。どうぞそちらへ」
山県の侵攻に、半里(約二キロ)東の深構城は自落していたようだ。
城と城の間に中入りされるのを嫌い、西の大草城に兵を移したのだろう。
深構城は浅い堀と土塀を廻しただけの屋敷のような城であった。
よほど寺の方が防御に優れているように見えたが、意外に中は広く何棟も建物があり、寒さを凌げるのはありがたかった。
「三河の者らが参陣してきております。お会い頂けますか」
「うむ。会おう」
家康を見限った者が参陣したのだ。
これで状況がわかる。
広間に入ると三人の武将が頭を下げた。
「お目通りを頂き恐悦至極に存じまする。内藤三左衛門にございます」
「滝脇の松平出雲でございます」
「五井の松平弥三郎です」
内藤三左衛門信成。家康の腹違いの弟である。
出自は複雑で家康の父広忠が、家臣の内藤清長の娘に手を出し出来た子で、娘は嶋田某に嫁いでから三月で信成を生んだらしい。
清長は孫の信成を引き取り養子とした。
家康に弟と認められるのは十三歳になってからである。
清長の居城は荻城で、信成はいま陣張りしている荻城で育ったのだ。
荻城が廃城となった原因は、祖父内藤清長が一向宗に与したためである。
蟄居中に亡くなったとされているが、城が破却されていることから、表には出せない事情があるのだろう。
「家康は参陣もせず報せもない。嫡男と共に挙兵した。そうだな」
山県の言葉に信成が肯いた。
「三郎公に押し切られたようです」
内藤信成は猛将であったらしいが、とてもそうは見えなかった。
三方ケ原、長篠、小牧長久手と大きな戦には必ず参陣し奮戦しているらしいのだ。
だが、信成は北条滅亡の後、家康が関東二百五十万石に移封されたおり、わずか四千石を加増され伊豆一万石になっただけだ。
いくらケチな家康でも猛将の弟に一万石とは少なすぎるだろう。
多分これは、後世に神君家康の弟を凡将とは書けず猛将と脚色したのだろう。
滝脇も五井も一族というのに、一、二千石の旗本止まりだ。
つまり、この三人は一族だが、家康にとっては役に立たない家臣であったということだ。
「其の方らの忠義褒めて遣わす。徳川家中はすべて家康に従ったのか?」
「はっ。桜井、藤井、竹谷の松平。石川伯耆守が参陣を断わったようです」
家康に加担しなかったが、参陣はない。
日和見をしているのだろう。
「其の方、なぜ兄に着かなかった」
奥三河勢のように、敵味方に分かれることは小領主では珍しいことではない。
家を保つためだ。
だが、信成は謀反人の弟である。武田では出世は見込めない。
「・・・・・・ それがしは出来の悪い家臣にすぎませぬ」
内藤は寂しそうに笑った。
景虎同様、他人には言えない扱いを受けてきたようだ。




