もう怒った!
さて、随分と格好つけたわけだが、状況をいまいち把握しきれていない俺だった。
急に体が大きく揺れて目を覚ましたかと思えば、今にも名倉さんが平川の頭を殴打しようとしているのだから笑えない。
そも、こんな雨の中で話し続けることも無いだろうにと思うのだが……。
「浅野先輩、その、お母さんのこととか、誰がやったとか、知ってるんすか……?」
おずおずと綾加君が質問する。
思えば懐かしい顔である。最近は名倉さん、穴、死体を繰り返し見つめる毎日だったから、文芸部での日々が随分昔のことのように思えた。
「ああ、知っているとも。全ては了承済みの上で事を進めている。それよりもね、俺としては先ほど発生しかけた惨劇の理由を知りたいのだ。是非とも綾加君の口から説明してもらえないだろうか?」
「あっ! はいっす!」
満面の笑みで綾加君は了承する。
彼女とは散々な別れ際だったが、今もなお俺を慕ってくれているというのは嬉しい限りだ。まあ、同時に気まずくもあるのだが。
「えーと、何ていうか……平川先輩が通報しようとして、そしたら名倉先輩がスマホをバーンって蹴って! それで、それから、石で殴ろうとしてたっす! そうだ! 浅野先輩、早く名倉先輩から離れた方が良いっすよ! 危ないっす!」
思い出したかのような警告。それを聞いてか、名倉さんは背後から俺を抱きしめる。離すつもりは無いという意思表示だ。
それを見て、露骨に平川の顔が歪んだ。
そういえば、俺は平川とも随分な別れ方をしている。
文化祭当日の平川の凶行には俺とて腹を立てたものだが、今となっては怒りも持続していない。
平川には平川なりの事情があったことも、なんとなく察しがついているのだ。尤も、彼女が俺のことをどう思っているのかは知らないが。
さて、状況は最悪に近い。
名倉さんの犯行はこの場の全員にバレていて、更には平川にも危害を加えかけた。
俺は、どうしようもなく社会不適合な名倉さんの味方でいたいけれど……孤軍奮闘、二人ボッチでできることなどたかが知れている。
それでも俺は、名倉さんが名倉さんであるという理由で、獄中生活を何十年も過ごさせることなど認めたくはなかった。
だから俺は、ここに居る全員を説得しなければならない。
名倉花香という危険人物が、それでも社会の片隅でささやかに生きる権利を得るために。
「なあ、綾加君。俺が名倉さんから離れる必要など無いよ、大丈夫だ」
「大丈夫なわけないじゃないっすか! 信じられないかもしれないっすけど、名倉先輩は本当に人を殺したんすよ!?」
「だが、殺すところを見たのか? 死体は?」
平然と言い返す。
綾加君は狼狽したように言葉に詰まり、記憶を辿っているようだった。
このままこちらの主導で話を進めようと口を開く。しかし、それは平川にピシャリと遮られた。
「見たわ。死体も、殺人現場も」
そのジロリとした瞳は誤魔化せない。
「ねえ、何でソイツを庇うのよ。人殺しの狂人、それもアンタに散々迷惑をかけた——っ」
平川を威圧するように、背後で名倉さんが動くのを感じた。
直前まで撲殺されかけていたのだ、平川が青褪めるのにも頷ける。寧ろ、良く持ち堪えたほうだろう。
チラチラと名倉さんの方を伺いつつ、平川は言葉を続ける。
「浅野は……そ、ソイツに脅されてるの? だってそうとしか思えないわよ。正直に言いなさい」
必死だ。怯えながらも、言葉を止めない。
その様子はどこか、以前の平川と違って見えた。
「ねえ、私、アンタに酷いことをしたわ。だから信じてもらえないかもしれないけれど、それでも私は! 何があっても、浅野の……味方、だから」
だから正直に話して、と。
怒ったように眉をひそめて、真っ赤な顔で平川は言う。それに同調するように綾加君も言葉を発した。
「綾加だって、浅野先輩の味方っす! 絶対、絶対、何があっても力になるっす!」
二人の瞳は真っすぐで、善意に溢れていて、俺を被害者だと決めつけている。
名倉さんは敵であると、名倉さんに与するお前は間違っていると、そう言っているようなものだった。
俺は何より、そんな世界の居心地が悪いのに。
「……俺は、脅されてないよ」
「え?」
「どころか、名倉さんに死体の隠蔽を提案したのが俺なんだ。綾加君が正しく在りたいと言うのなら、俺は正しさの反対にいる。平川は俺の味方だと言うが、だとすればそれは君が言うところの人殺しの味方の味方だ」
真っすぐに、目を見て伝える。
相容れず、同情の余地もなく、俺だって間違った存在なのだ。
俺は何かの間違いで名倉さんの隣にいるのではなく、仕方がなく、しょうがなくであったとしても……自分で選んでここにいる。
「っな、何よそれ。私より、名倉花香の方が大切って意味?」
「いや、そんなことは言っていな——」
「言ってるわよ!」
両の拳を握りしめ、平川はギッとその目を細める。
「今、アンタは名倉花香の隣にいて、私と睨み合ってる! ねえ、私と名倉花香の違いって何? どっちもアンタを殺そうとした。間違いだらけの人間だった。どころか、私の方が先にアンタと出会ってた! 何でアンタは今そこにいるの? 何で私の隣にいないのよっ!?」
「な、ん……」
なんだ、それは。
平川の瞳が熱を帯び、その炎は焼き尽くさんばかりに猛り狂う。
「いい加減、決めるべきなんじゃないの? 誰が一番大切なのか。こうやってアンタの周りで対立したとき、理屈抜きで誰の隣に立つのかを。別にそれは、恋人だなんて安いラベルじゃなくて良い。相棒でも親友でも家族でもペットでも構わない!」
ずい、と。燃える瞳で覗き込むように、至近距離で選択を迫る。
しかし、続く声音は酷く冷たく鋭かった。
「浅野晋作、私のモノになりなさいよ」
誤魔化しも逡巡も後回しも無しだと、言外にそう伝えてくる。しかし、それでも俺は逡巡した。
何故ならば、俺にはそんなことを決める意味が分からないのだ。
夏休みにあゆみが家を飛び出した時、俺は名倉さんの寂し気な作り笑いを無視して雨の中駆け出した。文化祭の時は、平川のことより綾加君の告白を優先しようとした。
俺は名倉さんと一緒にいることを決めたけれど、困っているなら平川の隣にだって、綾加君の隣にだって、あゆみの隣にだって行きたい。
好きとか嫌いとか、そんなことじゃなくて、一番とか二番とか、そんなことでもなくて。ただ、しょうがないんだ。目の前で、辛そうな、寂しそうな顔をするから。
しかし、平川はそんな俺の在り方を許さない。
「……」
燃える瞳を目の前に、しばらく俺は無言だった。
すると、あれだけ強く冷たく輝いていた平川の表情が、ふっと崩壊し始める。次に現れたのは、癇癪を起こした子供のような、弱い弱い顔だった。
泣きそうな声で、彼女は呟く。
「ぐ、ぅ……っなんで、即答しないのよ。名倉花香でも、あゆみさんでも、綾加さんでも、好きにえらべば良いじゃない。私の顔なんか見ないでっ、私なんか一番大切な人の候補にも上がらないって、そんな顔をしてよ……」
俯いて、平川は途切れ途切れに言葉を吐き出す。
「……私のことなんか、嫌いだって言ってよ」
ああ、意味が分からない。なんて、その表情を見たら言えなかった。
『私のモノになれ』という言葉は、『お前はそうならないだろう』という絶望の裏返しだったのだ。俺に何を期待しているんだと思わなくもないが、それもまた、しょうがないことなのだろう。
でも、やっぱり平川の理屈が俺には分からない。
「なんでそんな、一番じゃないとだめなんだ。俺は全員大切だから、俺にできる範囲のことをする。逆に言うならば、俺はできることしかできんよ……」
「だから嫌なのよ!」
噛みつくような平川の声。
俺にはその意味も分からない。だから黙って、続く言葉をただ待った。
「アンタは、できることしかしない。分かってる。だから私が世界で一番の一大事だって手を引いても、アンタは綾加さんの告白を優先する! 私がアンタを殺そうとするくらい悩んでいても、アンタは人を殺した名倉花香を助けようとする!」
激昂、或いは慟哭。
その激情はやがて、最後の言葉へと至る。
「私が、私が一番っ! アンタに近くにいて欲しいのに!」




