雨止まぬ雨闇
「わ、分かんないっす。な、え? 本当に殺したんすか? え?」
綾加さんが混乱した様子で「え? え?」と繰り返す。
当然だ。同じ学校の人間が人を殺しただなんて、直に見た私ですら心のどこかでは信じきれていないのに……。
強くなった雨に打たれ、名倉花香はただ微笑む。
その表情を見て、綾加さんは『人殺し』が嘘や冗談ではないと悟ったようだった。
「ひ、人を殺すなんて、ダメっすよ……! しかも、浅野先輩のお母さんだなんて……なんで殺しちゃったんすか!?」
「なんでかなぁ」
呟くような声。
記憶を探るような遠い眼は、どこか浅野を思い起こさせる。
「私が、浅野くんのお母さんを殺しちゃったのは……うん」
言葉を待つ。
無言の力は絶大で、雨音の最中私は自分が浅野を殺そうとした理由を思い出した。
「浅野くんと、話したかったんです。心から」
雨音に掻き消されそうな小さな声で、名倉花香の言葉と私の思考がリンクする。
「意味、分かんないっすよ!」
綾加さんが吼えた。
当然だ、普通は意味が分からないんだ。けれども私は分かってしまった。
言葉にはしづらいけれど、でも、人に対して向けた殺したいほどの激情なんて、きっとそうとしか表現できない。だからと言って、名倉花香を擁護なんてできないが。
そう許し難いのだ、自分自身と同じくらい。
俯く視界で、アスファルトが雨に沈んでいるのを見た。
気が付けばバケツをひっくり返したような雨。水に侵された世界で小さく、綾加さんが告げる。
「名倉先輩、もう警察行きましょう」
「どうして?」
「人を殺すのは、悪いことだからっす」
真っすぐに、綾加さんは名倉花香の目を見る。
「うん、悪いことをしたら警察に捕まる。普通、そうです。そういうものですね」
「そうっすよ、そうなんすよ、それが正しいことだから……」
綾加さんは苦しそうに、喘ぐように続ける。
彼女の心持ちは、あずかり知らない私だけれど。それでも彼女の気持ちには察しがつく。
「もう、浅野先輩を解放してあげて欲しいっす……」
ここに来る前から、彼女の主張は一つだけ。「浅野晋作が辛そうだ」と。
「浅野先輩、優しいんすよ。ダメダメな綾加のこと助けてくれて、優しくしてくれて、手伝ってくれて! 名倉先輩だって、そういう浅野先輩が好きなんじゃないんすか? いっぱい、助けてもらったから、好きになったんじゃないんすか!?」
真っ直ぐな恋慕、その眩しさはそのまま名倉花香へと向けられる。
「なのになんで、浅野先輩を傷つけるみたいな、そんなことをするんすか……」
訴えかける言葉は正しくて、まるで私に言われているかのようだった。
私は正しくない。私は浅野を傷つけた。だから本当は、ここに立っている資格なんて無い。
綾加さんの言葉を借りるのなら、私は名倉花香と同じく、大人しく消えて浅野を解放してあげるべきなんだ。
「でも、浅野くんは怒りませんでした」
なのに悪びれもせず、当然のような顔で、名倉花香はそう言うのだ。
「確かに私は、これまでに何度も浅野くんを傷つけて、嫌な気持ちにさせてきたんだと思います。だって今まで、何をしても、何を言っても、皆を嫌な気持ちにさせてきた人生ですから」
名倉花香は「小学生の頃です」と言って息を継ぐ。
「失敗して、失敗して、失敗して……そうして分かったのは、私が私であることこそ、失敗の原因だということでした」
その言葉を聞き、綾加さんは息を呑む。その表情は同情的で、どこまでも善人だ。その心に渦巻くのはきっと、今の私と真反対の感情。
「でも、浅野くんだけは説明してくれるんです。許してくれるんです。私の話を、怒らずに聞いてくれるんです。私が話しかけたら、応じようとしてくれるんです」
切実な言葉。裏に透ける過去。孤独。
好きな人を傷つけてはいけないという当たり前の論理が、狂人と善人の狭間で破綻する。
或いはこの狂人……否、怪物こそが人として破綻している。
「……私は、浅野くんを解放してあげたりなんかしません。何度だって傷つけます。嫌になるほど迷惑をかけます。付き纏います」
その黒々とした眼を闇色に輝かせ、最後に彼女はこう締めくくった。
「だって浅野くんが……私の本心を求めてくれるから」
胸が苦しい。浅野と話したい。問いただしたい。
浅野にとって、名倉花香とは何なのか。私とは、何なのか。他人とは、何なのか……
当の本人は、まるで死体みたいに目を瞑って、ぬいぐるみのように名倉花香に抱かれている。
雨が強くなってきた。
きっと、これ以上話すことは無い。
それでも綾加さんは、説得を諦めていないようだった。
「……綾加も、名倉先輩と同じで、たぶん居るだけで人を嫌な気持ちにさせる人間だったっす」
呟かれた言葉。
普段明るい綾加さんからこそ、時折覗くその翳が際立つ。
「空気読めなくて、バカで、ダメダメで……。正しい自分でいるしか、自分のことを嫌いにならない方法が分からなかったっす」
綾加さんは「でも」と続けた。
「そんな自分を浅野先輩が認めてくれて、それが嬉しかったなら……難しくても、上手くできなくても、許されてもっ! 助けられたままで、良いわけないじゃないっすか!」
揺るぎない正しい意思。それこそが、自らを名倉花香と同じと評した稲塚綾加の、名倉花香とは違う部分だ。
「悪いことは悪いって認めて、浅野先輩を助けられるように変わるんすよ!」
前向きに、未来を見据えて。だって、そうするしか無いのだから。
間違いを自覚したのなら、間違え続けて良い理由なんて無いのだから。
……だから、前を向く。好きな人のために。
間違え続きの私たちに許された、最大限の真っすぐな論理。
綾加さんだからこそ言える言葉。
未だに私は許されようとして良いのか自信を持てていないけれど、この真っすぐさに背中を押されてここまで来たのだ。
私の両親が変わろうとしているように、私も変わりたい。それはきっと正しいことで、誰にだってできること。
きっと、名倉花香にだって。
そんな思考が頭を過ったときだった——
「しらないです。分かりません、そんなこと」
——名倉花香が、つまらなさそうにそう言ったのは。
「っアンタねえ! いい加減にしなさいよ!」
人を殺して、罪を晒されて、正義を突き付けられて、それでもなお変われない。
こいつは浅野にとって……人間社会にとって有害だ。どこまで行っても相容れない。人になろうとさえしない化け物は、さっさと檻に入れるべきなのだ。
「罪を犯して追い詰められて、大人しく裁かれることもできないわけ?! もう良いわよ、警察呼ぶから」
スマホを取り出し、110番を押す。
すぐに電話は繋がった。
『事件ですか? 事故——』
瞬間、スマホが空を舞う。
大上段、回し蹴り。名倉花香の攻撃だった。
数秒遅れ、ボチャと海に沈むスマホ。
流れるような動作で地面からアスファルトの断片を拾う姿が見えた。
気が付いたときには、既に名倉花香の強襲が始まっている。
スローモーションのようだった。
嘘みたいな視界に映るのは、躊躇なく横薙ぎで迫る腕。
こぶし大のアスファルト塊を握り込んだその手は、真っすぐに私の頭部を目掛けている。
「……っ!」
逃げ出したかった。恐怖で涙が滲む。体が動かない。
降りしきる雨の感覚ばかりが鮮明で、世界から音が消えていた。
真っ白な頭の中、目撃した殺人現場がフラッシュバック。夥しい血の海、ビクリと震える人だった肉塊、暗がりで光を失う瞳。それこそが、数秒先の自らの姿。
目を瞑った。私にできる抵抗なんて、それくらいだった。
世界の速度が分からなくなる。
寒い、寒い。この寒さは雨のせいか、冬のせいか、もう死んでいるからなのか。
分からないまま、目を開ける勇気は無い。
終わりを待つ。
……私の命に、何の意味があったのだろう。
ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……私は、寂しかっただけなんです。
ごめんなさい。
真っ暗闇の中で繰り返す謝罪は誰が為か? ただ赦しが欲しかった。許して欲しかった。居ることを、存在を、あるがままを。
けれども私の最期は、雨中でゴミのように殺されて──
「……待ちたまえ」
雨降る海に響いたのは、決して大きな声ではなかった。
けれど誰もが待ちわびていたからこそ、誰もが一瞬動きを止める。
よろりと立ち、名倉花香の腕から離れた男は、体調の悪そうな顔で私たちを睥睨する。
「話そうか……何をするにも、まずはそこから。だろう?」
浅野晋作。私の好きな人の、声だった。




