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メスガキのバカな大人観察日記  作者: ニドホグ
人生行路は疑似科学

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独りきり

「名倉さん、名倉さん……!」


 俺の呼びかけが聞こえないのか、彼女は止まる気配が無い。

 ああ、このままどこまで駆けて行くのか?

 豪雨の中、俺を抱えてひた走る彼女はどこまでも孤独に見えた。


 嗚咽を漏らしている。

 頬を伝うのは涙か雨か。名倉さんは酷く動揺していた。

 それは不安で不安で仕方がない、小さな子供の目に見えた。


 雨はまるで壁のように、周囲の情報を覆い隠す。

 世界に二人きり。テトラポットと海辺の逢瀬を思い出す。


 そんな揺らめく世界の果ては、随分と大きな川だった。

 ガードレールの向こう側で轟々とうねる濁流。自然の暴力は無慈悲に逃避行の限界を示している。


「行き止まりだ」


 俺はそっと、地面に足を着けた。

 気が付けば、何も無いアスファルトの上にすら水が溜まっている。

 豪雨だ。大雨警報も出ているかもしれない。


 警察がすぐに追ってくる様子は無いが、捕まるのも時間の問題だろう。


「……名倉さん」


 俺の服の裾を掴んで、俺より背の高い彼女は子供のように泣いている。


「どうして泣いているのかね?」


「ん、ぅ……えと、あの、あのね。なんか、悲しいの」


 子供のような口調でたどたどしく彼女は語った。


「稲塚さんを見てたら、私、駄目だって、思って……だって私じゃ、無理。浅野くんと、あんな、あの、一緒に幸せになる、なんて、私できないの。浅野くんは、私と一緒に居てくれるって言ったけど、でも、同じものを見て、同じものを感じて、同じことを楽しんで、同じことに怒って、そんな風に一緒にいること、私にはっ、で、できないから……」


 綾加君の言葉を聞きながら、名倉さんはそんなことを考えていたのか。

 俺は少し驚きながら、続く彼女の言葉を待った。


「私、私ね、そんな贅沢求めちゃいけないって分かってるよ。私には無理だって、分かってるの。けど、稲塚さんを見てて、気がついちゃった。本当は、もっと、私……」


 怯えた顔で、彼女は恐る恐る本心を口にする。


「……私、私も、浅野くんに心を理解してもらいたい」


 名倉さんはガードレールに腰を置く。

 今にもフラリと落ちそうな彼女は、濁流を背に懺悔を始める。

 雨に濡れたその瞳は、雨雲を映し灰色に揺らめく。


「……私、私は自分が嫌い。私の隣じゃ、浅野くんは幸せになれないって分かってるけど、分かってるのに、私の隣に居てほしい。こんなこと、本当に浅野くんのことが好きなら言えないよね?」


 息を呑む。

 その表情は今にも壊れそうな硝子細工を思わせて、俺は今日この瞬間こそが審判の日なのだと理解した。


「でも私、私ね、それでも……誰かの隣で浅野くんが幸せになるくらいなら、私の隣で不幸になってほしいんだ」


 それは綾加と真逆の言葉。

 俺の幸福を望まない、徹底的に利己的な思考。


 初めて会った頃の名倉さんを、俺は思い出していた。

 夏休み前の彼女は全ての行動を薄っぺらい道徳規範に合わせており、利己とは対極に位置していたから。


 彼女にとっての普通とはつまり、目立たず、異常なく、自らを覆い隠して生きること。

 学校の先生、クラスメイト、母親、彼女を取り巻く世界から異常を指摘されないこと。


 そんな名倉さんを見て俺は、様々な理屈を捏ねて本心を引き出そうとした。

 でも本当のところ、夏休みの俺はただ許せなかっただけなのだ。名倉さんの生き方が、母の前で自分を殺し続ける俺自身を思い出させるから。


「名倉さん」


 こちらを窺うようなその瞳に、俺は少しだけ本心を漏らすことに決めた。


「俺は、人を頼れと良く言われる」


「……」


 雨に濡れた俺たちは、どちらからともなく視線を交わす。

 俺は一歩、名倉さんに近づいた。


「きっと、人を頼るべきなのだと思う。しかし、それでも俺は人を頼れない。たぶん、怖いんだ」


「……何が怖いの?」


 静かな声。不安そうで、寂しそうで、名倉さんらしい声。


「何て言えば良いのか……俺は、きっと他人が怖い。自分以外の他者が、怖い」


 自分の心を言葉にするため、深く深く感情を探る。

 どんな言葉が心の形にあっているのか、俺はつっかえながら言葉を選んだ。


「心を開いて、心を預けて、人を頼ってさ、そうしたらもう……孤独に戻れなくなる。孤独でいることが怖くなったときに、もうきっと今までのようには生きていけない」


「それが怖いの?」


「……」


 俺は黙ったまま、名倉さんの目を見て頷いた。

 そのまま、少しだけ勇気を出す。


「名倉さん、昔の話をしても良いかな?」


「……聞きたい。浅野くん、あんまり自分の話をしてくれないから」


 そうかな?

 そうかもしれない。だって、あんまり興味も無いだろう。


 しかし名倉さんは興味深そうに、しげしげと俺の瞳を見つめていた。

 昆虫を観察するような、無機質な、そんな夏休みに感じた印象はもう無かった。


 俺は一つ息を吸い、ゆっくりと吐き出す。

 そうやって踏ん切りをつけて、昔話の一言目を口にした。


 ——俺は小学生の頃にね、母親のことが好きだったんだ。

 普通の子供みたいに、刷り込みでね。母親を絶対的に信じていた。

 それ以外もまあ、至って普通の子供だったよ。少しアマノジャクなところはあったけれど、手も付けられないという程ではなく、良くも悪くも子供らしいガキ。


 そんなある日、とある不幸な行き違いでさ、俺は学校で泥棒扱いを受けた。勿論、俺は泥棒なんてしていない。無実の罪、冤罪だ。


 当時の俺は当然、母親だけは俺のことを信じてくれると思っていたんだけど……母親も俺を信じなかった。優しげな顔で、正直に罪を告白し謝罪せよと俺を諭した。

 どうやら母の高い基準の上で俺は『良い子』じゃなかったらしく、俺の「やっていない」という訴えは信じてもらえなかった。


 そうして俺はやってもいない罪を告白し、謝罪によって赦された。

 なんだかその日から怖くなってね。良い子でいないと、真面目でいないと、誰も自分を守ってくれないと思うようになった。

 それからだ、学校でも親の前でも、俺がクソ真面目な『良い子』になったのは。


 今思えば大したことの無い、良くあるようなできごとだ。

 でも当時の俺には大事件で、誰のことも信じられなくなるような傷になった——


「……」


 名倉さんは黙って聞いていた。

 表情の変化は無く、その心の内は窺い知れない。


 俺は何故だか強い不安に駆られた。

 自らが過去を曝け出している理由も分からないまま、漏れ出る言葉を止められなかった。


 ——そんなときにさ、夏休みの最中、秘密基地でお姉さんと会ったんだ。

 お姉さんは不真面目で、『良い子』じゃなかった。そして、俺の話をちゃんと聞いてくれた。


 お姉さんと話して、世の中には自分と似た人がいることを知れたんだ。

 良い子じゃない本当の自分で接して、それを受け入れてくれる人がいる。それは救いだった。ずっと、息苦しくて仕方が無かったから。


 しかしね……お姉さんは夏休みの終わりと共に、あっさりと秘密基地から姿を消した。

 俺はお姉さんの家も学校も分からなかったから、それきりだ——


「……」


 名倉さんの沈黙を意識し、ふと追憶から浮上する。

 気が付くと俺は俯いて、拳を握り込んでいた。


 無言の裏に鳴る雨音で、水の冷たさを思い出す。


 小学生の夏の終わり、一人になると涙が溢れたことを覚えている。

 時間の経過と共に心が硬くなって、涙も出なくなって、孤独が日常になっていった。

 けれど、不安だけは消えないのだ。心を開いたら、途端に相手が消えてしまう気がして……


「失うくらいなら、消えてしまうくらいなら、関係なんか無い方が良い。孤独な日常に付き纏う寂しさなんて、それと比べれば痛みとも思わない」


「それなら、どうして浅野くんは寂しそうな子の隣に行くの?」


 真っすぐな瞳。

 名倉さんのその目を見て、そこに映った自分を見た。


 ——中学でも、俺は自分の身を守るために『良い子』として過ごしていたんだ。


 真面目な良い子をクラスの人間は煙たがるけれど、教師からの悪意や干渉は格段に少なくなる。

 そうしていれば、やったことがやった通りに、やっていないことはやっていないと、そう評価され信じてもらえるはずだった。


 生徒会で、それも幻想だったと気が付くわけだが——


「俺はたぶん、助けて欲しかったんだと思う。どうしようもなく心を閉ざしてしまう前に、誰かに話を聞いて欲しかった。良い子じゃない自分というものを見つけて欲しかった。信じて欲しかった……ずっと、隣に居てほしかったんだ」


 こんな心の内を、過去を、詳らかに話すなんて……

 まるで心を開いているみたいで怖かった。名倉さんが何と言うのか分からなくて怖かった。

 どうしようもなく、俺にとっての名倉さんという存在が変わってしまいそうで、怖かった。


「……」


 名倉さんはガードレールに腰掛けたまま、片膝を抱え込む。

 その目線は俺と同じ高さで、小さく息を吐くように言葉が紡がれる。


「よだかの星」


 呟かれた言葉。

 それは、俺が彼女に貸した本。


「浅野くんは、よだかが逃げる話だって言ってたね」


 そして名倉さんは、夜鷹が居場所を探す話だと言った。

 もしかすると俺は社会から逃げるために『良い子』を演じていて、名倉さんは居場所を作るために『良い子』を演じていたのかもしれない、なんて考える。


「あのお話の最後、よだかは死んでしまうよね? 独りきりで、燃え尽きて。星々から拒絶されて。それでも、最後によだかは笑うんだよ。何でかは分からないけれど、笑うの」


 膝に顎を乗せ、名倉さんは上目遣いで俺を見る。


「居場所が無くても、最後まで拒絶されても、それでも笑える理由が知りたくて……夏休みが終わってから、何度も何度も読み返した。でも、やっぱり分からないの」


 名倉さんは、ほっと息を吐く。

 そして囁くように、彼女は俺へと問いかけた。


「ねぇ、浅野くん。最後によだかが笑った理由、浅野くんなら分かるかな……?」


 俺はしばらく黙考した。

 あの物語のオチに一般的な解釈は数あれど、俺の答えというものは定められていなかったから。

 それと同時に、この問いの意味についても頭を巡る。


 彼女が『よだかの星』を読み返していたのは、夏休みの終わり。それは俺が彼女の暴力性という本心を拒絶した時期でもあるのだ。


 名倉さんは俺に拒絶され、きっと孤独だったことだろう。

 初めて彼女の本心を聞いた俺が、夏休みの終わりと共に消え失せたのだから。

 それ故彼女は、孤独な夜鷹が笑う理由に、自身の救いを見出したのだ。


 しかし俺は、孤独に救いなど見いだせない。


「……俺は、自嘲だと思う。夜鷹が孤独なまま、否定されたまま、それでも笑うのは……もうどうしようもないからだ。一人きりでは、素直に笑うことなんてできないよ」


 名倉さんは、ふっと微笑む。


「浅野くん、やっぱり優しい目をしてる」


 その言葉の意味は分からない。

 だって彼女の瞳に映る男は、どうしようもなく孤独で冷たい人間なのだ。


「名倉さんは、どんな理由だと思う?」


 分からない。そう言っていた彼女に、俺はそれでも答えを促した。

 隣り合ってどこまでも孤独な俺たちには、夜鷹が迎えたハッピーエンドが必要だったから。


「え、と……私が思うに、よだかが、よだかが笑えた理由は……」


 目を瞑って、名倉さんは考えていた。

 一定のリズムを刻む雨音も、轟く川の流れも、まるで関係ないみたいだ。

 周囲から浮いていて、浮世離れして、そんな彼女に俺は一歩近づいた。


 手を伸ばせば届く距離、彼女は目を開け俺を見つめる。


「星になれたと、自分を信じられたから」


 星になれた、居場所をみつけた。

 拒絶され、独りで、それでも自分は瞬く星の仲間だと信じた。


「名倉さんは、自分を孤独じゃないと信じられる?」


「……信じ、られない」


 私のことなんて、誰も理解できない。その瞳は、いつも通りにそう言っていた。


「浅野くんは、自分を孤独じゃないって信じられる?」


「無理だ」


 自分を理解されてしまったら、孤独じゃなくなってしまったら……それは、孤独でいるより怖いから。


 名倉さんは、ふっと笑って俺のことを抱きしめる。

 脈打つ鼓動と体温が、どうしようもなく熱かった。


「こんなに近くにいるのに、私たちは孤独なんだね?」


「それでも隣にいたいと願うのは、何故だろうか?」


 目と目を見合わせる。

 鼓動の音が同期した。

 時間がゆっくりと流れている。


 遠くでサイレンが鳴っていた。


「首、絞めて良い?」


 雨音の向こうで、駆ける誰かの足音が聞こえた。


「俺の秘密、一つ聞いてくれたら良いよ」


 遠くで誰かの声が聞こえた。


「聞かせて」


 一つ、息を呑む。

 名倉さんの耳元で、俺は小さく呟いた。


「……ずっと、寂しかった」


 浮遊感。ふわりと浮いた心と体。


 抱きしめ合う。

 体温を感じる。

 口に出した言葉は、名倉さんの耳元で解ける。


「私もです」


 同じ気持ち。俺と彼女は、きっとそんなこと信じていなかった。

 ただ落下に身を任せ、濁流と極寒に呑まれた俺は、名倉さんの熱に身を委ねていた。


 首に絡む細指の感触。

 顔だけが熱くて、苦しくて、暗い視界で、名倉さんだけを感じていた。


 耳に聞こえる自然の轟音。それすらも遠くて、俺はたぶん、笑っていた。

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