逃避行の終わり
現実感の無い現実から覚めたとき、俺は縦に積まれた段ボール箱を見つめていた。
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意識が戻ったのは病院のベッドの上だ。
警察は開口一番に「死者一名、行方不明者二名」と言った。
それは、お姉さんと、名倉さんと、俺の母親のことだった。
お姉さんは死亡、名倉さんと母親は死体が見つかっていないため行方不明。
ただし、生存の可能性は極めて低いというのが大人たちの見解らしい。
つまり、名倉さんは死んだのだと、そう理解した。
そして、俺は生き残ってしまった。
世界が遠のく感覚と共に、目に映る現実は現実感を失った。乖離症、と言うらしい。
まるで夢の中のような視界。警察や医者の言うことは分かるものの、自分に関係のある出来事とは思えなかった。
俺は現実から切り離されたまま、沢山の大人と話した。
できるだけ事実に即し、名倉さんのことも母親の死体のことも正直に話した。しかし、後日見たニュースに俺の罪の告白は反映されていなかった。
もしかすると、錯乱した子供の証言には説得力というものが無かったのかもしれない。
どうあれ、社会は名倉さんの罪を裁くつもりが無いということだ。
これは死者への冒涜だろうか?
俺は、どこかから派遣された大人の人に言われるがまま手続きを済ませ、母が進めていた引っ越しと転校の準備を終えた。
大人の人が言うには、俺が高校を卒業して国立大学まで通えるだけの遺産があるらしい。
俺の両親は『良い親御さん』なのだそうだ。
引っ越し業者が運び込んだ段ボール箱の数はそう多くなく、荷解き前の新居は寒々しいほどに広々としている。
他人の家みたいに馴染みの無い空間。
見覚えがあるのは、引っ越し業者がそのまま設置した冷蔵庫と洗濯機とベッドのみ。
そこでふと、身体に現実感が戻ってきた。
荷解きをしなければならない。そう思って縦積みの段ボール箱を眺め、どれくらい時間が経過しただろう?
俺はただ、薄暗い部屋でぼんやりと段ボール箱を見つめ続けている。
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何もせずに二日が経った。
食欲は無いので何も食べず、ふと動く気になったときに水分補給とトイレを済ませている。
引っ越し業者がベッドを設置してくれていて助かった。
冬に固いフローリングの床で寝るのは、たぶん寒いから。
思考も無く壁を見つめる。真っ白。
意味も無く目を瞑る。真っ黒。
何も考えられなかったから、最初の一日は眠っているのか起きているのか良く分からない状態で過ごした。
二日目も同じように過ごした。
……今日が引っ越して何日目なのか分からない。二日目だと思っていた。
違うかもしれない。
この家は朝も昼も薄暗い。明るくなるのは昼過ぎ。
カーテンが無いので、傾き始めた日の光が鬱陶しかった。
「……」
俺は死にぞこないだ。
ふと思った。
俺は死にぞこないだ。
心の中で繰り返す。
母親の死体を捨てて、お姉さんも死んで、名倉さんを死なせて、俺が生き残った。
ずっともやもやと形を成さなかった気持ちが、突然悪意のように自らを刺してくる。
罪悪感があるのだ。名倉さんを独りで死なせてしまったことに。
俺は何もできない。
孤独な名倉さんの隣に居られなかった。
彼女は分かっていたのだ。社会に自分の居場所が無いことを。
そして俺はそんな彼女の居場所を作ることも、居場所になることもできなかった。
名倉さんは孤独に耐えられなかったのだ。
自分がこの先の未来に幸せになれるとは思えなかったのだ。
幸せでない未来を見据えて生き続けることより、俺を道連れにして死ぬことを望んだ。
彼女は俺を不幸にする。
その通りだ。それでも良かった。
名倉さんが、少しでもマシな気持ちでいられるなら。
これが好きということなのだろうか?
だとすれば、俺には執着との違いが分からないな。
別に俺は、名倉さんのために死ぬことなんてまるで構わなかったんだ。
だって、しょうがないから。それが一番マシなんだから。
孤独で理解不能で化け物な彼女が、最後に一つだけそれを願ったのだから。
俺にはたぶん、生きたい理由も死にたい理由も存在しない。
痛みや苦しみは嫌だけど、それだけだ。死ぬ直前、最後の苦しみ一回くらいは耐えられる。
俺は名倉さんに言った、ずっと寂しいんだ。
この寂寥感は消えない。本を読んで逃避しても、軸足のある現実にはどこか虚無が在る。
この気持ちは消せるのだろうか? これはいつから在るのだろうか?
子供の頃には無かったこの感覚が、人生をやりきれなくさせる。
もう、自分の人生と寂しさは諦めていた。だから名倉さんのために命くらいあげられたのに……
俺なんかもう、どうにでもなれば良いのに。
たぶん、そのうちに転校先の新しい学校が始まる。
スマホには沢山のメッセージが溜まっている。
大人からの連絡だけ返していた。
食事もしないといけないらしい。
水は飲んだ。
風呂にも入らないといけない。
トイレにも行かないといけない。
服も着替えないと行けない。
荷解きもしないと行けない。
名倉さんは、死んだのに?
気が付くと窓から差す光は茜色に染まっていた。
冬は時間がすぐに過ぎる。
昨日も、その前も、同じようにすぐ過ぎた。
このまま眠ってそのまま死んでも、俺は一向に構わないのだ。
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目を覚ますと真っ暗だった。
窓から少し街灯の明かりが入ってきている。でも、ベッドまでは届かない。
俺はどれくらい寝ていたのか。
まあ、昼も夜も寝たり起きたりしているから、あまり関係は無いが。
霞がかった意識で宙を見つめる。
携帯の振動は無視した。何日も前から、ずっと無視している。
……あゆみも、綾加も、平川も、巻き込んでしまったな。
ふと思い出すように、彼女たちを想った。
お姉さんが亡くなった理由は聞いていない。
ただ、たぶん死んだのは俺のせいなのだろうと思っている。
……俺は何がしたかったのか。
孤独な人の隣に居たいと思っていたはずなのだ。
近くにいる人の幸せを願っていたはずなのだ。
けれど周りには死人ばかり。俺に問題があったのだ。
『たぶん浅野くんが人を……家族を嫌いなうちは、ずっとそうだよ?』
名倉さんが、以前俺に告げた言葉。
彼女が言うには、俺が人を誑かすから周囲の女の子が殺し合うのだと。
そうかも知れない。
だって俺が孤独な人の隣に居たいと言うなら、その願いの裏にはきっと母が居た筈だ。
夫に先立たれ、友人もおらず、両親からも絶縁されている俺の母こそが、きっと一番身近で孤独な人だった。
こんなこと、母が生きていた頃は冷静に考えられなかっただろうけど。
俺は母への罪悪感を癒すために、孤独な女の子に近づいたのか?
その癖、代替物は母と違うから、フラフラと好意を向けられても逃げ回った?
……悪く考えすぎか? だけれど、完全に否定もできない。
自分のことが自分で分からない。パズルのピースを組み合わせるように、自分の形を探している。
俺は母親が嫌いだ。
支配的で、俺を信じてくれなくて、話を聞かない母親が嫌いだった。
脳裏に浮かぶのは死体の白濁した瞳。
こちらを見つめている。
俺自身がそれを、暗くて寒い海の底に捨てたのだ。
俺だって、母に愛され普通に育って普通に優しくなれたら良かったさ。
けれどコンプレックスの裏返しのような優しさしか、俺にはやり方が分からない。
優しくしたいよ。名倉さんも、あゆみも、平川も、綾加くんも、困っていたから。
でも俺は間違えた。
最初は、お姉さんがしてくれたのと同じように、ちゃんと話を聞くだけで良かった。
でも俺自身の中身を求められたもう……一緒に死んであげることくらいしか、方法が分からない。
だから失敗した。
なんだよ、クソ。
「あー……」
喉から意味の無い掠れた声が出る。
少し、目の奥が熱くなった。涙は出ないように抑えた。
独りなのだから、涙くらい流せば良いのに。
自分が何を考えたいのか分からない。
取り留めのない自罰的な思考が積み重なる。
このまま人生というものを終わりにして欲しかった。
動けない。
「……」
呼び鈴が鳴った。
静まり返った暗いこの部屋に、来客があったのだ。
今が何時かは分からないが、案外どうでも良かった。
俺は自然に立ち上がると、すたすたと歩き、そのまま玄関を開ける。
覗き穴を見る気力は無かった。
頭の片隅では、名倉さんが殺しに来てくれたのなら良いと考えていた。
「……」
俯きながら開けたドアの前には、背の低い来客が立っていた。
あゆみだった。
彼女は不機嫌そうな……眉間にしわを寄せた目で俺を睨んでいる。
俺はただ「あゆみだ」と思いながらぼーっと立っていた。
「……入れてよ」
「ああ」
俺がそう返事をしたのに玄関から動かずにいると、彼女は無理やり押し入って来る。
俺は押されるままにバランスを崩し、そのまま座り込んだ。
息を吐き、膝を抱えて、あゆみが靴を脱ぐ動作を見つめる。
「ねえ、なに座ってんの」
「ああ」
俺は立ち上がろうと思ったが、立ち上がろうと思えなかった。
そのまま座り込んでいたら、ぐいぐいと腕を引かれる。そのまま俺が引きずられると、あゆみは泣きそうな顔で俺を見た。
彼女は俺を軽く蹴り、くっついて小さく蹲る。
結局その日は、二人一緒に玄関で眠った。




