薄甘い吐き気
「ねぇ……ねぇ……!」
真っ暗な闇の中、体を揺らされて目を覚ます。
寒い。フローリングの冷たさと硬さが体を蝕んでいる。
「起きろバカ」
俺は目を開けようと思えないまま、体だけを動かそうと試みる。
疲労感と怠さで酷く気持ちは沈んだままだけれど、今は少しだけ起き上がれそうだったから。
「……」
俺は無言で立ちあがり、フラフラと奥の部屋に向かった。
そうして俺はベッドの前で立ち止まる。このまま倒れ込めば良いのだが、どうにも倒れ込むという動作をするのが億劫だ。
そのまましばらく固まっていると、不審そうにあゆみから声をかけられる。
「どうしたの?」
「……ん」
短く口から音を漏らし、俺は黙り込んだ。
するとあゆみが後ろから蹴飛ばしてきて、俺はそのままベッドに倒れ込む。
後は目を瞑って眠るだけ。存外に、簡単なことだった。
+++++
夢を見ていた。
ベルトコンベアに流されながら衰弱死していく名倉さんを眺める夢だ。
名倉さんは後から後から流れてきて、そして死んでいく。
大量の死体もどこか遠くへ流されていって、それと同じくらい大量の、衰弱した名倉さんが流れてくる。
それをただ、俺は見ていた。
無感動に、無感情に、そして無干渉に。
ふと横を見ると、隣に名倉さんが座っていた。
その困ったような微笑みが懐かしくて声をかけようとした。
そこで、名倉さんは既に死んでいるのだと気が付く。
場面が変わって俺はベルトコンベアの前で検品をしていた。
流れてくるのは様々なぬいぐるみ。
俺は破れたり目の位置がおかしかったりするぬいぐるみを後ろに捨てていく。
淡々と、不出来なぬいぐるみを捨てていくのだ。
そこでふと、目が覚めた。
あゆみが俺の顔を覗き込んでいる。
窓から差すのは薄い日の光で、寒々しい朝の訪れを知った。
「ねえ、お腹空いたんですけど」
「ああ」
それだけ言って、俺とあゆみは見つめ合う。
いや、正確に言えば見つめ合ってはいない。
俺はたぶん、ぼんやりと空間を眺めていただけだ。
思考はナメクジのようにのたくって、意味のある時間を体感できない。
「……」
まだ、あゆみは俺を見つめているようだった。
遅れて、あゆみは腹が減ったのだと言ったことを認識する。
そうか。と、思った。
気が付くと、あゆみは視界から消えていた。
幻覚だったのだろうか? と、短く思考するのに随分長い時間を要した。
再びあゆみが戻って来たときに、俺はようやく彼女が幻覚である可能性に思い至る。
俺は目を瞑った。
思考が更に遅くなりはじめた頃、また夢を見てしまうのが嫌だと気怠くなる。
そのまましばらく瞼の裏の暗闇と向き合っていると、次第に先ほどのことも夢か現か分からなくなってきた。
名倉さんのことも、このまま夢のことのように曖昧になってしまえば……
そんなことを望む権利が、俺にあるとは思えないけれど。
今、俺の胸に蟠る感覚は……憂鬱、というと少し違う気がする。
虚しさが胸に広がっている。穴、空、隙間、どんな言葉で言い換えても良いが、どうあれそれは何かを無くしてしまったときに去来するものだ。
無気力に、虚無に、全ての意味が呑み込まれる。
選択の全てが億劫で、だから結果的に指の一本だって動かす気力が起こらない。
何だろうな、これは。
名倉さんの死というのは、それほどまでに俺にとって大事だったのか?
いや、違う。どちらかというと俺が今を生きていることこそ、大事であるように思えた。
生きている自分に疑問がある。俺はあのとき、首を絞められ濁流に呑まれ死んだはずなのだ。
俺の人生は、もう終わったことなのだ。
続いているはずが無いのだ。
だというのに、未だ時間は流れ代謝が起こり俺の生命活動は持続している。
それは酷くおかしなことだというのに、世界はそれを解さないから……だから、動くのが億劫になる。
音も、光も、視界も、思考も、全て全てが煩わしい。
俺はもう死んだんだからさ、放っておいてくれないか。
瞼が開いたまま、目が乾いていく感覚。
次第に強くなる目の痛みも、どこか他人事だった。
「ほら……ねえ、食べて」
気が付くと目の前にあゆみがいた。
ぼんやりと眺める。
「食べろ!」
大きな声で言われて初めて、彼女が俺に箸を差し出していることに気が付く。
カップラーメンを俺の口元に差しだす姿を見て、あゆみが幻覚ではないことを理解した。
「……」
俺は寝転がったまま口を開ける。
そのまま、あゆみは口に麺を入れてきたので、大人しく二回ほど咀嚼する。
口に広がるのは濃い塩味。脂臭さが鼻に抜ける。
不快感と吐き気が強く喚起され、俺は思わずラーメンをベッドに吐き出した。
喉の締まるような感覚と共に、ゼーゼーと荒い呼吸が漏れる。
マットレスには唾液と千切れた面が散らばり泡立っている。
あゆみは、酷く悲しそうな目で俺を見ていた。
俺はなんだか死にたくなって、自分がどうしようもなく生きていることを理解した。
「……俺は、無理だ。すまない」
掠れた空気が喉を震わせる。
口に残るラーメンの味が気持ち悪い。
もう何も見ていられなくて、俺は目を閉じベッドに顔を押し付ける。
滲んだ涙を、見られたくなかった。
「っ……!」
突然、ガッと頭を掴まれる。
ブレる視界に何が起きたのか認識する前に、口に広がるラーメンの味を認識した。
反射的に吐き出そうとするが、口が塞がれて吐き出せない。
それどころか、呼吸も上手くできなかった。
混乱する頭で口を塞ぐ何かをどけようと手を伸ばす。
指先に触れたのは柔らかさと髪の毛。
俺は一呼吸おいて、更に口の奥へと押し込まれたラーメンを反射的に飲み込む。
ふっと息がしやすくなる。
至近距離で睨みつけてくる、あゆみの目。
俺と彼女の口の間に、細い唾液の糸が伝っていた。
うっと喉奥から気持ちの悪さがせり上がる。
びちゃりと、俺は再びベッドの上にラーメンを吐きだした。
広がる唾液の染みを眺める。
するとあゆみはカップから新しくラーメンを口に含み、再び俺の頭を掴んで口移しで押し込んでくる。
慣れて来たのか、三度目の脂の臭いは最初ほどキツく感じなかった。
あゆみは口を繋げたまま、薄い舌で麺を押し付ける。
その感触を気持ち悪く思いながらも、俺は努めてラーメンを飲み込んだ。
口の中が空になっても、まだあゆみは口を離そうとしない。
もしかすると、俺がもう一度吐き出すことを警戒しているのかもしれなかった。
「……ん、ふぅ」
しばらくしても俺が吐き戻さないのを見て、あゆみはようやく口を離す。
なんだか部屋の薄暗さが気になる。
真正面から見つめるあゆみの姿に、今日初めて焦点が合った気がした。
「んぶっ、れ」
三度目の口移し。
俺は大人しく、麺とスープを受け取るように舌を動かす。
自らの嚥下する喉の蠢きと、伝う唾液が殊更に気持ち悪く思えた。
それと同時に、どこかその嫌悪感に惹かれる心の動きがある。
口を離すと、やはりあゆみは俺のことを睨みつけている。
対して俺は、腹に食べ物が入ったことで、あきらかに無気力が小さくなっていることに驚いていた。
食事というのは大切で、人体というのはシステムなのだと、ほのかに熱を持った腹を撫でて実感する。
「もう、一人で食べられそうだ……」
「あっそ。てか、それ食べたらベッドちゃんとキレイにして。私、ゲロベッドで寝るのとか絶対ヤダから」
「ああ」
俺はあゆみから箸を受け取り、ラーメンを啜る。
相変わらず豚骨と化学調味料の安っぽい旨味は気持ち悪かったが、吐き出すほどではない。
俺は窓から差す午前の弱い光を見て、静かに名倉さんとの日常を思い返していた。




