あたらしいおともだち
転校生が来るらしい。
と、数日前に教えてくれたのは親友の友美ちゃんだった。
いつも無口で大人しい友美ちゃんだけど、彼女は意外と情報通なのだ。
どうやら転校生は男子らしい。それを聞いたクラスの女子たちは少し浮足立っている。
男子たちも興味なさげにしているようで、噂みたいな転校生の情報に聞き耳を立てているようだった。
私の方はというと、転校生が今の学校の嫌な空気を変えてくれたら良いな、なんて期待しちゃっている。
見ず知らずの人に大きな期待を背負わせすぎているような気もするけど、私にはもうほとんどお手上げ状態なので。
そういえば……と思い、幼馴染のかーくんの方を見る。
かーくんはいつも通り、教室の後ろでスマホゲームに夢中。転校生にはあんまり興味が無いのかもしれない。
かーくんは同性の友達が……というか、友達が私しかいないから、転校生が友達になってくれたら、なんて思ってたんだけど。
あ、どうせなら転校生が恋愛相談室に入ってくれたら楽しいかも!
そんな想像を膨らませていたら、ガラガラと教室の前の扉が開く。
「ほら、みんな席につく~」
担任の先生の呼びかけで動く生徒たち。
椅子や机のガタガタ音と話し声が静かになってから、先生はぐるっと教室を見渡した。
「なんか皆もう知ってるみたいだけど、今日から転校生が来ます。じゃあ浅野くん、入ってきて」
転校生は、教室の扉を少しだけ開けて、その隙間をすり抜けるように入って来た。
注目の的の彼は少し背が小さくて、全体的に髪が長い。
猫背な姿勢と銀縁の眼鏡は、何だか疲れた印象を受ける。
あんまり明るい感じの男子じゃなさそう。
でもそれなら、かーくんや友美ちゃんとは相性良さそうかな?
「よし、浅野くん。それじゃあ黒板に名前書いてから自己紹介して」
「……はい」
小さな掠れ声。
その、どこか怯えているような声音に、私は少し心配な気持ちが湧いてくる。
浅野 晋作。黒板に綺麗に書かれた文字は、少し小さくて見えづらい。
「浅野晋作です。これからよろしくお願いします」
それだけ言って黙ってしまった浅野くんに、先生は苦笑する。
「もうちょっとほら、趣味とか無いの? 得意な教科とかさ」
すると浅野くんは口元に手を添えて、少し考えてから掠れ声で続ける。
「体育が嫌いです」
「……趣味は?」
「読書でした。最近は読めなくなりましたが」
返事は最低限といった感じ。
けれどその短い言葉で、私は浅野くんがどんな人なのか気になり始めていた。
本を読めなくなるってどういうこと? とか、冬休み前の今の時期に転校してきたのはどうして? とか、興味は尽きない。
今にも消えてしまいそうな彼の纏う空気が、私の好奇心をより一層強くさせるのだ。
一方、先生は少し面倒くさそうに彼のことを見ていた。
「えーと、じゃあそんな感じで、皆さん仲良くするように。浅野くんの席は……宮下さんの隣が空いてるからそこに座って。宮下さんは、放課後にクラス委員として、浅野くんに学校案内お願いね?」
「あ、はいっ!」
突然先生から名前を出され、慌てて返事をする。
少し声が大きかったかな? 浅野くんが私の方を見てる気がする。
「あのっ、よろしくね?」
隣の席まで歩いて来た彼に、私は少し緊張しながら挨拶をする。
しかし、彼の視点はどうしてか定まらない。
「……名倉、さん?」
彼がそう呟いたとき、その瞳が見えた。
真っすぐ覗き込むように私を見つめる、吸い込まれそうな……深い深い悲しみの色。
彼の眼鏡越しに見えた寂しげな黒に、私は呼吸さえ忘れ魅入られていた。
「え?」
浅野くんは、視線を逸らさずにいる。
その眼はとても必死で、真っすぐで、なんだか私は困ってしまった。
「あの、宮下だよ。私は宮下小巻。よろしくね、浅野くん?」
「っ……!」
突然、浅野くんが口を手で押えて蹲る。
「うっ、ぶ、ぅぇ……」
びちゃりとした水音と共に、彼の手の端から少し液体が垂れるのを見た。
私は咄嗟に制服の端を持って受け皿を作る。
「浅野くん、大丈夫。ここに吐いて?」
「……っ!」
浅野くんはバッと顔を背け、泡立つ水みたいな吐瀉物を床にぶちまける。
教室に広がる液体と異臭。近くの女子が甲高い悲鳴を上げ、男子が「うお、汚ね……」と思わず漏らした。
もう、教室は騒然としていて、先生も収集をつけられない。
一定の距離を開けて囲まれる浅野くんの背中は、なんだか最初より余計に小さく見える。
……誰だって、吐くことくらいあるのに。
私は雑巾を持って、そっと彼の隣に腰を下ろす。
「ね、大丈夫だよ?」
浅野くんの顔を見る。
死にそうなくらい真っ白で、その瞳には涙が滲んでいた。
それから、彼の視線は私の視線から逃げるように逸らされる。
「大丈夫だよ……」
雑巾で床を拭く。胃酸の臭気が鼻を突いた。
指先に触れる吐瀉物は少し温かく感じる。
すると、かーくんと友美ちゃんも吐瀉物の掃除に集まってきてくれた。
こういう瞬間が、私はたまらなく嬉しいのだ。
しばらく黙って掃除していると、浅野くんはポケットティッシュを取り出して床を掃除しようとする。
「わわ、大丈夫だよ。浅野くんは、落ち着くまで休んでて?」
「……っぐ、ぅ」
浅野くんが再び口元を押える。
「あっ!」
咄嗟に服でもう一度受け止めようとするが、今度は吐くのを堪えられたようだった。
私は、掃除を続けている友美ちゃんとかーくんに目くばせしてから立ち上がる。
「先生、浅野くんがまだ体調悪そうなので、保健室まで連れていきますね?」
「あ、分かった。じゃあ宮下さんお願いね」
これまでぼーっと見ていただけの先生の、安堵したような態度に少しだけムカっときてしまう。
教師なのに頼りなくて、きっと今の学校中の空気にだって気付いていないのだろう。
「浅野くん、行こ? 立てるかな?」
「……ぁぁ」
掠れ声と表情は随分辛そうだったけど、彼は私の手を取らずに独りで立った。
そういうところを見ていると、私は余計に彼が心配になってくる。
浅野くんは何だか、雨でびしょ濡れの野良猫みたい。
私が隣を歩こうとしても、逃げるみたいに少し離れて。
そういう人を見ると、私は余計に近づきたくなる。
でも、迷惑かな?
今はどこのクラスもホームルームをしているから、廊下には私たち二人きり。
リノリウムの床に、上履きの足音はよく響いた。
こんな静かな場所だから、浅野くんの小さな声もハッキリと聞こえる。
「あの……俺の呼び方、苗字ではなく名前で呼んでもらえないだろうか?」
「え、わ、えっ!?」
そんなことを真っすぐに見つめられながら言われたら、私赤面しちゃうよ!
距離を縮めるのはゆっくりの方が良いかと思ったけど、意外とぐいぐい来るタイプなんだ……。
「じ、じゃあ、えと、し、晋作、くん?」
「……うん、よろしく。それと、会ったばかりなのに吐瀉物の処理をさせてしまい、すまなかった」
「わわ、良いよお、そんな。というか体調大丈夫? 朝来たときから、ちょっと具合悪そうだったもんね?」
「いや、問題ない。体調というより、アレは精神的なものだから……」
「そか、キツくなったらいつでも言ってね? 私は晋作くんの味方だよっ!」
「はは……」
乾いた声と困ったような疲れた笑み。
それを見ただけで、彼が私の言葉なんか信じてないことが分かる。
これから仲良くなって、少しでも励ませるようになれたらいいな。
「はい、ここが保健室だよ!」
私が「失礼しまーす」と中に入ると、先生はそこにいなかった。
代わりにいたのが……
「おや宮下先輩、おはようございます。朝から授業をサボって男を保健室に連れ込むとは、流石の恋愛相談室長様ですねぇ」
そのニヤニヤ笑いと迂遠な嫌味、そしてそれらを全て愛嬌に変えてしまう整った顔。
……猫屋敷 紫陽花。今この学校に蔓延する嫌な空気は、全て彼女一人の力によって作り出されたものだった。
だから私は、悪意を伝染させるこの子が苦手だ。
「そういうのじゃないよ。それより猫屋敷さんはまだ教室に戻れなさそうなんだね……」
「別に、教室なんて行く価値が無いから行ってないだけですよ~」
「猫屋敷さん、ちゃんと謝ろうよ。もし皆が許してくれなくても、それだけで違うからさ?」
「はいはい、お優しい忠告痛み入ります。やはり2年B組の教祖様は違いますねぇ」
「……やめてよ、その呼び方」
私に嫌がらせができて満足したのか、猫屋敷さんは小さく「にゃあ」と笑ってから保健室のベッドに寝転がる。
彼女が楽しそうに読み進めている本の表紙には『阿Q正伝』と書いてあった。
「ごめんね、晋作くん。置いてけぼりにしちゃった」
「構わんよ。俺の方は勝手に休ませてもらっていた」
彼は気が付くとベッドの端に座っている。
私はちゃっかりとしたその様子に少し笑って、保健室の冷蔵庫からポカリを注いで手渡した。
「勝手に飲んでも良いのかね?」
「んー、じゃあナイショね? ふふっ」
「……あぁ」
その困ったような表情に、私はまた少し惹き付けられる。
彼の不安げな一挙手一投足が、私の庇護欲をくすぐるのだ。
「ねえ晋作くん、教室まで戻る道順は覚えてる?」
「一応、覚えている。廊下を真っすぐ戻って、階段を上れば帰れるね?」
「うん! それじゃあ私は先に戻るから、体が楽になったら戻ってきて。あ、でも三時間目は体育だから気を付けてね~」
私は軽く手を振って保健室から出た。
猫屋敷さんが居るのは少し心配だったけれど、流石の彼女も初対面の相手に短時間で何かすることはできないはずだ。
……でも、晋作くんに忠告くらいはしておくべきだったかな?




