恋のおまじない、おまじない
答えを出さなければならない。
俺は全ての状況や事情を無視して、どんなときでも平川を選び隣に行くことができるのか?
……まあ、無理だ。でも、それは相手が名倉さんだって、あゆみだって、綾加君だって同じこと。
誰か一人だけの隣にしかいない人間なんて、俺の目指すところではない。俺は、孤独な人の隣にいたいのだ。
沈黙を守る俺を前に、しかし平川はそれを許さない。
「アンタ、人を好きになったこと無いでしょ?」
「……」
その表情はまるで、隠された真実を暴き立てたとでも言いたげだった。
別に、人を好きになったから偉いというわけでも無いだろうに。
愛し合って結婚したところで俺の両親は死に別れたし、心を開いてみたところで相手がずっと一緒にいてくれる保証も無い。隣に居ると伝えることと、隣に居てくれと願うことは、全くもって別の話なのだ。
どうせ人を好きになったところで、俺の気持ちも言葉も届きはしない。
だから、そんな眼で見るな。そんな、恨みがましい眼で。
「何も言い返さないのね……そもそも、アンタ異常なのよ。名倉花香が好きだから死体処理に付き合ったって言われた方が、まだ納得できるわ。でもアンタは好きでもない女のために死体を処理できる。本当、意味分かんない」
その言葉を否定はできなかった。
俺は俺で、確かに異常なのかもしれない。
けれども、それじゃあどうしろと言うんだ。
ありのままで異常な名倉さんが目の前にいて、彼女が人を殺したから通報しました、なんて……そんなの俺以外の皆がやれば良い。ただし名倉さんのことを知る俺だけは、一緒になって異常にならないとダメじゃあないか。
そうしないと、隣で話を聞いてもらえないと、孤独になっていくばかりなのだから。
俺の言葉は紡がれず、思考ばかりが回り出す。
何度か口を開こうと思った。けれど、俺の考えはきっと理解されないと分かっていた。
黙り込む俺への苛立ちを隠さず、平川は表情を歪める。
「ふん、私があれだけ世話焼いてあげてたのを受け入れておいて、アンタ別に私のことも好きじゃないんだもんね? 好きじゃない、好きじゃない、アンタは誰のこともっ!」
俺に近寄り襟首を掴む平川の様子はどこか熱に浮かされたようだった。
雨も寄せ付けぬ彼女の熱はヒートアップしていく。その姿を見て、いよいよ俺の言葉は届かないのだと確信した。
「ていうか、じゃあ何? もしかしてキープってやつ? 女の子に囲まれて、文芸部で恋愛未満の関係を楽しみますって? バカにしないでよ。私たちがアンタのこと好きって分かってんのにずっと返事をはぐらかして! 思わせぶりな態度で惑わせて! ホント、とんだ魔性よねっ!?」
捲し立てられる言葉、怒り、憎悪。
俺に何を求めているのか、彼女は何の罪を裁こうというのか。俺にはどうにも核心が掴めない。
悪意の炎を吐きだして、平川は右手を振り上げる。
「私、アンタのことなんかっ——」
勢いよく振り下ろされる右手。
俺は痛みを予感し顔を顰めたが、その手は俺の頬を打つ前に、綾加によって止められていた。
「平川先輩、違うっすよ」
落ち着いた声音。
綾加君はこんな表情もできるのかと、俺は少し意外だった。
「平川先輩、普通のときはいつも冷静でカッコイイのに、浅野先輩の前だと急に怒りっぽくなるじゃないすか」
「ち、ちがっ! 私はっ!」
「まず、謝らないとダメっすよ。そのために来たんすから」
「あ、ぅ……」
綾加から真っすぐに見つめられ、平川は小さく声を漏らす。
そんな固まっている平川に、綾加は傘を差し出した。
平川はそれをおずおずと受け取り、俯いたまま小さく「ありがと」と漏らす。
「ほら、浅野先輩と名倉先輩もっ!」
差し出された傘を名倉さんも素直に受け取り、俺と共有する形で差す。
そうして俺たち四人は、改めて向かい合った。
「ほら、平川先輩」
綾加に軽く押され、平川が少し前に出る。
「……」
傘の下からこちらの様子を窺うように、平川は上目遣いで俺を見た。
その表情は酷く怯えているように見え、それこそが怒りの裏に隠されていた彼女の核心なのだと理解する。
「あの……」
先ほどの捲し立てるような怒声とは異なる、小さな声。
「っ……ふ、ぅ」
嗚咽にも似た呼吸。
喉に詰まった何かを吐き出すように、絞り出すように、平川は苦しげな顔で口を開いた。
「ごめん、なさぃ」
一呼吸。一瞬の静けさが傘を打つ雨音を際立たせる。
「文化祭、めちゃくちゃにして、ごめん……」
最初はポツリポツリと、次第に全ての罪を告白するかのように、平川は言葉を吐きだし続けた。
「縛り付けて、首を切ってごめん……いつも強くあたってごめん。さっきも酷いこと言っちゃってごめんっ。素直になれなくてごめん、性格悪くて、面倒くさくて、馬鹿で、いつも、いつも……浅野に甘えて」
声を震わせながら、涙に潤んだ瞳を隠すように平川は傘を深く差す。
「……いつも助けられなくて、ごめん、なさい」
平川の言葉は、それで終わりだった。
あとはただ無言で、傘の下にその顔を隠したまま。
俺は咄嗟に言葉が出てこなかった。
平川がこんなことを考えていたとは想像もつかなかったから。
彼女の謝罪はどれもこれも、まるで俺が気にしていないことだ。
彼女の凶行も、暴言も、性格の悪さも、面倒くささも、愚かさも、全部どうだって良い。
ただ唯一未だ俺の心に引っかかっていたのは、文化祭の日に平川が俺の話を聞こうとしなかったことだ。
しかし、そのことについての謝罪は無かった。
「……」
平川の姿を見る。
その表情は見えないが、傘を握り震えている手がハッキリと見えた。
謝罪なんて、良いんだ。どうでもいい。どうでもいい、そんなことは。
俺は大丈夫で、平川は許されたがってる。
だったら、別に——
「いいよ」
俺は短くそう告げた。
平川は傘の下から顔を出し、目を大きく見開いている。
そのあとすぐに視線を落とし、彼女は小さく頷いた。
雨はまだ止まない。
濡れ続けていたときは気にならなかったけれど、体が随分冷えていることに気が付いた。
背中に触れる名倉さんの体温が、心地良かった。
「じゃあ浅野先輩。改めて、名倉先輩から離れて欲しいっす!」
じっとりとした空気を散らすように、底抜けに明るく綾加が発声した。
「……何故かな?」
「浅野先輩に、幸せになって欲しいからっすよ!」
正面から俺を見つめる目。
平川の混沌とした感情の炎とは異なる、光のように真っすぐな意思だった。
「幸せ、か」
確かに俺は、名倉さんと一緒にいたら幸せになれないのかもしれない。
彼女は首を絞め、人を殺し、喉を塞ぐようなキスをする。
このままでは、きっと破滅するだろう。俺にだってそんなことは分かり切っていた。
逃げ出したい気持ちだった痛いほどある。
それでも。
「俺は、いいんだよ。幸せとか、そういうものはね」
「そんなこと、言わないでほしいっす!」
やはり真っすぐな目で、真っすぐなことを言う。
俺は綾加君のこういうところが苦手なのだ。自分の形を照らし出されるようで、どうしようもなく逃げ出したくなる。
「浅野先輩はもっと、自分のために生きるべきっすよ。綾加、浅野先輩のこと助けたいっす。助けられた分、お返ししたいんす! じゃないと、どんどん、なんか……減っていっちゃうじゃないっすか!」
「別に、何も減らないさ。だから助けもいらないよ」
「うー! でも! でも! うっー!」
「綾加君、俺は大丈夫だ。それにね、こういうのは順番なんだよ。体育祭のときは綾加君の番で、今は名倉さんの番。確かに大変なことはあるけれど、名倉さんと一緒にいる時間はそう悪いものじゃない。それは綾加君と一緒にいる時間が悪くないのと同じようにさ。だから本当に、俺のことは大丈夫なんだ」
もどかしそうに唇を歪める綾加を、そう言って宥める。
確かに首を絞められるのも、人を殺してしまうのも、俺には到底受け入れがたいことだけれど。それでも俺が、名倉さんと過ごす蠱惑的でゆっくりとした時間に惹かれているのは事実だった。
俺は安心させるように、下手な笑顔を浮かべてみる。
すると綾加は、拗ねた様子でポツリと呟いた。
「そんな暗い目してるのに、大丈夫だなんて思えないっすよ……」
「……」
そんなことを、言われても。
結局、それ以上綾加君は何も言わなくなった。
では、あゆみやお姉さんが痺れを切らして車から出てくるかと見やったが、どうやら二人が出てくる様子も無い。それどころか、あゆみはこちらを見てさえいなかった。
……安心した。名倉さんの隣には、子供と一緒に座れないから。
このまま、あゆみがお姉さんを頼って少しずつ大人になっていけたら良い。
俺があゆみにできることは、きっともう無い。
車の方から視線を戻すと、綾加が何かを覚悟したような顔でこちらを見ている。
「……まだ、何かあるのかね?」
「やっぱ綾加、浅野先輩が苦しそうなの嫌っす」
ブレない瞳は、やはり真っすぐに俺の瞳を見つめているのだ。
「綾加バカだから、浅野先輩が何考えてるのか全然分かんないっす。先輩が屋上に行ったときも、海辺で雨に濡れていたときも、その姿を見るまで先輩が死にそうなくらい苦しいんだって気が付けなかったっす」
「……別に構わんさ。俺が好きでやっていることだ」
「良く、ないっすよ」
ビクリ震える。
真剣な、哀しそうな、その目が、気迫が、俺を捉えていた。
「ずっと毎日苦しいのが楽になる方法、綾加は一つしか知らないっす」
そう言って、綾加が一歩こちらへ踏み出した。
「それをできるのは、たぶん平川先輩なんだって最初は思ってたっす。だから頑張って説得して連れて来て、それで浅野先輩が幸せになれたらって思ったんすけど……。でも、したいことがあるなら、例えバカでもバカなりに自分で頑張らなきゃダメっすよね!」
綾加が更に二歩、三歩、急に距離を詰めてくる。
背後で名倉さんが「あ」と言った。
次の瞬間には、既に綾加の手が俺の頬に添えられていて……気が付くと、唇が軽く触れ合っていた。
「——先輩が、私に教えてくれたんすよ?」
顔が熱い。
そのキスは、あゆみのときとも、名倉さんのときとも違っていた。
頭が白黒する。何が起きているのか理解しているはずなのに、圧倒されて思考が進まない。
「人を好きになったら、ずっと一緒に居たくなるんす。あと、今まで嫌だった学校が楽しみになるっす。ふとしたときに好きな人のこと思い出して、気が付くと幸せな気持ちになってるっす。ちょっと恥ずかしい妄想とかもしちゃって、そんな毎日が嬉しいんすよ? だから人を好きになったら、きっと浅野先輩も幸せになれるっす!」
綾加君は、柔らかく俺に微笑んだ。
「……先輩、綾加のどんなところが好きっすか? 綾加はそれを、一緒に増やしていきたいっす」
綾加が浮かべるその表情、その声音、その優しさが、強く瞳に焼き付いた。
何も考えられないけれど、その手を取るのが酷く甘美な選択に思える。
雨も寒さも何もかも関係ないくらい、心が何かを期待していた。
思わず手を伸ばす。何か、言葉が口を衝いて出そうになる。
そんな、ふわふわと停止した頭で感じた希望を蹴散らしたのは、つんざくサイレンの音だった。
警察……。
確か目覚めたときに綾加君が言っていた、名倉さんが平川のスマホを蹴り飛ばしたと。
そのときの通報で、位置を逆探知したのだろうか? そんなことできるのかは知らないが、ありえない話ではないと思う。
ふっと体が浮き上がった。
「え?」
見上げると、名倉さんが俺の身体を抱き上げ駆け出していた。
投げ捨てられた傘が転がる。雨脚が一層強く感じた。
表情は見えなかったけれど、名倉さんの呼吸が酷く乱れているのは分かった。
雨の中、水を跳ね上げ加速する彼女の足は長く、獣のような、しなやかさでアスファルトを蹴る。
綾加の姿は豪雨の向こうへ、遠く離れて霞んでいく。
俺は自らの唇に触れた。
降りしきる雨とサイレンの音に紛れ、名倉さんは嗚咽を漏らしているようだった。




