26 政繁逃亡
尾山御坊の一里(約四キロ)南に高坂、秋山隊が野陣を張って三日目の昼過ぎ、上条から降伏の申し出があった。
降伏する能登勢への条件は、上条と重臣及び将格までの能登追放である。
多大な死傷者を出した裏切りしては、かなり緩い処分だろう。
上条は条件をのみ、正使を立て申し出を受けると伝えてきた。
景虎は反対したが、山県ら重臣は慣れたもので、僕の好きにやらせるように説得してくれた。
眼前に二騎が現れた。武士と僧侶だ。
武士が馬を止め、刀を頭上に掲げ、輪を描くように振り回している。
使者の合図だ。
連れは使僧ではない。墨衣の下に具足をつけている。
「大谷頼白と申します」「大山助左衛門と申します」
二人は片膝をついて頭を下げた。
「お待ち下さい」
横に控えていた景虎が、床几から立ち上がった。
「大山殿と申されたな。いずこの大山殿か? 失礼ながら我は知らぬ。返答頂こう」
刺客とでも思ったのだろうか、血相を変えた景虎が太刀に手をかけた。
「温井兵庫助の足軽頭を務めております。分もわきまえず使者に立ちましたことお詫びいたします」
「なんと! 足軽頭だと!」
堂々と言う様に、景虎のほうが気圧された。
足軽頭は軽輩で、ぎりぎり武士と呼べる身分だ。降伏の正使として礼を欠いている。
手打ちにされても文句は言えない。
「理由がございます。上条様ご重臣を連れ七尾にお戻りになられ、家臣もあとに続いたため、大山殿に連れ添いとなっていただきました」
大谷が影虎に擦り寄った。
「なっ、山城は逃げたか! なんと卑怯なっ」
降伏を申し出て、その隙をついて逃げる。途轍もなく名を落とす卑怯な振舞いだ。
「大山とやら、其の方は、なぜついて行かなかった。臆したか」
僕は意地の悪い質問を投げかけた。
大山の堂々とした態度は死を覚悟してのものだろう。
上条について行けば、逃げ出すことはできたのだ。
「恐れながら。降伏は聞いておりました。騙してまで生きようとは思いませぬ」
こちらは驚くほど潔いよい。軽輩の身分でも卑怯な振舞いはしたくないと言ってのけた。
騙してまで生きようとする大将と、恥と思い死を覚悟する足軽頭。武士とはよくわからない生き物だ。
「何人御坊に残っておる」
「三百ほどです」
三百人全員が大山のようだとは思わないが、まあいいだろう。
「其の方らは、約束を守った。悪いようにせぬ。しばし御坊に留まっていよ」
「・・・・・・・ お、お許し頂けるのですか」
鳩が豆鉄砲を食ったような顔とは、これだろうだ。
大山は目を見開いて固まっていた。
「上条の仕置きが終ったら、能登に帰ってよい」
「あ、ありがとうございます」
上条は逃げたが、能登勢と一向宗徒を切り離す目的は達成している。
見せしめなどやるつもりはない。僕は極力、人を殺さないよう緩い処分をしてきたのだ。
「さて、大谷とやら秋山が申した通りだ。我らは加賀を去る。乱暴狼藉はさせない。安吉、槻橋の兵も怪我が治れば引き上げる。それでよいな」
「はい」
疑い深い眼が向けられた。信用などしていないのだろう。
「寛大なる思し召し、感謝いたします」
「慈悲深いお心に感服致します」
二人は一礼すると背を向けた。
「ご坊。極楽は衣服や飲食が意のままに得られ、一切の苦がないのであったな」
「はい?」
振り向いた大谷は眉を顰めた。
「浄土とは煩悩や穢れを離れた国土でよいか」
「はい。いや、そればかりでは・・・」
「わたしはな、何もしなくても食える世をいいとは思わない。額に汗すれば、楽しく暮らしていける国をつくるつもりだ」
「そのようなっ。争い絶えぬ世では絵空事でございましょう」
一向宗の坊官は、ひるむこともなく即座に否定した。
御仏に帰依した坊主ではない。信仰を楯に己等の権威を守っている武人なのだ。
「つくり終えたら、加賀との往来を禁じる」
大谷が薄笑いを浮かべ侮蔑の目を向けた。
この身体になったとき、散々向けられた視線だ。
萎えた心を振るい立たせるのには、ちょうど良かった。
「三郎殿。豊前守と上条を追え。能登を攻める」
「ははっ」
上杉、河田勢は、尾山御坊包囲に兵を回していて、七千は無傷だ。
秋山、高坂隊も無傷ではあるが、能登の地理に疎く迅速な追撃は無理だろうと、武田の先陣を命じた。
「ものども! あれを見よ。御屋形様より剛勇無双と称えられた証だ」
「おおっ!」
馬上の景虎が叫んだ。キラキラと輝く馬標が先頭を進んで行く。
北条景広は首実検の場に忘れていったが、ほかの武将からは垂涎の的のようだ。
もっとも、北条は慌てて取りに戻り、ぺこぺこと頭を下げていたのだから、いらなくはなかったのだろう。
誇らしげに馬前に掲げさせている。
「弥五郎ばかりが剛勇無双に非ず。山城の首をとり証明してみせよ!」
「おおっ!」
掲げられた天賜の御旗と大扇。いくつ用意したのか真新しいものになっていた。
「柴田の馬標、なかなかに見栄えのするものですな」
山県が馬を寄せて言った。
確かにあれなら遠くからも目立つし、進行するにはいい目印なる。だが、戦場では敵の的になり兼ねない。よほど兵力に自信がなければ使えないものだ。
「そなたも掲げてみるか」
武田の赤い甲冑を見ただけで、敵は怯え逃げるのだ。馬標が必要とは思えない。
「よろしいのですか」
山県が食いついて来た。意外だ。
「う、うむ。金の分銅の周りに赤蛇と黒蛇が絡み合っているのはどうだ」
でまかせである。そんな気持ちの悪いものを掲げる者はいないだろう。
「金の分銅は御神代。赤蛇はワシ。黒蛇は鬼殿ですな。気に入りました!」
びっくりである。山県が気にいるとは思わなかった。
秋山、高坂を見て気がついた。実に羨ましそうに見ているのである。
前立てもそうだが、要は僕があげれば何でもいいのだろう。
四郎勝頼、拝領の何々。特に僕が考えたものは名誉なのだ。随分偉くなったものだ。
しかし、これは使える。パクリまくって恩賞とすれば金が掛からない。
景虎率いる上杉、河田勢は、瞬く間に能登を制圧し、上条政繁の居城七尾城を囲んでしまった。
凝りもせず、また上条政繁は降伏の使僧を送ってきた。
景虎は呆れたようだが、城を落とすとなると窮鼠猫を噛むの例えの通り、必要のない犠牲者を出すことにもなる。
僕は上条政繁及び重臣らの切腹、将格は能登追放を条件に降伏を受けた。
切腹を許した恩情ある処分だ。
ところが、上条だけが、また逃げたのである。
織田信長を頼ったのであろう、数人の小姓を連れ船で逃げてしまった。
「切腹の御恩情感謝申す」
「寛大な処分、謹んで御礼奉る」
遊佐続光、温井景隆、三宅長盛が、粛々と腹を切った。
首は晒さない。追放する家族に渡すのだ。
七尾城に河田を入れ後処理を命じて、越後府中に戻ることにした。
越中の河田に任せたのは、能登追放となった者が望むのなら、召し抱えさせるためだ。
いずれ能登に戻すとしても、けじめだけはつけなければならない。
「敵の女こどもにまで恩情をかけるのは、日の本広しといえ、御神代様だけでしょうな」
山県は笑って言った。褒めたのだろうか、けなしたのだろうか。
まあどちらでもいい。
僕は勝頼でいるために、歴史を変えているのだ。
死ぬ者を生かし、生きる者を殺している。巻き込む人は少ないほどいい。




