3 ばれはじめた
天正二年五月 ──
塩買峠を越えた武田本隊は、大井川を渡って十二日高天神城城を包囲した。
高天神城は鶴舞山の山頂にある。東南北が断崖絶壁、西は渓谷と峻嶮な尾根に続いている。
駿河から武田の侵攻を食い止める、海側の要衝だ。
北には山塊を挟んで三里のところに掛川城があり、大軍が通れるのは、海側か、掛川城附近の二つしかなく、ゆえに両城とも護りは固い。
高天神城の城主は元今川家臣小笠原氏助。二十四、五の武将である。掛川城主石川家成が徳川家譜代の家臣というのを鑑みれば、家老らの賛成も狙いが間違っていないためだろう。
「ゆるりと攻めよ」
焦る必要はない。伊那から秋山信友に三千の兵を預け、東三河に侵攻させている。
家康は秋山に備えていて高天神城を救援することはない。二万の兵が効いているのだ。
家康は織田信長の救援を待ち不毛な日々を送ることになるはずだ。
高天神城攻めは、周辺の砦の攻撃と南側の水堤の切り崩しから始めることにした。
力攻めを望む宿老から苦言がくるほどの緩い攻めだ。だが、これでいい。どうせ家康は間に合わない。無用な死傷者を出す必要はない。
高天神城を守る砦も宿老が望むような戦闘はなく全て占拠した。ほとんどの砦は兵が逃げ出していたのである。水堤の切り崩しも十日ほどで成功した。
「ひとつ、ひとつ曲輪を潰していけ。無理攻めはするなよ」
南側をある程度攻めれば、西峰に攻撃を転ずる予定だ。こちらは宿老が望む通り力攻めになる。西峰攻撃から十日とかからず小笠原氏助は降伏する。ひと月の戦闘で高天神城は落ちるのだ。
「長坂様と跡部様がまいられました」
「うむ。通せ」
僕は本陣とした正龍寺から一歩も出ていない。総大将が戦場に出なくとも高天神城は落ちるのだ。なら、この夢が覚めないよう、手を打つことが重要と思ったからだ。
「お呼びにより罷り越しました」
長坂長閑斎と跡部勝資が平伏した。この二人も高遠城主となった十七の勝頼を支えてきた側近中の側近である。
「其の方らに、駿河の検地を命ずる」
抑揚を押さえなければいけない。冷酷な主人を装うのだ。
「わ、我らが検地など! なぜでございます」
「承服できませぬ。他の者にやらせてくだされ」
当然の反応だ。勝頼が宗家を継いだのは己等の功績だと思っているのだ。
庶家の勝頼を相応しくないと思う親族衆と、信玄を崇敬し比べる宿老衆。それを増上慢の側近が火に油を注いでいる。
「其の方らだから命じるのだ。金は粗方掘り尽くしている。甲斐では碌に米はとれない。正確な石高を知らなければ戦費は賄えない。それでも断るか?」
この二人は武官ではない。文官なのだ。断れば近習から外し遠ざけるつもりだった。
「お引き受けいたします」
渋々頭を下げた。
「よいか。嫌がる領主らに無理強いはするな。日数をかけてよい」
正直、石高などどうでもよかった。駿河が終れば甲斐、信濃と次々にやらせるつもりだ。
軍政に口を出させない。これで宿老衆との諍いは抑えられる。
六月半ば過ぎ、史実通り高天神城主小笠原氏助は降伏した。元今川家臣だけあって、死を賭して家康に忠誠を尽くすつもりはないのだ。
家康は信長の援軍が到着してから出陣したため、吉田辺りで高天神城降伏を知ったようだ。これを小笠原氏助は裏切られたと思ったようで臣下を願ってきた。
氏助に信興という名を与え、所領半地で安堵した。領地の回復は働き次第という訳だ。
鞍替えをよしとしない小笠原の家臣も大勢いたが、徳川への帰参を許し寛大な処置を施し追い払った。
西遠江や奧三河の領民や武士らに、家康頼りにならずと離反させるためだ。
破壊した高天神城を復旧し秋山隊を呼び入れ軍議を行う。織田信長は三千の兵を残し岐阜に帰った。家康は掛川城に援軍を送り、織田兵とともに浜松城に籠っている。
「掛川城を落とせ」 大半の重臣らはそう主張した。
二万三千の兵力をもってすれば、掛川城を囲み、浜松の徳川、織田一万と戦っても勝てると踏んでいる。織田信長が舞い戻ってくるまでの短期決戦である。しかし、危ぶむ声もちらほらあった。信長の機動力は侮りがたい。本願寺に頼んで騒ぎを起こし信長の足止めをしろというものだ。いずれの意見も攻撃の続行である。
「皆の意見はわかった。わたしは甲斐に戻ろうと思う」
蜂の巣をつついたような騒ぎになった。高天神城を奪い武田は優勢である。なのに、徳川に大打撃を与える好機を放り出し帰城すると宣言したのだから当然のことだ。
「兵を休ませ、徴用した百姓兵を戻さなければならぬのだな。うん。そう言ったのは兵庫助叔父であったな。んっ、違うか?」
親族衆の武田信実を見つめ、厭味ったらしく投げかける。信実は真っ赤になって俯いた。
宿老らは呆れたようで押し黙った。いや、あながち帰城は間違いではないのだ。
武田が本願寺顕如と繋がりがあるように、織田は上杉謙信と繋がっている。ぐずぐずと遠江で留まっていると、信濃を攻められかねない。昨年の東美濃攻めも謙信が動いたため、武田は兵を引いたのだ。
「帰城でよいな。あと去るにあたって、略奪、放火は禁止とする。禁制もなしだ」
「い、いや、それは……」
居並ぶ重臣らが唖然となった。敵地からの略奪は足軽、雑兵の貴重な収入元だ。放火は敵の経済を狂わす戦術である。これらの行為を銭を払った村だけ禁止するのが禁制であり、上も下も戦で手にする余禄だ。
「敵の領地など、いかように蹂躙してもかまわぬ、のではありませぬのか」
信濃先手組の大将土屋右衛門尉昌次である。信玄の奧近習を務め教えを受けた猛将だ。
「いいや、すぐに我らのものになるのだ。恨まれては政事がやりづらくなる」
「掛川や浜松の事ですぞ。戯言も大概になされませ」
昌次は目を剝いた。徳川との決戦を避け帰城すると言った矢先だ。揶揄われたと思ったのだろう。だが、やめるわけにはいかない。もう一押ししておく必要がある。
「なんなら右衛門尉に浜松をやってもよいぞ。証文も書く。ただし、くれてやるのは一年後だ」
憐れむような視線が僕に降り注ぐ。最早発言する者はいない。これでいい。
十日後、二千の兵を残し帰城が決まった。自領の駿河を通るのは略奪、放火を禁止したからだろう。宿老衆が足軽、雑兵を押さえ込むのは困難と考え、敵地近くを通ることを避けたのだ。
出発を明日に控えた夜、久しぶりに小原忠広を部屋に呼んだ。垣間見の報告を聞くためだ。
忠広の報告は、時折黙り込むため時間がかかった。
すべて僕の悪口なのだから報告する忠広も大変なのだろう。側近の長坂らを遠ざけた所で僕の評価は変わっていない。そして、僕は狂人扱いとなったことを知った。
軍議での発言が決定づけたようだ。重臣らの多くが幼少の倅、信勝を正式に宗家を継がせようとしているらしい。
十六歳まで待てぬというわけだ。十年は死なないと高を括っていたのが、下手をすれば謀殺されかねない事態になった。救いは戦に勝っていることだけだ。勝っている以上、陣代である僕を排除はできない。それだけが救いだ。
「あの、御病気についてですが……」
垣間見の報告の後とはいえ、これほど萎縮するのはめずらしい。
「どうした。わたしは気にせぬ。はっきり言え」
病気とは、広忠だけが知っている記憶喪失ことだ。最近は言わなくなったが、思い出したことがあるかと聞いて来るのが常だった。
「御家老衆に、四郎様は別人ではないかと、いえ、人が変わったようだと申された方が」
「な、なにい! 誰だ! 誰がそう言った」
思わず声を荒げてしまった。勝頼ではないと見破った重臣がいる。人が変わったというのは忠広が取り繕った言葉だ。別人が本当の言葉だろう。
「小山田左兵衛尉様でございます」
少し間があいて、それでもはっきりと名をあげた。口封じを命令すれば、この男はやるだろう。
だが、──
「うむ。そうか…… その方も嫌であろうが、このまま頼む。下がってよい」
僕は何事もなかったように広忠に退室を命じた。
よりによって、勝頼の中身が違った事を見抜いたのは小山田信茂である。
小山田左兵衛尉信茂 ── 武田譜代の重臣で、勝頼終焉に痛烈な裏切りを行ったことで知られている。七年後それはおこるだ。
織田、徳川の猛攻に、親族衆、重臣が相次いで寝返り、新府城に籠ろうとした勝頼に落ち延び再起を計るよう進言した重臣が二人いた。岩殿城の小山田信茂と上州岩櫃城を有する真田昌幸である。勝頼は進言を受け入れ城に火をかけ、わずかな近習と女子供引き連れ岩殿城に向かった。小山田を選んだのは譜代の重臣だからだ。
しかし、小山田信茂は変心し信長に内通すると、勝頼一行に鉄砲を放ち入城を拒んだ。勝頼は天目山棲雲寺に逃れようとしたが、織田に追い詰められ、山麓の野田で正室、側室、嫡男信勝共々自刃して果てるのである。
内通していたはずの小山田信茂であったが、信長からは許されず一族共々首をはねられた。武田を滅亡に追い込んだ悪人とされている。
「なるほど…… 小山田信茂か…… アハハハ」
思わず笑ってしまった。潜在意識が作り出した話にしては、良くできている。