トラウマティック
雨雲を見上げながら、俺と名倉さんは二人テトラポットの上に寝転んでいる。
最初は顔を打つ雨が鬱陶しかったけれど、次第に慣れてきた。今はただ、濡れた服の感触と名倉さんの体温が心地良い。
このまま寝転がっていたら死ぬのだろうか?
じわじわと体温が下がり続ける感覚に危機感を覚えた方が良いのだろうけれど、まどろみと生温い水に体が引き留められる。
波の音を聞きながら、雲を眺めた。
雨雲もやはり、風に流されるのだ。そんなことが俺には少し意外だった。
遠い、空。雲に遮られて青い宇宙は見えない。
瞳の中に、雨の雫が落ちた。
目を瞑る。真っ暗だ。
「……名倉さん」
俺の呼びかけに、彼女は指を絡めることで答えた。
「これから、どうしたい?」
「うーん、ちょっと、眠りたいかな」
俺は瞑っていた目を開き、顔だけ横にして名倉さんの方を見る。
目が合って、互いに少しだけ笑った。
「こんな雨では、眠れないのではないだろうか」
「でも……こうしたら、あったかいから」
彼女は頭だけでなく体もこちらに向けて、そっと両腕を開く。
抱き合おうということなのだろうが、それは少し恥ずかしかった。
「ねぇ、大丈夫だよ?」
名倉さんは身を寄せ、俺の身体に腕を絡める。
緊張で身を硬くする。けれど、彼女の体温で次第に緊張も融解した。
……目を瞑る。眠れる気がした。
ゆっくりと手を伸ばし、名倉さんの腕に触れる。雨に濡れて、冷たかった。
俺は彼女を温めるために腕を回し、雨音に耳を澄ませる。
溺れてしまいそうな酷い雨だ。
水の跳ねる音が騒々しい。けれど、何故だか静かだと思った。
「浅野くん」
耳元で囁く。
俺は身じろぎをして返事した。
「ね、温かい?」
「うん……」
目を瞑ったまま、ぼんやりと彼女の声を聞く。
「ふふ、わたしも」
ぎゅっと、彼女は強く俺を抱きしめた。
「これって、おんなじ気持ちってことかな?」
「……」
まどろむ頭で考える。
俺と彼女の『温かい』は同じものだろうか?
それはきっと、違う気がした。彼女の感じる温かさは俺の体温で、俺の感じる温かさは彼女の体温だ。
「同じでは、ないと思う」
「そっか。」
少し、寂しそうな声だった。
「おんなじだったら、良いのにね」
そうかな?
俺の気持ちが名倉さんに伝わって、名倉さんの気持ちが俺に伝わる。
あゆみの気持ちも、綾加の気持ちも、平川の気持ちも、母の気持ちも、中学の頃の生徒会長の気持ちも、教師の気持ちも、全部伝わって……同じになって……そしたらそれは、良い事だろうか?
「……」
長い沈黙。雨音が少し、少しだけ、弱くなった気がした。
風は無い。名倉さんの鼓動と呼吸に耳を澄ませ、思考が夢へと沈みそうになったタイミングで、名倉さんが再び口を開いた。
「わたしが浅野くんのお母さんを殺しちゃった、理由……」
ぽそぽそと、彼女は耳元で囁く。
まどろみの中、遅くなっていた心臓がドキリと跳ねた。
頭に浮かぶのは、死体を捨てる直前の、暗い白に濁った眼。
「もしかしたら、わたしと、おんなじになって欲しかったから、かも」
「同じに?」
瞑った瞼の向こうで、彼女が頷くのを感じた。
「うん。わたしのお母さんは死んでないけどね、でも、もう、わたしの近くには居ないでしょ? 会うことも無いと思う。そしたら、それは、死んでいるのとおんなじ。浅野くんのお母さんも居なくなれば、わたしと浅野くんも、おんなじ」
そんなことは無いと思った。
それに、前と言っていることが違っている。けれど、嘘を吐いているつもりも無いのだろう。自分の本当の気持ちなんて、一つに決められるようなモノでもあるまい。
「……名倉さんは、俺と同じになりたいのかな?」
「うん、そう。でも、違うよ」
そう呟く彼女の声は、少しだけ弾んでいた。
「わたし、浅野くんに助けてもらうのが好き、考えてもらうのが好き、困らせるのが好き、優しくされるのが好き、一緒にいるのが……好き。好き。好き、だからね、だけどね、浅野くんと同じに、浅野くん自身に、なりたいわけじゃないの」
俺は薄眼を開けて名倉さんを見る。
彼女はその長身を丸めて、俺の胸に耳を当てた。
「わたしは浅野くんの隣で、浅野くんと近づいて、浅野くんとおんなじになりたいの……伝わる、かな?」
分からない。
「……」
名倉さんと目が合う。
雨でびしょ濡れだ。
俺はもう少しだけ強く、彼女を抱きしめた。
「むつかしいね、浅野くんに近づくのは」
「……そうだろうか?」
「そうだよ?」
その声が、酷く優しいのだ。
「わたし、浅野くんのことばっかり考えてるから分かるんだ。浅野くんはね、寂しそうな子のすぐ近くに来てくれるの。相手がどんな子だって、目の前の、一番寂しそうな子の隣に行くの」
名倉さんは目を瞑ったまま、俺の鼓動を聞いている。
「だけど、それだとダメなの。わたしの隣に浅野くんが居ても、浅野くんの隣にわたしが居ないでしょ?」
「……どういう意味?」
「えーとね、一番寂しそうなのは浅野くんなのに、浅野くんは誰も近づけさせてくれないよ~って、意味……かもです」
名倉さんが目を開け、俺は逃げるように目を瞑る。
少し胸が痛かった。
「だからみんな、よけい浅野くんに近づきたくなるのです」
彼女の言いたいことは少しだけ分かる。
平川にも言われたことだ。『もっと人を頼れ』と、つまりはそういうことなのだろう。
でも、どうすれば良いか分からないのだ。
頼るって、なんだ。自分でできることは自分でやって、自分でできないことは諦める。今まで、そうやってきた。
「……俺、は」
言葉が続かない。
「大丈夫だよ」
名倉さんが俺の手を握る。
気が付くと顔がすぐ目の前にある。
「ずっとわたしが、浅野くんのそばにいるから」
滑り込むような言葉、目、表情。
俺は少しだけ怖くなって、目を瞑った。
大丈夫だなんて、思えなかった。
俺は別に独りでも良いんだ。ずっと傍にいることなんてできないと分かっている。
ふとした瞬間に、あっさりと距離が開き、その前か後かに心も遠のく。或いは、遠のかなければならなくなる。
俺は隣にいる人のことを分かりたいけれど、俺が分かられたいわけじゃない。
俺のことなんて、どうせ分からない。
母には分からなかったし、分かっているような顔をしていたお姉さんも、小学生の夏休みの終わりと共に居なくなった。
分かられるのも、助けられるのも、怖い。
一人で生きていけなくなるかもしれない。不安だ。不安なのだ。
だから俺のことなんか、誰も分からなくて良い。
一人も二人も、大して変わらないのだから。
「……」
夏休みに、似たような話をしたことを思い出した。
あのとき、あゆみに言われたのだ。『お前は人の話を聞いてばかりで、お前自身の話は誰が聞くのか』と。
俺は答えられず、代わりにあゆみから防犯ブザーを受け取った。
確かあの日も雨の日だったと思う。
今はもう、防犯ブザーは持っていない。
それに俺は、あゆみの……子供の隣にいるべき人間では無くなってしまった。
「浅野くんは、たまに遠くを見ているね」
「ぁ……すまない」
名倉さんの言葉で我に返る。
思考に没頭していたせいで、気が付けば何の話をしていたか忘れてしまった。
話題を思い出そうとするうちに、名倉さんが次の質問が飛んでくる。
「どこを見てたの?」
「え、と……たぶん、過去を」
「過去?」
雨に濡れた名倉さんは、小さく首を傾げた。
俺は彼女の問いに答えるために、更に深く考える。
「思い出すんだ。生きてたら、色々、昔のことを。それらが繋がって、俺は何を話すか決めている」
「そうなの? わたしと違うね……ずっとわたしは、今で精いっぱい」
「名倉さんは昔のこと、思い出したりしないの?」
「うーん、痛いことは、覚えてるかも。あと、一人で何もしないときは、浅野くんのこと思い出してるよ」
痛いこと……それはきっと、彼女の過去に沢山刻まれているトラウマだ。
或いは俺だって、痛みの一つになっているかもしれない。
「ふふっ。浅野くん、わたしと話して、そんな顔してくれるんだ?」
「そんな顔?」
「うん、優しい人の顔」
ぺたりと、名倉さんが俺の頬に触れる。
冷たい手が、触れている場所でジワリと熱を持った。
「私はね、やっぱり浅野くんと一緒にいたいだけなんだよ」
そっと名倉さんは目を瞑った。
少しだけ、彼女の濡れた肌を見つめる。
俺も、目を瞑った。
雨は止まない。
波音と彼女の体温の中で、俺はゆっくりとした夢の気配を感じとった。




