嘘が嫌いで本音を求め、本音を求めて嘘を吐く
「……前に名倉さんは、自分の本心とか、話していて疲れるとか、そういう事が分からないと言っていたね。それに、自分が合わせれば周囲は怒らないのだから、それで良いのではないか? とも言っていた。覚えているかな?」
「あ、う、うん」
俺の出した話題に緊張しているのか、名倉さんは小さく答える。
「たぶん、名倉さんは正しい。人と円滑に会話するという目的を達成する上で、自分の本心を考慮に入れる必要は無い」
ただ、俺はそれを受け入れられなかった。
相手が俺に合わせ、接待されるだけの会話を受け入れてしまったら、それは漫然と雰囲気に流されて会話する大衆に成り下がることと同義だ。
だから、俺は今まで彼女に本音を話すよう求めていた。でも、出てくる言葉は嘘ばかり。その度に俺は話題を逸らし、会話を終わらせ、今の彼女を否定した。
だが、それでは違う。
俺の認識が間違っていた。
彼女は本心を話さないのではない、どれが本心か分からないのだ。本人もそう言っていたのに、俺は嘘を嘘と断じていただけだった。
自分の求める答えが出てくるまで文句をつけ続ける、それでは大衆と大差ない。
「名倉さん、俺は人と円滑に話したいわけじゃないんだ」
「え? な、なんで……?」
「相手に合わせて、合わされて、分かったような気になるのも、なられるのも嫌だから。嘘で騙して、騙されて……顔しか見て無い癖に性格が好きとか言う奴、結果だけ見て努力が足りないとか言う奴、話を聞く前から怒る気でいる奴、全部、全部嫌いなんだ」
一つ、一つ、自分の人生を思い返しながら本音を言う。
でも、本音を言うだけではだめなのだ。それでは名倉さんの本心を引き出せない。
「え、ええと、ごめん、ごめんね?」
果たして、風呂の外からは怯えたような謝罪が聞こえる。
「怒ってないよ。いや、寧ろいつも怒っている。俺がさ、そういう連中を嫌っているのは、奴らが気持ちよく生きていられるのは気を遣っている人がいるからなのに、全くそういうことに気が付かないからなんだよ。それで、君から気を遣われると、自分も奴らと同類のような気がしてくる」
「あっ、う、ごめん、なさい。そんなつもりじゃっ! わ、分かんなくて、本心とか、本当に、分かんなくて……」
「うん、そう、名倉さんはそう言っていた。俺には本心が分からないという感覚が分からなくて理解するのに時間がかかってしまったけれど、もう分かったよ。気を遣う会話しか、できないんだろう?」
「あ、う、うん……」
ガラス越しの背中が、小さく揺れる。
「だから、俺も気を遣う。できる限り、名倉さんが気を遣わずに喋れるように気を遣う。名倉さんと話すときは、きっとそうした方が本心で話せると思うから」
次に聞こえてきた名倉さんの返事は、酷く小さかった。
「あの……そんな、無理して私と話さなくて良いよ……」
「でも、名倉さんは無理して俺と一緒にいるときに黙っているだろう?」
「や、私はいいの! そうしてないと、怖いだけだから!」
ほら、これも本心だ。
「何が怖いのかな?」
「お、怒られるの……が? かな、たぶん、分かんない」
名倉さんの声は、酷く自信なさげだった。
本当に、自分が何を怖がっているのか確信が持てていないのだろう。
だから『分からない』が、本心なのだ。
それをこちらが聞こうとしなければ、土台本心での会話なんて成立しない。
だが、そこまでして会話をしてやる必要はあるのか?
女子小学生や名倉さんの言うように、無理して会話する必要など無いのではないか? などと自問してみる。
……答えは単純だ。
無理をしてでも名倉さんと会話をする必要は、ある。
俺は何も変えられない世界を諦めという形で見下し、自分を変えないことで抵抗してきた。逆に、自分自身を変えきることで社会に適応した彼女の本心を知ることができれば、俺の選択は正しかったのか間違っていたのか分かる筈だ。
俺は、正しさを求め屈折し鬱屈した自身の生の、その正しさを確信したかった。
「名倉さん、名倉さんが本当のところ、何を恐れて人に合わせているのかは分からない。でも、仮に怒られることを恐れているのだとしたら、俺は名倉さんを怒らない。嫌いなものは嫌いと、嫌なものは嫌と、ただ言うだけだ。だから、俺も自分から聞くようにするから、もう一度本心っぽいことを話して欲しい……」
風呂の外で、ガラス越しに見える背中は縮こまり、困ったように「うぅ~」と唸った。
「なんかっ、なんかっ! なんでぇ? 私のこととか、気にしなくていいよぉ、なんで? なんでぇ……?」
独り言のように、名倉さんは「なんで?」と繰り返す。
彼女は俺が風呂から上がった後も、ずっと困ったような顔をしていた。
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「……よし、臭くない」
俺は今、女子小学生の部屋で臭いを嗅がれていた。
「止めてくれ、恥ずかしいから」
首筋に寄せられた女子小学生の鼻から逃れようと顔を背ける。しかし、がっと両頬を掴まれ強引に正面を向かされてしまった。
真正面から覗いてくる大きな瞳が、気まずくて仕方がない。
「何か言いたいことでもあるのかね?」
俺の問いかけに、しかし女子小学生は答えない。
「……えいっ」
「ふがっ!」
鼻に、人差し指を突っ込まれた。
「……止めないか、君としても指が汚れるのは避けたい事態の筈だ」
俺は鼻に指を突っ込まれたまま、冷静に女子小学生の行動を諌めるが、彼女は「おもしろい」と一言呟いただけだった。
俺としては非常に面白くないため即刻止めていただきたいわけだが、その幼稚な行動は少々らしくないと感じたため、今しばらく女子小学生の反応を伺う。
鼻に指を突っ込まれたまま。
「なあ、何故俺の鼻に指を突っ込む? こんな行為で伝わるのは、精々君の人差し指の細さくらいのもの……ふがっ!」
逆の鼻に、親指を突っ込まれた。
人差し指よりは太いが、所詮は子供の指である。まだ細いと呼べる程度の太さだった。
だから何だと問われれば、この状況ではこの程度しか考えることが無かったのだと返答させていただく。
「……変な顔」
女子小学生は両指を左右に引っ張りながらそう言った。
「おい、グイッと引っ張るんじゃない。俺は変顔という概念が嫌いなんだ」
しかし、彼女はグイグイと指を動かし続ける。
「なあ、君は以前『言わなければ伝わらないと自分に言ってきた人間は、皆自分の話なんて聞く気が無かった』と言っていたな。だが、今の状況では聞く気の有無に関わらず、俺は君の話を聞かざるを得ない。せめて俺が鼻に指を突っ込まれるに足る理由を教えてくれ」
「お前、私が言ったこと覚えてたんだ」
女子小学生は驚いたように言った。しかし、相変わらず俺の疑問に答えるつもりは無いらしい。
というかそもそも、人が鼻に指を突っ込まれるに足る理由などあってたまるものか。
俺は憮然とした顔で、女子小学生に抗議の意を表明。その意志が届いたのか、ようやく女子小学生は口を開いた。
「別に理由とかないけど、お前が名倉花香にしっぽ振っててキモかっただけだし」
「しっぽなど振ってはいない。ただ、俺が俺の人生を肯定するためには、彼女の本心を知る必要があるというだけの……ふがっ!」
鼻に差し込まれた指がクネクネと踊る。
ツンとした衝撃に涙が滲んだ。
「あいつは良いよね、なんにも真面目に生きてないくせ、ちやほやされて……バカばっか」
ズボッと、指が鼻から引き抜かれた。
「……舐めて」
きちゃない人差し指が、俺の眼前に差し出される。
「嫌だが……もがっ!」
無理やり口に人差し指を突っ込まれ、口内に何度も汚物を擦り付けられる。
「やめっ! ぐえ、ちょ、うぇ……」
散々口内をかき回され、指で突かれ、俺はえずきながら咳き込んだ。
その様子を、女子小学生は怒っているような泣きたいような、そんな表情で見つめている。きっと何か言いたいのだろうが、同じくらい言う気も無さそうだ。
だから俺が、息も絶え絶え言いたいことを言ってやろうと思う。
「はあ、はあ……しょっぱい味がした」
女子小学生が笑いを堪えるように表情を歪めて一言。
「キモ」
「……ふっ」
なんとなく勝った気がしたため、俺はニヤリと口角を上げる。
女子小学生は、観察するように俺を見つめていた。
……俺、鼻に指突っ込まれる必要あった?