1 臨終の床から蘇る
夢か、うつつか、幻か。
時代を越えて入れ替わった男の奮闘記です。
左眼の上が燃えているように熱い。今までにない症状だ。苦しい…… 死ぬのか。
覚悟はできていたつもりだ。この苦しみから早く逃れたい。そう思っていたが、いざ死を迎えると口惜しさだけが込み上げてくる。
なぜ僕が死ななければならない。学校を出て希望通りの会社に入った。
三年目に憧れていた部署に就いたのに、わずかひと月で病気が発覚して長期入院のすえ死を迎えている。
馬鹿らしい…… 実に馬鹿らしい人生だ。
何のために苦労して大学に入ったんだ。全て無駄だった。
大学……? 会社……? 名前が思い出せない。大学や会社など僕の妄想なのか。それとも脳が死につつあるのか。記憶が消えるのなら、痛みも消えればいいのに……
痛みは頭全体に広がり、猛烈に喉が渇く。
水・・・ 水が飲みたい。水をくれ ──
ボコボコと泡が沸き立つような音が聞こえ頭を持ち上げられた。
唇に固いものがあたり、冷たい液体が口の中に流れ込む。水だ。
ゴツゴツとした手を押さえ、喉を鳴らして水を飲む。
「御身体に触ります。少しづつお飲みくだされますよう」
泡の音は、この男の声だ。顔をマスクで覆っている。手術後なのだろうか。僕の知らない医者だ。綺麗に撫で付け髪型をオールバックと思っていたが、首の脇から房のような髪が時折見える。長髪を縛っているのだろう。
「もう、大丈夫です。ゆっくりお休みください」
首の後ろに差し込んでいたいた手をゆっくりと下げ僕の頭を枕に戻した。格子に組まれた天井が目の前に広がる。
病室ではない── ここはどこだ?
鼻や腕につけられていたチューブはどうした?
僕は頭を左に向け、水を飲ませてくれた医者を探した。
部屋の隅で誰かと話している。安堵の声が聞こえた。
誰だろう? 父の声ではない。僕の手術に立ち会うような親密な友人はいない。誰だ?
男が立ちあがった。二人だ。
「・・・⁉」
声にならなかった。中央を剃り上げ髪を束ね背に垂らしている。身に着けているのは鎧だ。
男らは僕の視線に気づき頭を下げた。カチャリと金属音が耳を突いた。
夢か。── 僕は静かに眼を閉じた。頭がズキッと痛む。
夢・・・ なのに、痛みは消えない。
「御屋形さまが、口を利けなくなったというのは、本当ずらか」
「ああ、オラも聞いた。美濃の戦で鉄砲で撃たれたらしい」
人足姿の髭面の男がこめかみを指で叩いた。
やはり漏れてるか。人の口に戸は立てられないとは言うが ──
僕は笑いを噛み殺した。
甲斐府中の躑躅ヶ崎館から半里離れた露店である。団子のようなものを焼き、酒も出す。
男たちは店の横の丸太に腰掛け酒を飲んでいた。
「滅多なことを言うもんじゃねえ。取っ捕まるぞ」
足を止め聞いて僕を不審に思ったのだろう。店の老婆は男らを叱りつけると僕に愛想笑いを浮かべた。
仕官を求めて訪れた牢人とでも思ったのだろう。苦労して手に入れた薄汚れた着物の効果はあったようだ。
僕は素知らぬ振りをして小原屋敷に足を進めた。
よく晴れた日差しが照りつけ、少し歩いただけで身体中から汗が吹き出してきて、嫌な臭いが鼻をついた。着物からだ。だが、僕は嬉しい。暑さも、臭いも、現実の感覚だからだ。
屋敷の門を潜ると小原が待っていた。人払いは済んでいて誰も居ない。
「臭うか?」
「いささか」
余程臭うのだろう。頭を下げたとき眉を顰めたのだ。僕は顔が緩むのを感じた。この対応も夢では有り得ない。
小原は玄関を避け、庭から居間に誘った。
「御屋形様。出歩くのも程々になされ。思い出すためとはいえ、感心しませんぞ」
座るなり小言が待っていた。
僕は記憶喪失を演じている。中身が違うのに演じているというのはおかしな話だが、だれ一人、顔も知らないのだからそうするしかなかった。なにしろ、話す言葉の意味さえ分からない事が度々あるのだ。
記憶喪失のため失語症を演じさせたのは、この屋敷の主、小原下総守忠広である。
僕が記憶喪失であることを告げたとき、小原は嘆き悲しみ、それでも冷静に、頭に受けた衝撃で言葉を失ったとすることを進言してきた。
「御家老衆や若様を遠ざけられます」
確かに喋れなければ記憶がないことも誤魔化せる。僕はその案に乗ったが、わずかの間に市井にもばれている。他国に広がるのも時間の問題だろう。
「かまみ、いや、かいみか? どうだった」
このふた月の間、家臣の顔と名を憶えたいただけではない。
「垣間見は、今のところなにも」
小原忠広は口籠った。当然である。垣間見とは諜報の組織だ。忍びのことである。
僕が命じたのは敵への活動ではない。家中の重臣らへの諜報行為だ。
「心配するな。離反を疑っているのではない。これからを考えてのことだ」
「はあ……」
腑に落ちないのがありありとわかる。家督を継いで一年の、この身体の主は重臣と確執があるのだ。
庶子で他家を継いだ四男というのが家臣らに軽んじられる原因だった。
このままでは、重臣らはあてつけのように戦場で命を散し、重臣を失った僕は追い詰められ自刃して果てる。夢が終るのだ。目覚めれば集中治療室だ。
そうさせない。──
「喋れない振りはもう止めだ。どうせばれている。軍議を開く」
重臣らに僕を認めさせなければならない。
「はっ」
小原忠広が満面の笑みを浮かべた。小原は高遠城のころからの側近で、数少ない僕の腹心だ。
小原のような家臣を作らなければならない。たとえ手を血で染めることになってもだ。
留まるためならなんでもやる。そう決めた。歴史が変わろうと、どうせ夢の中の事だ。
武田二十代当主、武田四郎勝頼 ── 現実か、夢の中なのかもわからない僕の新しい名前だ。