10 越後侵攻
天正五年九月、僕は史実に無い戦に打って出た。上杉謙信との戦だ。
手取川で織田の北陸勢を打ち破る謙信に戦を仕掛けるのだ。
信玄でさえ越後だけの謙信に勝てなかった。いまは越中、能登を手中に納め、動員できる兵数は五万を超える強敵である。
一方こちらは、史実のような北条氏政の妹を正室として迎え、甲相同盟を結ぶことなどしていない。西に向かえば後方から北条に攻められる。そこで駿河衆の岡部正綱、朝比奈信置に遠江の兵五千を加え、二万の兵で北条との国境の城に籠らせた。
甲斐の国境には逍遥軒ら親族衆一万を配し北条の侵攻を北と南から押さえ込む。
織田に対しては三河の徳川家康、土屋昌次、小笠原信興、南信濃の坂西、遠山、木曽に命じ国境を固めさせた。
北条も織田も漁夫の利を狙うだけで仕掛けてくることはないだろうが、隙を見せるわけにはいかない。
上杉に察知されないよう七月より徐々に信濃深志城に集結させた兵士数は一万二千。
幾度も上杉謙信と川中島で戦った武将たちで、ほとんどが長篠で死んでいたはずの家臣たちだ。
今度こそ謙信に目に物見せてやると血気に漲っている。
ただ、この越後侵攻は謙信と白黒つけるほどの長い戦にはできない。ひと月と経たず越後は雪に閉ざされるからだ。長引けば援軍も物資補給も撤退すら困難なり自滅する。
謙信相手に一万二千という半端な兵数は、早期撤収を考えてのことだった。
九月二十三日、三枝、馬場、原隊六千が糸魚川の根知城を目指し千国大道を北上した。
すでに先手として秋山善右衛門尉ら二千が、姫川沿いに建ち並ぶ砦や出城を攻撃している。
この戦には、三つの武田家の意思表示を持たせている。
ひとつは国境の要地糸魚川を武田が攻撃することで、打倒信長を唱える将軍義昭や門主顕如との決別を示すこと。
もうひとつは海津城に入っている山県ら五千が、謙信の居城春日山城に雪崩れ込むことにより、いつでも武田は越後に攻め入ることができると上杉に恐怖を植え付けることだ。
山県には海津城から山道を通り春日山城を突くことを命じている。
この山道は謙信が川中島に向かうために造らせた軍道である。
警戒は厳重でいくつもの砦があるが山県の赤備えなら歯牙にもかけないだろう。
そして、もうひとつ。これこそが本当の狙いだ。
「面目ござらぬ。いささか手を焼いておりまする」
根知城攻めの三枝、馬場、原が、出迎えて頭を下げた。
「謙信が信濃を追われた村上義清に任せた城だ。そう簡単落とせはせぬ」
姫川と根知川に挟まれた、高さ百二十丈(約三百六十三メートル)の山に築かれた根知城は、根小屋城、上城山城、栗山城の三つ城が繋がる複合式の山城で、武田の侵攻に備えているため堅固な造りだ。六千の軍勢で落とせるはずは無い。
「籠っている兵数は?」
「下人を合わせて三城で、二千ほどかと」
原の答えに僕は頷いた。予想通りである。
「隼人。半分の兵を預ける。根知城を押さえよ」
「はっ」
原は頬を染め満足そうに頷いた。
僕はつくづく思う。武士とはなんと不思議な生き物だと。
命を掛けた戦いなのに、主人に命じられると嬉々として乗り出すのだ。難しければ難しいほど名誉に感じるようで、紅潮する原を尻目に三枝や馬場は渋面を作っていた。
「勘解由、民部。其の方らは、わたしとともに糸魚川に攻め込むのだ」
「ありがたき幸せ! 先手を我に御命じくだされ」
「是非とも我に!」
実に使いやすい。
だが、既に秋山二千が姫川沿いを進攻しているのだ。三枝、馬場に出番はない。
根知城から姫川河口まで、わずか三里。武田軍七千が糸魚川に雪崩れ込んだ。
根知城からの攻撃を警戒したものの、原隊三千を突破できるだけの兵力はないようで、原から城攻撃の続行を懇願された。
攻撃の手を緩めぬ方が押さえになるだろうと、原に任せることにした。
この戦には、馬場春信、山県昌景のような戦で功名を轟かせる武将はいない。
原、内藤、春信の倅馬場昌房は確かに戦達者だが、百戦錬磨の古参の武将である山県、馬場のようなカリスマ性がない。
無くていいのだ。
僕は毘沙門天の生まれ変わりと言われるような、カリスマ性を望んでいる。
諏訪上社大祝の血を持つ御神代以上の強いカリスマ性が必要なのだ。
謙信に土をつける。 ──
次世代の武将には、これだけで充分だろう。