八百長、八百万、嘘八百
宮下なる女が保健室を後にし、ようやく俺は詰まっていた息を吐き出す。
それは緊張から出た溜息だった。
あの宮下という女は、名倉さんと瓜二つだ。
いや、両者の容姿は似ても似つかないのだが。名倉さんの方が身長は高いし、宮下という女の瞳は闇色でもない。
しかし話し方や動作、言葉選びに至るまで……滲み出る細やかな所作が、夏休み前の名倉さんと異様な程にそっくりなのである。
まるで、教室で友人たちと空虚な会話をしていた名倉さんが、そのまま俺に話しかけているようだ。
もしかすると宮下……アレもまた、怪物紛いの孤独者なのだろうか?
だがそれにしては違和感がある。
その違和感の正体については、まだ辿り着けていないのだけれど……。
気が付くと、俺の手は汗でびっしょりと濡れていた。
どれだけ怯えているというのか。
宮下に「浅野くん」と呼ばれたときには、名倉さんを思い出して教室で嘔吐までしてまった。
情けないと自分でも思う。
だが、どうしても受け入れ難かった。
名倉さんは死んだのだ。
それなのにあの宮下という女は、俺を「浅野くん」と……名倉さんと同じ呼び方で呼んだ。
まるで悪夢が、現実になったみたいだった。
いっそ不登校にでもなってしまおうか?
……なんて、笑えないな。
今俺の家には、本物の不登校の小学生が入り浸っているのだから。
思えば、あゆみが俺の新居に寝泊まりするようになってから、もう一週間くらい経っただろうか?
実家にも、学校にも、もう行っていないらしい。
あゆみに、帰るよう言った方が良いのだろう。だが、あゆみは居場所が無いと言う。
……このままだと、誘拐か何かの罪で俺は逮捕されるのか?
もしそうなら、あゆみを独りにしてしまうのは心配だ。
だけれども、今の俺は学校に行って食事をして寝るのがギリギリ限界で、未来とか犯罪とか社会について考え行動する気力は無い。
今はただ、明日もあゆみと一緒に眠れることを願っている。
「……初めましての先輩。そろそろ私をナンパする決心はつきそうですかにゃ?」
そんな甘ったるい声によって、俺は思考の渦から現実へと引き戻された。
気が付くと、腰が触れ合いそうな程すぐ隣に、人を食ったような表情の女が座っている。
その黒い水のように滑らかな髪は印象的で、俺はその女が宮下と何か会話をしていたことを思い出した。
名前は何といったか……花と猫に関する名前だった気がするけれど、よく覚えていない。
二人が何を話していたかは記憶に無いが、初対面から横並びに座ってくる距離感に怯え、俺は少しばかり距離を開ける。
「……ナンパはしないよ、生憎と体調が優れなくてね。先ほども転校初日だというのに、自己紹介の代わりに吐瀉物を披露したばかりなのだ。それ以来、口は災いの元という言葉を肝に銘じている。だから初めましての後輩を前に、俺はナンパではなく硬派を気取った閉口を選ばせていただこう」
「おや、口を閉ざしますか。お話しして下さらないので? 口を開けたら美味しい飴をあげますよ?」
そう言ってどこからか、女は飴玉をコロリと取り出した。
「なんなら、鞭もあげましょうか? 飴と鞭です。それとも男子高校生には、飴とムチムチが良いですか?」
次に女は、そっと制服のスカートをたくし上げて太腿を見せる。
「なんだそのオヤジギャグは……それでは一層閉口するばかりだよ。飴も鞭もムチムチも遠慮させてもらう。そも、俺はあまり話すことが得意ではないのだ。口を開いても君のように甘言は出てこないよ。繰り返すが、俺の口からは吐瀉と溜息しか出ないのだ」
……我ながらあんまりな発言だが、女は大して気にした様子もなく言葉を返してくる。
「とか言って、チラチラ太腿見てるじゃないですか? スケベですねぇ。それに閉口と仰るわりにはペラペラと口が減らないご様子ですが?」
前者の指摘は図星だったし、後者の指摘も全くもって的を射ていた。
確かに喋り過ぎだ。
もしかすると俺は緊張しているのかもしれない。
今日は転校初日であることに加え、名倉さんと似た女、更には初対面から距離感が異様に近い女と遭遇している。
どうにも、いつもの自分というものを取り戻せない。
俺はもう、前の学校のようなことは繰り返したくないのだけれど。
できる限り人とは関わらず、人の内情には立ち入らず、当たり障りなく生きて行きたい。
死んだように、生きていたいのだ……。
「……まあ、口が減らないどころか、胃の中身まで減ってしまっているからね。さて、ゲロ男はそろそろ宣言通り、口数を減らして休ませてもらうよ」
俺はあからさまに適当な返事をして保健室のベッドに潜り込む。
が、女の方はそれを見ても遠慮する様子が無い。
それどころかクスクスと嗤い、俺の頭の両側に手をついて、至近距離から瞳を覗き込む始末。
怖い、というかヤバい。ヤバい女だ。
初対面とは思えない距離感で、じっと濡羽色の眼を俺に向けてくる。
息が詰まった。頬を撫でる黒髪はしっとりとして、くすぐるように蠢いている。
「俺は眠りたいのだ。どうか他所へ行ってくれないか?」
「私、可愛いですよね?」
突然、女は都市伝説のようなことを聞く。
確か、「可愛い」と答えたらマスクを外した怪人に殺されるのだったか?
であれば対抗策は……
「ポマード、ポマード、ポマード。で良いのかな?」
俺の返答に女の妖しい笑みが崩れ、驚いたように目を丸くする。
そうして改めて俺の顔に焦点を合わせると、女は「にゃあ」と口角を裂くように吊り上げた。
「先輩、口裂け女は『私、綺麗?』ですよ。私は可愛いか聞いたのです」
すると女はバフッとベッドに倒れ込み、添い寝の距離感で俺の隣に横たわる。
俺はなんだかもう、放っておいて欲しくて泣きそうだった。
「俺には運命共同体がいるので、異性と同衾するのはあまりよろしくないのだよ」
ぼそぼそとそんなことを言って、俺は上体を起こしベッドから逃げようとする。
しかし、女はニヤニヤ笑いのまま俺の服を掴んで引き留めた。
「先輩、彼女いるんですね? ちょっと意外かもです」
「彼女と言われると少々疑問が残るけれど。俺の生きる理由になってくれている人がいる」
「重いですねぇ……でも私、重い人すきかもです」
「それは困るな。人と仲良くするのは控えているのだ」
服を掴む手を払おうとすると、逆に手を掴まれてしまう。
そうして彼女は俺の身体を引き倒し、ベッドに押さえつけた。
俺はもう、怯えて耳を塞いで蹲るより他ない。
「そうやって逃げようとしても無駄ですよぉ? 先輩との会話、楽しいですから。逃がしません」
耳元で囁くその言葉は、いっそ死刑宣告のように思えた。
人がいる限り、俺の意思で独りにはなれないのだと思い出す。
関わりたいも関わりたくないも、全ては俺の事情でしかなく、他者はそれを汲む必要など無いのだと。
「……許してくれ。もう放っておいてくれ。俺はもう、人の話なんか聞かないし、助けになろうとしないから。だからもう許してくれ」
「くふふ、なんだか分かりませんが、窮屈そうですね? じゃあ私が許さないって言ったらぁ、どうするんですか?」
蹲る俺に毒を垂らすように、塞いだ耳から甘ったるい声が流し込まれる。
俺はもう訳が分からなかった。
初対面からこんな距離感で接してくるのは普通なのか?
あの宮下という女にしてもそうだ。今日会ったばかりの俺が吐きそうなのを見て、咄嗟に自分の制服で受け止めようとしていた。どういう献身意識を内面化しているのか。
どいつもこいつも本当に……放っておいて欲しい。
俺は何もしていないだろうが。人の話を聞こうともしない俺なんて、何の面白味も無い退屈で陰気なだけの男だ。
普通は興味なんか惹かれない、路傍の石みたいなもんだろう。
優しい奴とか、可愛い奴とか、そういう誰からも話を聞いてもらえる奴らは、俺なんかじゃなくて体育会系の連中とでもつるんでいてくれ……。
必死で耳を塞いで、小さく小さくなろうとする。
なんだか怖かった。この女の陶酔したような声は、文化祭のときの名倉さんを思い出させる。
どうやら俺の脳味噌は、もう何でもかんでも名倉さんと繋げてしまうみたいだった。
もう、死んじゃったのにさ。
「ほぉらぁ……!」
蹲っていた体を無理やり解かれ、強制的に仰向けにされる。
そのニヤけた表情で俺を舐めるように見てから、女は更に笑みを深めた。
「泣いてるんですかぁ、先輩?」
「君からそう見えるのであれば、そうなのだろうね……」
「何がそんなに怖いんです? 私に話してみてくださいよぉ」
そう言って俺に覆いかぶさる女は、誘惑的に目を細める。
わざとらしく揺らされる胸を自然と目で追ってしまうが、俺はその揺らぎに恐怖と怒りを喚起されていた。
……だが何よりも今強いのは、諦念だ。
「俺の話は、初対面の相手に聞かせるようなことではないのだ」
そう言うと、ふと女の目に理知的な光が宿るのを見た。
「関係ないですよ、初対面かどうかなんて。恋に時間は無関係じゃないですか。これは奸計ではありませんよ? ただ先輩の背景が知りたいだけなのです」
俺はその言葉に堪らず言葉を返す。
もう自分の意思で話しているのか、話すよう仕向けられているのかも分からなかった。
「関係も百計も無いんだ。恋も好意も時間ではなく俺と無関係なのだから。君こそ話したらどうなんだ、軽々に近づいて、知ろうとして、あまつさえ恋などと嘯く。これ見よがしに奸計ではないと口にするのは、これは奸計ですと口にするのとどう違うんだよ……」
俺の言葉に、やはり女はクスクスと嗤った。
こちらを小馬鹿にしたような悪戯な笑みは、しかしどこまでも俺を追ってくる。
「……私ね、酷いことして教室の皆に嫌われてるから、保健室登校してるんですよ?」
「っぅ……」
その言葉に、思わず彼女の目の奥を見ようとしてしまった。
可哀想だと思ったから。
不味いと気が付いたときにはもう遅い。
女は「あっ」と嬉しそうに声を上げ、より一層深く俺の瞳を覗き込んだ。




