第6話 栄光と転落
(これで本当によかったのかな)
暗黒街に帰りながら、アルは物思いに耽っていた。
あの日、月下の裏口でフィオナに言い付けられたことに想いを馳せる。
「これは【出世の呪い】が込められた腕輪です」
あの満月の夜、フィオナは腕輪を取り出しながら言った。
「この腕輪を身に付けた者は、自分の実力を超えてどんどん出世していきます。これをラルフに装備させてください」
「ラルフの奴をさらに出世させるのか?」
「出世してもいいことばかりとは限りません。場合によっては、負担になることも。特に彼の実家は財政的リスクを抱えています。出世して交際費が嵩張り、家計が圧迫されれば、没落は早くなるでしょう。他にも身の丈に合わない出世は、健康や人格、人間関係などに様々な悪影響を引き起こします」
アルは半信半疑ながらも腕輪を受け取った。
そうして、企みは実行される。
まずはアルがこの呪いの腕輪を嵌めて、ラルフの目の前で出世すること。
次にラルフに【出世の呪い】について正直に話すこと(呪いの腕輪はその効能を理解し、承諾した上でなければ引き受けることができない)。
【出世の呪い】を解くには、他の人物に腕輪を譲るしかないのも正直に話すこと。
アルはフィオナから教えられた黒魔術の手解きを忠実に実行して、ラルフに【出世の呪い】をかけることに成功した。
フィオナによれば、この後ラルフは呪いに苦しむことになるはずだが。
(果たしてそう上手くいくのだろうか)
あのラルフを出世させて喜ばせる。
それを考えただけでアルの腑は煮え繰り返る思いだった。
しかし、フィオナのことを思い出すと不思議と腹立たしさは治る。
彼女はまるで月のようだった。
全てを見透かすような澄み切った瞳、覚悟を試すかのような突き放した口調、月光のように神秘的な銀色の髪。
彼女に見つめられると一種の緊張感に包まれる。
あるいは彼女に惹かれるのは、母に似ているからかもしれない。
一度もアルに対して微笑むこともなく死んでしまったあの母に。
しかし、フィオナは冷たいだけではない。
その冷たい瞳の奥には彼への期待が微かに込められている。
彼女は今もどこからか自分のことを見ており、試している。
彼女をがっかりさせたくない。
そう思うと、アルは自然と心地よい緊張感に包まれて、雑念が振り払われる。
そして早くフィオナに会いたいと思うのであった。
アルは陽光降り注ぐ花の都を離れ、夕暮れの長い暗黒街へと姿をくらました。
腕輪を装着して以来、ラルフの初めの1ヶ月はまさに薔薇色であった。
ドラゴン討伐をきっかけに、どんどん昇進、表彰される。
とある立派な騎士からの推薦を受け、騎士団長となった。
かと思えば、とあるやんごとなき身分の貴族の目に止まり侍従騎士へと昇進した。
その上、この街でもっとも美しく身分の高い、メーベル伯爵夫人の目に留まり、庇護を受けることに成功した。
ラルフは彼女の愛人となり、甘い時間を楽しんだ。
しかし、彼の幸せは1ヶ月も続かなかった。
1年のうち幸せだったのは30日だけで、残りの335日はずっと鬱に悩まされた。
どれだけ仕事をこなしても終わらない。
さらに勢力を維持するために部下や仲間達に奢らなければならない。
付き合いのために身の丈に合わない豪邸も購入した。
グリフィス家の家計は火の車だった。
常に誰かから借金をしなければならなかった。
抱えきれない案件のプレッシャーのせいで、一気に老けてしまう。
城下一の美男子と言われた容貌は見る影もない。
髪は白くなり、頭頂部は禿げ、頬はこける。
そうして首から上は貧弱に痩せ細っているのに、腹部はぶくぶくに太っていた。
一気に20歳も老けたみたいだった。
常に胃腸がキリキリと悲鳴をあげ、それまで以上に癇癪を起こす機会が増えた。
元々、その社交的で人当たりのいい性格の裏に短気で酷薄、陰険で気難しい性情を隠していたが、出世した今となってはもはや隠し立てする必要もなく、より一層気性が激しくなり、常に誰かに罵声を浴びせているような状態だった。
彼も心の奥底では今の立場から逃げたいと思っていた。
名誉ある地位など捨てて、元の平穏な生活に戻りたいと。
しかし、それは出来なかった。
そうはさせてくれなかった。
仕事がそうさせてくれなかった。仕事が彼を手放してくれなかった。
彼が逃げ出そうとするたび、身に余る光栄な仕事が降っては湧いて彼を縛る。
一見手に負えない仕事を抱え、階段から足を踏み外しそうになっても、すんでのところで援助の手が差し伸べられて、見事空中ブランコに成功してしまうのであった。
そしてまた、彼の名声は高まり、次の仕事がやってくる。
それに何よりも蜜より甘いメーベル伯爵夫人の腕からは、とても逃れることができなかった。
現在の地位を捨てれば、彼女に見限られるのは目に見えていた。
メーベル伯爵夫人は身分の低い者には殊更厳しい人だった。
その代わりいつまでも美しい人だった。
もう中年と言って差し支えない年齢なのに、一向にその美貌は衰えることを知らなかった。
彼女は30歳以上年の離れた夫と政略結婚させられてから、1日たりとも愛人を欠かしたことはない。
ラルフの無秩序な立身出世はいつまでも続く。
他人に責任を被せるなど日常茶飯事だった。
時には犯罪にも手を染めた。
誰かに助けてもらっては裏切るといった行為が半ば習性と化していった。
腕輪を嵌めて3ヶ月を超える頃には、グリフィス夫妻の新婚生活はすっかり冷め切っていた。
初めは夫の出世を喜んでいたエルザだったが、すぐに寂しさと虚しさを覚えるようになった。
夫が家に帰ってくる日の方が珍しく、家には常に隙間風が吹いていた。
夫婦共用の寝室は埃かぶっていた。
顔を合わせても喧嘩するばかりで、ますます夫は家に帰ってこなくなる。
社交会でもエルザの居場所はなかった。
どこに行ってもラルフはメーベル伯爵夫人のお供をして側を離れないため、エルザは常にほったらかしだった。
周囲からの嘲りの目もあって、晒し者同然だった。
おまけに伯爵夫人の心無い一言がトドメを刺した。
「まあ、あなた、なぜ1人なのにパーティーに出席しているの?」
これ以降、エルザは恥ずかしくて社交界には一切顔を出さなくなった。
2人の亀裂を決定的にしたのは、街に起こったインフレだった。
といっても、フィオナの予期する10年後の大地震に比べればせいぜい予震程度のものだったが、ラルフの実家に起こった衝撃は大きかった。
それまで出世のためならばと多少の浪費は見て見ぬふりして、金を捻出し続けていたラルフの実家だが、インフレで家計が傾くかもしれないとなると、一気に蛇口を閉めざるをえなかった。
そこでラルフはエルザにあげた結婚指輪を質に入れようとした。
当然、エルザは激昂した。
ただでさえ、エルザは実家に頭を下げて、彼の借金を返すための費用を工面してもらっているのだ。
あまつさえ、2人の愛の印である結婚指輪を質に入れようとはなんたることか。
2人は激しく口論した末、エルザは結婚指輪をラルフに向かって投げつけて別れを言い渡した。
エルザは泣きながら屋敷を後にして、実家へと帰ることになる。
2人は半年もたず離婚した。
ラルフの管轄するゼール区の行政は無茶苦茶だった。
治安の悪さでは最悪と名高い暗黒街をも上回る。
住民は誰もがラルフを恨み、一方で次々と彼の栄誉を妬んだ。
長年の親友ですら彼の失脚を望んだ。
「なんでこんな奴が」そう思わない人間はいなかった。
彼にはもはや呪いの腕輪以外に友人はいなかった。
しかし、その友人すら失ってしまう。
ある日、久しぶりに休暇が取れて、心休まる時間を過ごし、入浴を楽しんでいると、腕輪がお湯に溶けて、消えてしまった。
溶けた腕輪は、そのままお湯と一緒に排水口に流れてしまう。
その時の彼の取り乱しようときたら、無様というほかない。
嗚咽を漏らしながら誰もいない排水口に向かって「戻ってきてくれ」と小一時間叫び続ける有様だった。
そこからの彼の転落は速かった。
とあるパーティーでの出来事。
メーベル伯爵夫人はいつも通りラルフを側に置いていた。
が、いつもとは明らかに様子が違った。
彼女はラルフを見ながらしきりに眉を顰めている。
おかしい。
以前までのラルフとは何かが決定的に違う。
以前は彼に感じていた後光のようなものがなくなっている。
腕輪付近から放たれていた甘い香りも一切感じなくなってしまった。
ただただ、ありのままのラルフがそこに見えるだけである。
そうなると、メーベルは首を傾げずにはいられなかった。
自分はなぜこの小汚い男と逢瀬を重ねているのだろう。
自分はなぜこの男に金を恵み、便宜を図って、体すら許していたのだろう?
今となってはまったくわからない。
ラルフが彼女の手を握ってきた時、ついに耐えきれず手を振り払って、叫んだ。
「まあ、どういうことかしら。ラルフ、私、あなたにまったく魅力を感じないわ」
メーベル伯爵夫人はそう言った。
それ以降、メーベル伯爵夫人は自分の出るパーティーから彼を締め出した。
どれだけ老けても、どれだけ罪を犯しても、庇護し続けてくれたメーベル夫人があっさりとラルフを見限った。
後ろ盾を失った彼の周りには敵しかいなかった。
男共の嫉妬は凄まじいものだった。
それまで踏み躙られていた男達のラルフへの復讐が始まった。
相次いで、彼の犯罪行為が告発され、彼がこれまで着服した金品、隠蔽した犯罪、なすりつけてきた職責がすべて白日の元に晒された。
どれだけ彼が権力を振り翳しても、すべてが空回り、何もかも上手くいかず、一夜のうちに地位も権力も名誉も剥ぎ取られてしまう。
借金取りが大挙して彼の家に押し寄せ、裁判所が毎日のように罰金を請求し、街のどこにいても彼に恨みを持つ男達によって追い立てられた。
ラルフは暗黒街に夜逃げせざるをえなくなった。
その後、彼はさらに老け込んで落魄し、毎日酒に入り浸っては、暗黒街の片隅で自堕落な生活を送っている。