16 謙信は生きている
おかしい ──
僕は名胡桃城の居室をうろうろと歩き回った。城に入ってすでにひと月が経っていた。
二月を待って軍役を発し、二月の中旬には海津城、沼田城に兵を集結させた。
信濃海津城には山県、馬場美濃、高坂ら一万。上野沼田城に、内藤、秋山、小山田、真田、本隊の一万である。
原を前橋城、和田を箕輪城に配し北条に備えさせていた。
美濃、伊豆の国境の備えは前回通りとしたため、参陣できない親族、遠、駿、三衆は不満に思っているようだ。
僕は無意識のうちに、長篠で死ぬはずだった家臣を重用しているようだ。
本来、いないはずの家臣なら史実を変えられるとの思いがあるのかもしれない。
そのせいなのだろうか、どうやら史実通りではないようなのだ。
武田の動きに合わせ謙信も兵を挙げた。尤も上野奪回にむけ着々と準備は進めていたため、瞬時に対応できたのだろう。三国街道、北国街道、飯山街道の国境を固めたのだ。
史実では武田の侵攻はない。手取川で織田北陸軍を撃破したあと関東大遠征を行う予定であったのだ。
目的は違うが関東に侵攻しようとしたのは同じである。武田が加味したことにより若干の違いがでたのは許容範囲だと思っていた。
謙信は三月十五日の出陣をひかえた六日前、突然倒れ、昏睡状態のまま十三日未明に死去するのだ。
脳卒中だと言われている。
不幸につけ込む卑怯な振舞いだが、僕はこれを利用するため、策を練ったのだ。
ところが謙信は、倒れるどころか、十五日、三国街道を見下ろす荒戸城に六千の兵を率いて入城した。
この城は本来なら謙信の死後に、景勝が北条進軍を阻止する目的で築くはずのものなのだ。どういうわけか武田を阻止するため謙信が築いたらしい。
細い山道では大軍を展開できない。三国峠を挟んでもう十日も対峙している。
一方、海津城から侵攻を開始した山県、馬場隊は、軍を二つに分け北国街道、飯山街道を北上したが、前回のようには行かなかった。
謙信は街道沿いの要所烏坂城と鮫ケ尾城に数千の兵を入れ防御の拠点とすると、余多ある砦を改築して兵を多く入れ、鉄壁の防御を敷いていたのだ。
いかな山県、馬場軍でも突破はできず、野尻まで後退し留まっていた。
謙信が生きているのだ。上杉に乱れはない。
つまり、武田は手詰まりとなったのだ。
「謙信が荒戸城を出ました」
出浦盛清が広間の中央で平伏して言った。軍議の席である。
「どこへ向かった? 兵数は如何ほどだ」
内藤昌豊が忌々し気に出浦を睨んだ。出浦を憎んでいるのではない。
内藤は二度荒戸城を攻め、多くの死傷者を出し撤退しているのだ。
「兵は二千ほど、春日山に戻るようです」
秋山隊が火打峠に布陣している。謙信が進行して来れば秋山から伝令が来るはずだ。
「春日山? 烏坂城に向かうのではないか?」
「鬼と赤備えの猛将に近づくなど、いかに謙信でもあり得ぬ。四千も置けば突破できぬと舐めているのだ」
真田信綱の疑問を打ち消したのは土屋昌次だった。
内藤が舌打ちした。痛烈な嫌味を言われたのだ。
どうも、この二人気が合わない。
親子ほど違う年齢であるが、若い土屋は内藤を敬う気持ちが無いし、内藤は経験不足の小僧扱いなのだ。
確かに五十六になる内藤昌豊の経歴は凄まじい。父親が信玄の父前々当主の信虎の勘気に触れ誅殺され昌豊は甲斐を追われている。信玄が信虎を駿河に追放し当主となり召し戻したのだ。
以来、信玄の恩に報いるため、数々の戦場で身を賭して働いてきた。
一方、土屋は三十三歳で、父親は幼少の信玄の傳役を務めていたという名門の出だ。
十七歳の初陣後、二十二歳で侍大将、二十八歳にして家老衆の列に加わったという、類を見ない出世をしているは、信玄の奧近習であったとき衆道の相手を務めていたからだと噂されている。
僕も軍議の流れで浜松をくれてやったが、そういう関係ではない。
互いに重臣の証である「昌」の諱を信玄から拝領しているのだが、内藤はそれも気に食わないようだ。
長篠で死ぬはずだった二人だ。どちらも勇猛果敢な武将であるが、僕は関わらないようにしている。
「上野はどうだ。喜多条、北条に動きはあるのか」
謙信が会津街道から迂回するとは思えないが、別動隊が動いている可能性はある。
佐野の喜多条と合流されたら厄介だ。
それに北条がまた手を出して来ることも考えられた。
「今のところ、なにも動きはありませぬ」
僕が肯くと出浦はほっとしたような顔を向けた。
家老二人に責められているような気になっていたのだ。
「喜多条らには軍費がありませぬ。心配ご無用かと」
よせばいいのに土屋が口を出した。
降伏兵は武具は没収して、脇差一つで追い出している。
槍、甲冑を揃える金はないと、土屋は思っているようだが、それは間違いなのだ。
「若い者はあまくて困る。喜多条らは金銀を懐に忍ばせて出て行ったのだ。知らなかったか? まだまだ未熟よのぉ」
「うっ」
見逃すように命じたのは僕だ。
だが、年甲斐もなく嫌味のお返しをする内藤にも困ったものだ。
二人は睨み合い、場は険悪な雰囲気になった。
「我に出撃を御命じ下され! 謙信のいない荒戸城をひと攻めさせて頂きたい」
小山田信茂が拳を床につけ前に出た。
内藤、土屋の諍いなど毛とも気にしない発言だ。
密命失敗を挽回しようと必死なのだろう。出撃当初から妙に気負っていた。
「ひと攻めか。うむ。秋山隊と合流して攻めて見よ。ただし、鉄砲は五十だ」
「ははっ。鉄砲五十というのは如何な御所存で」
小山田の鉄砲数は五百を超える。織田、徳川連合軍との長篠での戦用に僕が組織したものだ。家中一の保有数を誇り、鉄砲兵の腕前は飛びぬけて良い。
「砲列を敷ける場所を探せ。今はそれでよい」
「ははっ」
景勝の築いた荒戸城は、北条軍に攻められ落城している。
謙信が築いた城との違いはわからないが、どこかに欠点があるのかもしれない。それを急いで探さなければならないのだ。
謙信が春日山に戻ったのは、武田の侵攻を止めたからだろう。
越中、能登、加賀の軍勢を呼ぶ寄せるつもりなのだ。
謙信は僕の器量を計り終えたのだ。増軍するのは強敵と認めてのことだろう。
龍が本気になった。蛇を気取る僕は、逃げるわけにはいかない。




