けいどろ? どろけい? どっちでもいーや!
沈黙は私に雨音を意識させる。
じっとりとした名倉花香の視線は、まるで私の隙を伺っているようだった。
人を殺す人間は、普段何を考えて生きているのだろう?
目の前の異様な女を見て、そんなことを考える。けれども私だって、思えばたまたま殺せなかっただけの人殺しなのだ。
浅野の首をハサミで裂いたときのことを思い出す。
倒錯した興奮と支配による優越感が、指先から伝わるあの感覚。諦念による全能感が、あのとき確かに私を人殺しにしていた。
……自然と浅野を抱える腕に力が入る。
ああ、この女が嫌いだ。
だって私と同じなのに、こいつは浅野に赦された。
「あの、早く浅野先輩を運びたいんすけど……」
綾加さんの一言に、ハッと我に返る。
「そ、そうね。名倉花香も、浅野がこのまま死ぬのは本意じゃないでしょ。運ぶの手伝いなさいよ」
「……」
果たして、名倉花香は黙って浅野を抱え上げた。
その長身に見合った体力があるのだろう。元運動部の綾加さんが協力していることも合わさり、想像以上に運びやすい。
一先ず安全な場所まで移動させられそうで良かった。
足元が悪いことに変わりは無いが、私たちは安定したテンポで浅野を抱えたまま進む。
雨がコンクリートを打つリズム、寄せては返す波のリズム、私と綾加さんと名倉花香の足音のリズム。それぞれのテンポが混ざり合い、どこか夢の中のような感覚だった。
私が支える浅野の背からは、その鼓動のリズムが伝わってくる。
「……浅野くんのこと、好きなんですか?」
名倉花香が口を開いたのは、突然のことだった。
一瞬思考が停止し言葉が詰まる。
その声音は淡々としていて、話しながらも歩く速度は変わらない。
「好きっすよ!」
綾加さんが答えたその瞬間、名倉花香はグイと浅野の体を抱き寄せる。お気に入りのテディベアを独り占めするように、彼女は私たちから浅野の体を取り上げたのだ。
「え! 何してるんすか名倉先輩!? 危ないっすよ!」
「……なんだか、すごく嫌で」
「何すかそれ!? 意味わかんないっす!」
当然の反応。しかし、名倉花香は浅野を離さない。
睨み合う二人、その間も降りしきる雨。今は揉めている場合ではない。
「良いわ、アンタが運びなさい。でも落としたら承知しないわよ」
名倉花香は無言で頷くと、テトラポットの上を軽やかな足取りで歩き出した。
抱きしめた浅野の胸に、その顔を埋めながら。
「……」
苛立ちが胸を焼く。
そもそも、こんなことになっているのは名倉花香のせいなのだ。それなのに、まるで浅野は自分のモノだとでも言いたげな態度。いっそ浅野を奪って海へ突き落としてやろうかと、物騒な考えも頭を過った。
ふと、足元で騒めく海を覗き込む。
浅野と名倉花香は、ここに死体を沈めたのだろうか?
「……はぁ」
再び、黙って私たちは歩き始めた。
雨音も、波音も、足音も、全てのリズムが不協和音に崩れて聞こえる。
もう手元に伝わる鼓動のリズムも残っていない。あるのはただ、ごうごうと流れる私の血流だけ。
苛立たしい、苛立たしい、苛立たしい。
名倉花香がテトラポットから堤防に足をかけた。
これで一先ず、落ちたら溺死の危険地帯を超えたわけだ。だが、まだ安心はできない。
「近くに車がある。タオルと暖房も用意してあるから、そっちに浅野を運ぶわよ」
「……」
果たして、名倉先輩は沈黙を選んだ。
私たちは、やはり睨み合うことになる。
「さっさとして、逃げるなら警察呼ぶわよ」
警察という言葉が効いたのか、名倉花香はようやくその口を開く。
「あの……放っておいて、くれませんか? 私は浅野くんがいたら、それで良いですから」
呟くような、静かな口調だった。
私は大きく目を見開く。
名倉花香の、その表情! その態度! その言葉!
自分は被害者だとでも言いたげな一挙手一投足に、燻っていた苛立ちが一瞬で燃え上がる。
「っアンタねえ……! 自分が何したか分かってんの!?」
名倉花香はピクリと肩を震わせる。しかし浮かべている表情は困惑。
私の怒りの理由については、まるで見当もつかないようだった。人を、殺しておきながら……
コイツは本当に人間なのだろうか?
「……綾加さん。この女は私が見張っておくから、車をこっちまで運んでもらえるよう桃瀬さんに言って来て」
「わ、分かったっす」
そう言って足早に駆けて行った綾加さんを見送り、改めて名倉花香と対峙する。
今ここにいるのは私と名倉花香、そして意識を失った浅野だけ。
「アンタ、人を殺したでしょ……死体、もう捨てたの」
感情を押し殺した声音で、聞きたかったことを短く尋ねる。
「え? はい。浅野くんが海に捨てちゃいました。せっかく山で一緒に穴を掘ったのに、少し勿体なくて残念です」
動揺は無く、名倉花香は事もなげにそう言った。
きっとそれは彼女にとって、本当にどうでも良い『残念』程度の出来事なのだろう。
「……気持ち悪い」
「ぁ。ふふ、久しぶりに言われちゃった。でも昔ほど気にならないですね?」
雨に濡れた女は微笑む。
目の前にいるのに、この女はまるでこちらを気にしていないのだ。
「なんで、アンタなのよ」
「何がですか?」
「なんでアンタばっかり。浅野は、私がっ……私が見つけたのに!」
口を衝いて出たのはそんな言葉。
そのとき初めて、名倉花香は私の前で感情を漏らすように目を細めた。
「私は、浅野くんに見つけてもらいましたから」
「何よそれ、自慢のつもり?」
名倉花香を睨み返す。
フラれた自分が惨めだ。なんで今、浅野はアイツの側にいる? 私は人殺しに負けたのか?
最初は、私だけがアイツの隣にいたのに……。
「っ……はぁ」
相手のペースに呑まれるな。冷静になれ。
頭の中を支配するこの敗北感と後悔は、醜い私の嫉妬でしかない。
未だに私は今日なにをすべきか決められてないけれど、今はとにかく浅野と話したい。
「名倉花香、あなたと浅野の関係は知らないわ。でも、私は浅野に謝らなきゃいけないことがある。だから、あなたと浅野を放っておくことはできない」
「……そんなの、知らないです」
名倉花香は呟いた。
その目は諦念に満ちていて、どこか浅野を想起させる。
そんな小さな感情の機微すら、私にとっては苛立たしい。
「浅野くんは私と一緒に逃げてくれたんだから、皆さんには関係ないじゃないですか。どうして邪魔するんですか、もう良いじゃないですか……」
「良くないわよ。あんたと一緒にいたら、浅野が不幸になる」
「でも、浅野くんは私と一緒に居てくれるって言いました。しょうがないって言ってくれました。確かに私と一緒にいたら、きっとみんな不幸になって、嫌になるんだと思います。でも浅野くんが、それでも良いって言ってくれたんです」
真っすぐに、黒い瞳が私を見つめる。
「気持ちの悪い、私の隣で……浅野くんは優しい人の顔をするんです」
あぁ、妬ましい。その素直さが羨ましい。
きっとこの化け物は思ったままを素直に話せて、だから浅野に受け入れられたのだと分かってしまった。だって浅野は、そういう奴だから。だから……私は救われない。
素直になれない、私は……
「馬鹿みたい」
ぽつり呟いた。
「そうやって自分のことばっか気にして浅野を不幸にして、アンタ平気なわけ」
名倉花香に向けて吐いた、自分を刺す言葉。
名倉花香は無言で私の眼を見つめ、ぎゅっと浅野を抱きしめる。
それを見たら、もう止まれなかった。
「浅野は何でも受け入れてくれるかもしれないけど、それって誰のことも好きじゃないのと一緒じゃない! まあ、アンタはそれで満足なのかもしれないけど? だいだい、アンタは浅野に何をしてあげられるのよ?! 私は浅野の勉強を見てあげた、中学の頃に何があったのかも知ってる! 私が、私が浅野を支えてきたのよっ!?」
自分が嫌いになっていく。
「支えられることしかできない、人殺しのアンタが何でっ……!」
自分が吐いた汚い気持ち。
こんなつもりじゃなかった。私はもっと、違う、綾加さんと話したときは、もっと正しくなれるはずだった。
なのにこの女を見たら、怒りが湧いて仕方がなくなる。私が、駄目になる。
ずっと怒っていた両親は気が付けば『普通』になろうとしていて、私だけがどうしようもない人間のまま。浅野もいなくて、文芸部もめちゃくちゃにして、雨のなか怒りをぶちまけて……
「平川先輩。人殺しって、どういうことすか……?」
気が付くと、車が私のすぐ後ろに停まっていた。
車内から心配そうにこちらを見つめる、綾加さんと桃瀬さん。
この場に揃った全員に向けて宣言するかのように、名倉花香は堂々と答える。
「私が殺しました、浅野くんの母親を」
女は微笑んだ。
「それでも、それだから……浅野くんは私の隣に居てくれます。それだけが、私にとって大切なことなのです」




