正義の味方、悪の怪人
「先輩って優しいんですねぇ?」
「止めてくれ……」
顔を伏せても、女はその両手で俺の顔を包み込んで逃がさない。
強制的に合わせられた視線。しげしげと俺の瞳を覗く彼女の目は、酷く無邪気なように思えた。
「私がクラスの皆から嫌われてるって言ったら、先輩とっても悲しそうな顔しましたねぇ? 保健室登校の私、可哀想ですか? 可愛そうですか?」
ニタリとしたその微笑みは、ネバつく甘い菓子のようで……
「私のことぉ、助けて、くれますか?」
思わず俺は「話を聞くくらいなら」なんて言いそうになる。
もう人とは深く関わらないと決めたのに。
つくづく学ばない。だけれども、しょうがないと思ってしまったのは……きっと事実だった。
「……」
間違えた言葉を吐かぬよう、閉口して、息を呑んで、女を見つめる。
ふと思った。なるほど、整った顔立ちだ。
けれどそれは、可愛いというよりも美しいという方が似合っていて……
「君、名ま──」
俺が言いかけたとき、ガラリと保健室の扉が開いた。
女は咄嗟にそちらへ目を向ける。続けて俺も視線を動かすと、そこにはヒョロヒョロとした印象を受ける、手足の長い男子生徒が立っていた。
その目の下の隈は濃く、モサモサとした髪はヘルメットのように男の頭を覆っている。
たしかこの男は、俺の吐瀉物を片づけてくれていた一人だ。
「よぉ転校生、猫屋敷紫陽花に悪さされてねえな? されてたとしても正義の味方の僕が来た。もう悪行は終わりだぜ?」
いかにもインドアな外見と裏腹に、男は堂々たる態度で腕を組み、薄い唇でニヤリと笑う。
対する女……猫屋敷は男を睨みながら、跨いでいた俺の上から降りる。
「邪魔しないで下さいよぉ……悪行なんてしていません。私はただ、新しい先輩とお友達になりたかっただけですから。ええ、これは寧ろ善行とすら言えるかもしれませんよ?」
男はフンと鼻で笑い、俺の方に視線を向ける。
「転校生、気を付けろよ。そいつはとんでもない事をやらかして、学校中から村八分にされてんだ。心を許した瞬間に、アンタも取って食われるぜ?」
先ほどから猫屋敷も「酷い事をしたから嫌われている」というようなことを言っていた。
「……とんでもない事というのは? 彼女は何をしたというのかね」
「そいつは僕の口からは言えねえな、正義の味方は影口を言わないものなのさ」
骨ばった男は、ウィンクをしてそう言った。
猫屋敷本人が目の前にいる状況で、猫屋敷の罪を暴露することは影口と呼ぶのか?
しかしまあ、つまりは彼の美学に反するということなのだろう。そしてその感覚は、俺としても分からなくは無い。
「であれば、えー、猫屋敷さん。君が何をやらかしたのか聞いても良いかな?」
問いかけると、猫屋敷は甘えたように目を細める。
「うーん、実はですねぇ。クラスの皆が楽しみにしていたクッキーを、我慢できなくて食べちゃったんです」
随分と気の抜けた悪行だった。
クッキーというのは何かの比喩だろうか?
俺が思考を巡らせていると、男が横から口を挟んでくる。
「その言葉を真に受けるなよ転校生。ソイツの口からは嘘しか出てこない、そういう女だ」
「おやおや、失礼しちゃいます。私、閻魔様に舌を抜かれかけてから、嘘は吐けなくなったんですよ?」
「……」
それが嘘だろうと突っ込むのは野暮だろうか?
そもそも嘘と冗談の境というのも曖昧だが。
どう反応したものかと胡乱な目を猫屋敷に向けていると、彼女は更に弁明を重ねる。
「証拠だってあるんですから。私、閻魔様に舌を抜かれかけてから、舌が伸び切っちゃったんです」
ベロリと彼女の口から垂れた舌。
なるほど、それは確かに引き延ばされたかように随分と長い。
その様子がなんとも可笑しく思えて、俺は小さく笑ってしまう。
すると猫屋敷は呼応するように笑い、ペロッと俺の鼻先を舐めた。
「アンタら、案外相性良さそうだな。徒党を組んで悪行やらかすなよ? ただでさえ宮下小巻の心労がヤバいんだ。取り繕っちゃいるが、アレで繊細な部分もあるんだからな」
男は呆れたように肩を竦め、保健室から去ろうとする。
俺は丁度良かったので、彼に続いてこの場から逃げることにした。
気が付くと心に滑り込む猫屋敷が怖かったから。
「……俺もそろそろ、教室へ戻らせていただこう」
「おや、そうでしたか。一人残されるのは寂しいものです。最後にお名前を伺っても?」
「俺の名前は浅野という。それでは失礼」
「はい、また逢いましょう浅野先輩? 猫屋敷紫陽花は、いつでも保健室でお待ちしています」
そう言って彼女は「にゃあ」と手を振った。
俺は後ろ手に保健室の扉を閉める。
そのまま少し先を歩く男の背中に、俺はボソボソと話しかけた。
「君、俺の吐瀉物を片づけてくれた人だろう? 気分の悪いことをさせて、すまなかったね」
「気にすんな、正義の味方はどれだけ頼っても良いんだからよ」
男は、前を向いたままヒラヒラと手を振る。
「そんなことより転校生、猫屋敷紫陽花についてどう思ったよ?」
「え、まあ……初対面なのに距離感が近い、というのが正直な感想だ」
俺がそう答えると、男は立ち止まって振り返る。
「驚いたな。大抵のヤツは猫屋敷紫陽花と三分でも一緒にいたら、メロメロに惚れちまうもんなんだが」
「なんだそれは……妖怪の類か」
「クハッ! そう遠かねえ、ありゃ魔性さ」
彼は愉快そうに笑って俺を見る。
ひょろりと枝垂れる柳のような見かけに似合わず、随分と声のデカい男だ。
「アンタも気を付けろよ? 猫の妖怪は情を見せた奴から取り殺すもんだ」
「……それは君の嫌う影口と違うのか?」
「あぁ? そりゃ違う。いや……」
男は顔を顰めてバツが悪そうに頬を掻く。
次の瞬間、彼は彼自身の頬を思い切り殴りつけた。
よほど強く殴ったのか、廊下に鼻血が飛散する。
「うわ……君、保健室に逆戻りするつもりかね」
「へっ、禊だよ。罪には罰をってヤツだ。正義の味方はキレイじゃないとな」
べっとりと顔を血で汚している彼が、綺麗だとは到底思えないが……。
男も自身の鼻血に気が付いたのか、無造作にそれを手で拭う。
しかし手が赤く染まるばかりで、大して綺麗にはなっていない。
俺は何とも言えない気持ちで男を見ながら、教室へ戻るため角を曲がった。
「おい、そっちじゃねえぞ転校生」
男が渡り廊下の方を指差す。
その通路に見覚えは無いのだが、俺とて確信があるわけでは無い。
この学校を知り尽くしているはずの在校生について行く方が賢明だろう。
「……」
俺たちは黙ったまま横並びで歩く。
授業中だからか他に人は誰もおらず、少しばかり気持ちが落ち着いてくるのを感じた。
慣れない学校というのは見ているだけでも新鮮なものだ。
教室前のリノリウムの廊下を見たときは前の学校と大差ないように思えたが、渡り廊下を超えてからは壁も階段も木製の建物に変わっている。
雰囲気は学校というよりも、図書館のようだと思った。
チラと隣を歩く男を見ると、相変わらず手で鼻を拭っている。
まだ血が止まる様子は無さそうだ。
自分のことを躊躇なしにこれだけの力で殴りつけるのだから、この男も猫屋敷とは違ったタイプの怖い人なのかもしれない。
……まあ『正義の味方』などと自称している時点で、怖い人なのは自明であるようにも思えるが。
「よし、ついた」
その声にふと顔を上げると、男は進入禁止の立て札を避けて、扉の南京錠を外している。
彼が扉を肩で押すと、目の前には広い空が広がっていた。
どうやら俺は、教室ではなく屋上に連れて来られたようである。
「……俺はカツアゲでもされるのかね。キャッシュレスに対応しているのであれば、65円までなら支払えるが」
「は? カツアゲ? しねえよ、僕は正義の味方だって言っただろ。つーか賽銭箱みてぇなPayPayしてんな」
神頼みに65円は高い気がするが……。
「カツアゲでないのなら、何故、俺を進入禁止の屋上へ導く?」
俺の胡乱な目を前に、男は容貌に似合わぬカラッとした笑い声を上げる。
「ゲロ吐いた上に授業の途中で戻ったんじゃ、悪目立ちするだろ? 目立たず教室に戻れる休み時間になるまで、ここで時間潰そうぜってだけ。ビビんなよ、転校生!」
鼻血塗れの顔のまま、男は屋上へ進んでいく。
俺はトボトボとその後に続き、煙草を吸い始めた彼を横目で見た。
正義とは何かと問う気は無いが、保健室に戻りたいと強く願った瞬間である。
「……ぁ」
ポケットの中でスマホが振動した。
チラと画面を確認すると、ずっと無視している綾加からの新着メッセージ。
『ぜんぶせんぱいが悪い』
俺はスマホの電源を落とし、意味も無く空へと視線を逃がした。




