31 帰城
天正七年三月 ──
僕は躑躅ケ崎館に戻った。実に一年半ぶりである。
「三郎様! 陣代という立場をなんとお思いか!」
「馬場美濃守や多くの兵を失って、七尾城だけとはどういう御所存であらされまするか」
早速、叔父の逍遥軒信廉と川窪信実が押しかけてきて問いただされた。
山県ら重臣が僕についているので強くは言わないが、甲斐を取り仕切っているのは、逍遥軒である。
親族衆を束ね信勝の後見のような振る舞いをしているのだ。
口ぶりから今でも勝頼を認めていないのがわかる。
「叔父御らがいれば甲斐は問題あるまい。上杉と同盟を結ぶのだ。上野と能登七尾でなんの不足があろうか」
僕は精一杯の抵抗を試みる。
「我らになんの相談もなく同盟を結ばれるのが、陣代としてどうかと問うておるのです」
これが本音だろう。越後、越中、能登、加賀を奪い取れば、あと三年足らずで己等のものになると思っているのだ。
信勝が十六になれば信玄の遺言に従って武田家当主なり、僕は当主の父親という、何の権限もない存在になる。
「同盟を結ばねば織田に対抗できない。御不満なら、どうぞ陣代を外してください」
今までとは違う。僕は武田などいつでも投げ出せるようになったのだ。
十六まで待たずに信勝が当主となるとういうなら、それでいい。
「なっ。 そ、その様なことを申し上げているのではない」
「さ、さよう。太郎様が十六になるまでは陣代を務めて頂く」
今、信勝を当主にしたら、家臣を纏める自信が無いのだ。
ならば、黙っていればいいのに、己の存在を誇示するために、わざわざ押しかけて苦情を言い立てる。
まったく、親族衆などろくでもない。
手に入れた佐渡、越中の金銀山を表に出さず隠したのは、この叔父らのような親族衆に押さえられるからだ。武田家の所有とされれば、陣代の僕では手の出しようがなくなる。
金堀衆を佐渡に送り、相川周辺は既に堀り進めている。
江戸期、年間、金百六貫(約四百キロ)、銀一万貫(約三十七・五トン)という膨大な量を掘りだしているのだ。もっとも労力として江戸の罪人を使役しているので、今の段階でこの量は無理だが、相当なものになるはずだ。
越中の金銀山は、加賀前田藩を潤した越中七金山といわれ、富山藩に分藩したときも手放さず隠し通したと言われている。
新川、松倉、河原波、虎谷、下田、亀谷、吉野、鉛山の長嶺である。
これらの金銀山を武田の直轄地とするのに、景虎、河田に異存はなかったが、僕が親族衆を警戒して表に出さなかったのだ。
七尾城城代に横田尹松を入れ鉱山管理の拠点とし、極秘裏に鉱山奉行に大久保新之丞、土屋十兵衛を任命した。土屋は大久保の弟で、のちの大久保長安である。
ちなみに、史実では横田の父綱松と新之丞が長篠で討死している。
土屋には、魚沼東の赤川の奥地を探すように命じているが、人も踏み入れたことのない秘境のようで、まだ発見に至っていない。
是が非でも上田銀山、白峯銀山は手に入れたいところだが、時間はかかるだろう。
掘り出した金銀は御館に設けた鋳造所で、碁石金や分銅金、銀、切り銀を作らせていた。
それらは全てを御館の金蔵に隠しているのだ。
親族衆の耳に入っても、上杉の金と突っぱねればいい。
景虎、憲政が、どこまで信用できるかはわからないが、親族衆よりはマシであろうと考えてのことだった。
「朝廷はよいとして、今更、将軍家に献金など必要とは思いませぬが」
逍遥軒が話題を変えた。
謙信の貯め込んだ金は三割を景虎に渡し、残りを町の復旧や御館の再建、家臣の恩賞のほかに、遠交近攻のため、朝廷と安芸に身を寄せている将軍義昭に献金した。
京の情勢に精通した神余親綱に動いて貰ったのだ。
確かに将軍義昭は形骸化しており無駄金だろう。だが、毛利は使える。
信長との戦を長く続けさせるには、武田の存在を示すのが一番だからだ。
包囲網を匂わせるだけで、組んで戦う気はさらさらない。
一、二年戦を続けてくれれば、それでいい。
それと本願寺顕如には、加賀を取り返したと報せている。
武田がいかに犠牲を払って加賀から織田軍を追い出したのか、恩着せがましく綴っておいた。
これで、顕如も本願寺を退去することはないだろう。
史実では来年の天正八年に信長と和睦し紀伊の鷺森御坊に移ってしまうのだ。
「足利家は源氏の頭領だ。それに信勝の名で送ったのだ。問題あるまい」
親族衆は僕を無位無官で置いときたいのだ。
逍遥軒と川窪は、薄笑いを浮かべた。
「今後は我らにも、知らせて頂きたい」
二人はそう言い残して退出した。
親族衆の権力を削ぎたいが、信勝は親族衆ばかりを頼っていて、父勝頼を尊敬はしているようだが、妙によそよそしい。
もっとも、僕も勝頼の子としか見ていないのだからお互い様だ。
正直、どう扱っていいのかわからないのが現状である。
躑躅ケ崎館は、僕には物凄く居心地が悪い。
側室も息子も家臣も勝頼の物のままなのだ。
早々に湯村山館の紗矢のもとに移った。
甲斐では、ここだけが僕の場所だ。
「狙い通り葦名と佐竹が手切れになったようですな」
座るなり山県が言った。
湯村山館に山県と内藤を呼んだのは、小田原北条攻めのためだ。
「やはり須賀が撃ったのは、盛氏と義重であったのでしょうか?」
内藤の問いに僕は首を振った。
葦名盛氏の死因はわからないが、馬上で談笑していた武者は盛氏と義重だったようだ。
だから、噂を撒いた。義重が盛氏を楯にしたと。
家督を継いだ盛興と佐竹義重の間で諍いが起ったということは、強ち間違いではなかったようだ。
「伊達が葦名につけばおもしろいが、こればかりはわからない」
佐竹が動けなければ、宇都宮、結城も動く事はない。
期待はできないが常陸南部の小田氏治、下総の梁田晴助に誘いを掛けている。
佐竹の侵攻を防ぐため北条に逆らうことはまずないが、常陸南部、下総の佐竹方の押さえになれば、兵を動かしやすいと考えたからだ。
忍城の成田、安房の里見は誘いに乗らなかった。中立の立場を取りたいようだ。
武田優勢と見れば傘下に入り、劣勢となれば敵に回る、戦国領主の生き残り術だろう。
「関東の国人衆などあてにはできませぬ。小田原城は難攻不落。引き籠るのが北条の手」
内藤が北条攻めに難色を示した。
謙信は十万ともいわれる兵数で小田原城を攻めたが、城に引き籠った北条を攻めあぐね撤退している。
後世の豊臣秀吉でさえ、圧倒的な兵数をもってしても、小田原城の力攻めは避けている。
町や田畑まで土塁で囲った総構えは、大軍をもってしても容易ではないのだ。
「御神代の考える策をお聞かせ願いたい」
山県も小田原攻撃は無謀と捉えているようだ。
僕は小姓に絵図を広げさせた。
「小田原を三方から攻める。狙いは、川越、小机、玉繩、三浦城だ」
駿河、甲斐、上野から攻め掛かるが、狙いは小田原の東側だ。
「忍城は動かぬとして、北条氏邦の鉢形城がありますぞ」
「上野勢に上杉を組み込む。五郎殿にも出てもらう予定だ」
揚北が治まっていない現状では、上杉の兵数は越中、能登の兵を加えて一万が精々だろうが、関東管領として上杉景虎、憲政が出陣すれば、川越、鉢形辺りの土豪、地侍が北条に味方するのを躊躇するかもしれない。
将軍同様名ばかりでも、北条の参陣要請を拒否することもできるだろう。
「御館様が出馬しますか⁉ おもしろい! ぜひ上野勢に加えて頂きたい」
揚北の戦で帰国させられたことが、不満だったのだ。
「そのつもりだ」
山県がにんまりと笑った。この笑いが出たということは武田に分があるということだ。
「お待ちくだされ。小田原攻略に時をかければ信長が出てきましょう。兵を分断したのでは、尾張、三河が持ちませぬぞ」
内藤が言うのは正しい。尾張を奪った家康は、土屋の援護で何とか保っているのだ。
「氏政を小田原に釘付けにするだけでいいのだ。なんとしても鎌倉を手に入れたい」
「鎌倉⁉ 何故、鎌倉などに」
「上杉の二人と住むのだ」
「な、なんと⁉」
内藤、山県が目を見開いた。
「それだけではないぞ。川越、小机、玉繩、三浦城に兵を入れる。二万、いや三万だ」
武田の兵農分離は済んでいる。謙信と違い農繁期に兵を帰村させる必要はない。
兵糧、武器弾薬の補給は上野から川を使って運べばいい。
占領地からの年貢などあてにせず、佐渡、越中の金銀を北条との戦に全部使うつもりだ。
「小田原城ではなく、相模国を囲んでしまわれるのですか」
結果的にはそうなるが、城に入った兵は臨戦態勢をせる。
常に兵が出撃体制を取っていれば、北条の反撃に即応できる。
「亡き御屋形様が申された新鎌倉幕府ではございますな」
山県が身を乗り出した。
「なんだ。その話は? ワシは知らぬぞ」
「若い頃一度だけ聞いたのだ。将軍となり鎌倉に幕府を開くと。かなりお酔いになられておったので、座を盛り上げるための話しだと思っておったが」
僕は知っていた。五十年後に発行される甲陽軍鑑には、星の谷という所だと書かれている。
だが、星の谷に住むのではない。鎌倉に屋敷を構えるのだ。
「弾正少弼が謙信に倣って鶴岡八幡宮で関東管領を就任する。それを利用する」
関東管領と武田が鎌倉に入れば、山県と同じような考えをする関東の国人衆がでるはずだ。
氏政がどう出るか見ものである。




