37 地固め
「大義であった」
「ははっ」
上座の武田家当主信勝に深々と頭を下げた。
自分の息子で、しかも十三歳の子供である。
それでも息子の陣代の僕は、北条征伐の報告をして這いつくばり、言葉を頂くのだ。
別室では軍事、内政改革の話しをするため逍遥軒信廉を待たせている。
元服前の信勝では、軍事、内政のことを話してもわからないからだ。
まったく、面倒くさい仕組みを考えたものである。
信玄は父を追放し嫡男を自刃させ、死に際してわずか七歳の孫を継承者に選んだ。
勝頼は嫡男が成人するまでの代理とされ、武田家の識標全ての使用を禁じられた。
許されたのは古臭い兜の使用のみである。
諏訪法性の兜などと呼ばれている筋兜を白毛で覆ったものだ。
重い兜で頭を押さえつけるとの意味を込めたのではないかと勘繰りたくもなる。
代理が出しゃばらないよう重石も乗せ押さえておく。ありそうな考えだ。
親族衆が未だに、僕を軽んじているのは信玄の意図を知っているからだろう。
「四郎殿。そなたの功績は重々分かっているが、一体武田家をどうしようというのだ」
逍遥軒信廉が、軍事改書を膝元に置いた。
武田家などどうする気もない。甲斐の守護として君臨していればそれでいい。
だが、そうも言えない。
「領国を侵す敵に対応しなければ、安心して信勝も家を継げますまい。違いますか叔父上」
逍遥軒は苦虫を噛みつぶしたような顔になった。
「やれというなら、わたしが旗頭を務めよう。知行に不足はない。ただ、新参の徳川に二十万石とは如何なる所存か」
「家康から三河、尾張を取り上げるのだ。二十万石なら妥当でしょう」
数字上は三河、尾張七十万石から、相模、武蔵二十万石の大幅な減封である。
三河半国を与えたとき、尾張を奪えと焚きつけたのは僕だ。
家康は見事に応え、浅井、朝倉の遺臣を使い尾張を奪い取った。
尾張は五十七万石、三河半国と合わせて七十万石の大名に返り咲いたのだ。
しかし、徳川単独では尾張を治めることはできなかった。
信長の切り崩しに土豪、地侍が織田に流れては国は保てない。
山県が心配した通り、尾張をみやげに織田に通じる動きもあったようだ。
土屋が前面にでなければ、尾張は信長に奪回されていただろう。
「徳川など潰してしまえばよいではないか」
家康に使い道がある。そのために三河半国を与えたのだ。
「国替えを拒めばそうします。では、これでよろしいですね」
家康は拒めないだろう。土屋に策を授けてある。
「待たれい。改めはこれでいいが、伊豆の金山奉行に栗原日向を就けて頂きたい」
なるほど。山県が言った通り、息のかかった者をねじ込んできた。
信玄の頃より金は甲府に運ばれ改鋳されて貨幣となっていた。
貨幣は鋳造精錬した金銀に、打刻しただけの秤量貨幣(品質、量を計って使う)である。
その鋳造には金座衆と呼ばれる職人が就いているし、計量する秤や枡の製造も特定の職人に許可を与え公用としている。
これらの者すべてが逍遥軒の管理下に置かれているのだ。
「まあ、いいでしょう。わたしはしばらく江尻城で新領地経営に専念する」
逍遥軒が、栗原を使い懐肥やすとしても、一年程度のことになるはずだ。
越後の御館ですすめている貨幣鋳造が成れば、特権を失うことになるのだ。
密かに越後の神余信親綱を使い、京の彫金師の後藤家から腕のいい職人を引き抜かせ、御館の鋳造所で貨幣を造っている。江戸幕府を模倣したものだ。
切銀や碁石金のよう秤量貨幣ではない。額面を記載した計数貨幣だ。
一文銭も明銭や宋銭ではなく、独自の文銭を造る予定だ。
当然、これも家康にやらせる。
躑躅ケ崎館を出て湯村山館に戻った。
ここだけが、僕が唯一甲府で寛げる場所だ。
紗矢がいるからだろう。
「なあ、紗矢。江尻城に来ないか」
「甲斐を離れるのですか」
側室にして四年であるが、共に暮らした日数は、一年あるか、ないかだ。
二十五の紗矢は妖艶さも増し、僕の側室言うのが信じられないほど美しく、側に置いておきたい。
「嫌か? 義父、義弟も居るぞ。どうだ」
紗矢の家を下級武士のままにしておけず、本隊の事務方に就けている。
「どこへでも参ります。紗矢は海が見とうございました」
「そうか。紗矢は海を見たことがないのか。船で沖に出てみるといい。大きさに驚くぞ」
「はい。楽しみです」
これで、甲府には何の未練も無くなった。
僕は何の決定権も持たない代理職だ。
旗頭という存在を作れば、僕などいなくても困らないだろう。
「如何でしたか」
「伊豆の金山を押さえられた」
鎌倉の屋敷、通称鎌倉御所に山県を呼び、今後について話し合う。
「ワハハッ。逍遥軒様らしい。まあ、備え改めに手を出さなかったのは良しですな」
山県が豪快に笑った。金がらみの権利に手を出すのは読んでいたのだ。
「これから金が掛かるのだ。伊豆の金銀を自由に使えなくなった」
道の整備は物流を良くするだけではない。内需拡大にもなる。
「ハハッ。御神代様なら何とかなるでしょう」
確かに、逍遥軒は北条の伊豆の金山は土肥だけだと思っている。
まだ湯ヶ島、縄地は手つかずなのだ。栗原を欺き掘り出すことはできるだろう。
「おお、そうでした。右衛門尉から手紙が届きました。家康が承諾したようです」
「うまくいったか。うむ」
土屋に命じたのは家康に国替えの内示を伝えることではない。
織田との内通を僕が疑っていると報せることだった。
疑いを解くには尾張を離れろと、土屋に脅しをかけさせたのだ。
身に覚えのある家康は、渋々国替えを承諾したようだ。
「鎌倉に呼ぶのは、関東の旗頭と副将らだけでよろしいのでしたな」
「ああ、家康は岡崎で言い渡せばいいだろう」
逍遥軒を除いた六人を鎌倉に集めることはできない。
信長への警戒を緩めるわけにはいかないのだ。
まずは関東の旗頭三人と副将十人を鎌倉に呼び論功行賞を兼ね領地替えを命ずる。
「駿河から西の将は、尾張までズレていけばよろしいが、本隊の将の知行地は甲斐がほとんど。城の受け取りも大変ですぞ」
山県が遠、駿、三の旗頭といっても駿河江尻城に僕が入る。
小原や跡部の知行地は駿河にしてある。
山県は江尻城から浜松城を居城にすることになっていて、朝比奈信興、岡部政綱ら駿河衆を西の遠江、三河に移すのだ。
駿河衆は平坦な東海道を移動できるが、甲斐からではいくつもの峠を越える山道で、女子ども年寄には冬は無理だろう。
深志城の馬場に至っては、小田原城まで、四十五里(約百八十キロ)にもなる。
織田に備えなければならない遠、駿、三だけは年内に終わらせればよい。
「甲斐、信濃からの領地替えは春になってからでいい」
上杉からの脅威はない。だから逍遥軒ら親族衆に、北、東信濃を与えたのだ。
ただし、北信の海津城の高坂は仁科の副将とし、東信の上田城の真田昌輝を逍遥軒の配下に組み込んだ。
甲斐から地続きとしない処置で、監視としての意味もある。
あと二年で陣代の僕は用済みになり、全ての権利を奪われるだろう。
そうなる前に出来る限りの手を打ったのだ。
鎌倉での論功行賞は三人の旗頭と十人副将を一堂に会し行った。
相模旗頭、馬場昌房と副将の小山田信茂、曾根昌世、小宮山友晴、望月信永。
上野旗頭、和田業繁と副将の原昌胤、真田信綱、安中景繁。
武蔵旗頭、内藤昌豊と副将の三枝昌貞、小幡信貞、上杉氏憲である。
氏憲は上杉方だが、憲政のたっての希望で内藤の配下とした。
約束通り、和田には総赤の吹貫、銀団子の出し。内藤には総白の吹貫、白鳥毛の出し。
馬場には黒の二段鳥毛丸を馬標を与えた。
吹貫とは、鯉登の吹き流しのことで標としている武将も多いが、武田では二人が使用する。
真田に与えた馬標を小ぶりなものにするように命じたのは、旗頭を慮ってのことだ。
真田は馬標の使用を禁じられると思っていたようだが、手柄を立てた副将に特別に使用を認める小馬標ということにした。
まったく後付けだが、副将らが、これでやる気になれば安いものだ。




