12 甲斐の毒蛇
黒く垂れこめた雲から、時折陽が射し込むものの、吹き渡る風は身を切るように冷たい。
長く伸びた軍列が、凍てついた山道を進む様はまるで一匹の蛇を思わせた。
砥石城と糸魚川の距離は二十五里(100キロ)。追撃に備える必要はない。
僕は馬上より白く薄化粧を施した山々を眺め、かじかむ手に息を吹きかけた。
結局謙信は砥石城から動かなかった。
千国大道が完全に雪で通れなくなるのを待ち、挟撃を仕掛けるつもりなのだろう。
もしかすると、勝頼を侮っての待機しているのかもしれない。
僕と入れ替わるまで、何度も無駄な徳川攻めを行なっていた。
入れ替わりの原因となった頭の狙撃も東美濃の明智城でのものだ。
いくつもの城を落とし武名を高めたが、狙撃により傷つき撤収して城は奪い返されている。家臣らに偉大な父親の後継者と認めさせるための侵攻だが、家中に不和を招いただけだった。
謙信が織田、徳川を完膚なきまで叩いた僕を同じ勝頼だと思っているなら、この行動最大の意思表示がやりやすくなるのは間違いない。
謙信に土をつけるのは敵わなかったが、山県の春日山城攻撃と糸魚川占領は、今後の上杉にとって大きな脅威となるはずだ。
そして、今から行うことは謙信が地団駄踏んで悔しがることになる。
謙信が越後の龍なら、僕は蛇いい。
甲斐の虎と恐れられた信玄を越えるのには力ではない。
何を考えているか分からない冷たい眼をした蛇。
忌み嫌われる毒蛇なる。
「御神代様! 遅いので心配致しましたぞ」
岩櫃城に続く道で、山県ら重臣が出迎えた。
計画通り山県は雪の降り出す前に、春日山城攻撃を切り上げ岩櫃城に入っていた。
「お疲れでしょう。城でお寛ぎ下されませ」
居並ぶ重臣の列から抜け出した城主の真田左衛門尉信綱が轡を取り言った。
弟昌輝と共に長篠で討死するはずだった家臣である。その下の弟が馬廻りの武藤喜兵衛、本来なら真田昌幸となる者だ。
武藤には今回の軍事行動では含みを持たせ岩櫃城に帰していた。
出迎えに居ない所を見ると存分に働いているのだろう。
「皆揃っているなら軍議を開く」
糸魚川進攻の本隊一万二千、春日山城攻撃の山県隊五千、真田を大将に北上野の兵三千、合計二万がこの山間の地に集結している。
早く動かさなければ、敵に察知され恐れがある。
それに、兵農分離をすすめた結果、足軽として採用した者たちは、村社会で適応できない荒くれ者ばかりなった。敵領地での略奪、凌辱は楽しみの一つで、放って置けば味方の村さえ襲いかねない連中である。
軍法で厳しく乱暴狼藉を禁止しているが、糸魚川では五人の足軽が違反し首を刎ねることになった。
早急に軍議を開き、軍勢を移動させるのは真田のためでもあるのだ。
城の大広間には床几が並べられ、真ん中に大きな上野国の地図が広げられていた。
寛げと言った信綱ではあるが、準備に怠りはない。
上座の床几に腰をかけると、重臣ら二十人が一斉に座った。
右側の山県、真田らは素襖姿で、左側の秋山、原ら糸魚川攻撃隊は胴を外しただけの籠手姿で疲労の色が濃い。先手は真田ら北上野の軍勢に任せようと思った。
「山県、春日山はどうであった」
軍功一番の山県昌景を讃えなければならない。それに派手な武功話で家臣らを刺激し野心を掻き立たせるのだ。
「はっ。留守居とはいえ二つの砦に守られた堅城。生半可な攻めでは落とせませぬ」
にやついて話している所を見ると何か落ちがあるのだろ。
「三郎兵衛尉をもってしても落とせぬか」
「はっ。十日では東城砦を落とすのが精一杯。腹いせに焼き払ってきましたが、ひと月は欲しい所でした」
重臣らから感嘆の声があがった。春日山城の防御の要の一角をわずか十日で落としていたのだ。凄まじい戦果である。
「さすがは赤備え。天晴な働きである」
「恐縮至極」
重臣らの眼が爛々と輝いている。次は俺だと闘志を漲らせているのだ。
「左衛門。調略はどうだ」
「はっ。舎弟らの働きにより北上野は無論のこと、東、西の国人衆八人から熊野誓紙の証文を得ております」
熊野権現牛王神符は古くから誓約書に使われていた。
約束を破れば死んで地獄に落ちると言われているが、父武田信玄などは他国との同盟で何度も誓紙に署名し、己の都合で簡単に破棄しているのだ。
僕は儀式として使うだけの烏が印刷された紙だと思っている。
「うむ。でかした。昌輝、昌幸の労を労ってやれ。証人は丁重にもてなせ」
「御意」
誓紙と証人、つまり人質が、この時代の忠誠の証だ。母や子息女、弟などの身内が人質になるのである。
史実なら、木曽義昌は織田信長に寝返り、証人の実母と側室、十三歳の嫡男、十七歳の長女が見せしめのため磔刑にされている。
残酷な仕打ちだが、この命令を下したのは勝頼である。
つまり、僕だ。 ──
いずれ、これも変えるつもりだ。