雨降りの日、傘の忘れ物
せっかくの海だというのに生憎の曇天だった。
或いは、死体を捨てに来たのだと考えれば悪くない天気かもしれないが。
もう随分寒くなってきたことも相まって、周囲に人の影は無かった。
コンクリートとテトラポットが敷き詰められたこの場所は、俺の知る海と大きく違っている。
荒々しい波も、寒々しい風も、全てが俺達を拒んでいる。
……景色は灰色。ここでは死者も生者も無いみたいだ。
「ふっ」
一つ息を吐いて思考を切り替える。
人が来る前に死体を捨ててしまいたい。
いや、それよりも夜まで待つべきか?
俺が思案している間に、名倉さんはキャリーケースを開けてしまった。
移動中に少し溶けたのか、強烈な生臭さが鼻腔を刺す。
臭いから少し遅れて、ごろり、と頭が転がり出る。
死体の顔色は浅黒く、俺の知っている母親と違っていた。
「どうやって捨てるの?」
名倉さんは平然とした様子で死体の腕を掴み、堤防の端まで引きずり始める。
「できるだけ堤防から離れたテトラポットの隙間に落としたい。故に、死体を持ったままテトラポットの上を移動したいのだけれど……」
改めて、敷き詰められたテトラポットを見る。
その大きさは想像していたよりも随分大きく、決して足場が良いとは言えない。
隙間から覗く闇と、その奥から響く波音は強く死を意識させた。
足を滑らせたら終わりだ……。
「ねえ浅野くん。途中で買ったロープ、使えるかな?」
堤防の脇に死体を放り出し、名倉さんはキャリーケースから湿ったトラロープと取り出す。
死体の汁が染み込んでいて、あまり触りたくない代物だが……致し方あるまい。
「とりあえず、そこの堤防から生えてる金具に結び付けて命綱にしよう。俺が死体を持って行くから、名倉さんは堤防にいて。それで、俺が足を滑らせたときに引き上げて欲しい」
「浅野くん、危なくない?」
名倉さんは心配そうにこちらを見る。
俺とて不安ではある。しかし役割を逆転したとして、自分よりも身長の高い彼女を引き上げられる自信が俺には無かった。
「……問題ない。始めよう」
ロープを胴に結び付け、死体にも巻き付ける。
指先が滑り少々結ぶのに手間取ったが、一度結んでしまえば、なかなか頑丈だ。
「よし」
気合を入れ、テトラポットを踏みしめる。
靴越しに伝わる、苔とフジツボの感触。
死体は重く、気を抜けばすぐに足が滑るだろう。
一歩目から心が折れそうだ。
波の轟音が不安を煽る。だが、いつ人が来るかも分からない。
俺は、もう一歩踏み出した。
足場を確認してから、死体に巻き付けたロープを引く。
瞬間、ぐにゃりと母の首が歪み、虚ろな目が俺を見た。
「……っ」
息を呑む。死体と目が合った。
ビクリと体が震えるが、理性でそれを抑えて死体を抱き上げる。
別段センチメンタルになる訳ではないが、ふと母に抱きしめられた記憶が無いことを想った。
子供の頃、大人の体というものは随分大きく見えたものだが、今腕に収まる死体は小さい。
……これは死んでいる。冷たい体が何よりの証拠だ。
俺は慎重に足を勧め、少しずつ堤防から離れていく。
海からも陸からも見えない場所に捨てなければ。
死体を抱えながら、もう片方の手でテトラポットの肌を撫でる。
コンクリートの面は想像よりも滑らかだったが、所々に潮風による経年劣化を感じる。
なんだか、この場所そのものが生きているみたいだ。
ずるりと、ロープを引く。巻き付いた死体が動く。
足を動かし、移動する。寒い。
早く死体を捨ててしまいたい。
俺は母の事が嫌いだった。
けれども高校に入ってからは殆ど顔を合わせておらず、最近は『嫌いだ』という感情が形骸化していたことも確かだった。
俺は、母の事を殺したいほど嫌いだったろうか?
答えは否、だ。そも、殺したいほど強い想いを、他者に向けられる気がしない。
それでも、母は死んでしまった。
「……」
ここに捨てよう。
堤防から十分に離れていて、テトラポットの配置を見るに足場も悪くない。
俺は寒い寒いと小さく呟きながら、命綱を近くのテトラポットに巻き付ける。
そうして改めて足場を確かめてから、ゆっくりと死体を持ち上げた。
数メートル下、テトラポットの隙間から覗く海面を眺める。
暗くて、冷たくて、山に掘った穴と同じだ。
パラパラと雨が降り出した。
水滴と潮風がすぐに体温を奪い始める。
俺は少し急ぎながら、死体に巻き付くロープの結び目を解き始めた。
濡れた指は何度も滑る。決定的な瞬間を先延ばしにするもどかしさに、俺はどこか縋っていた。
けれども、結び目はやがて解ける。
雨に打たれながら、俺はもう一度死体の顔を見た。
「……」
顔を損壊しておいた方が、万一死体が見つかったときにバレにくかったりするのだろうか?
死体の頬を指でなぞる。冷たい、柔らかい、肉の感触。
母の顔に触れたのは、これが初めてだった。
俺はそれ以上、死体の顔には何もしなかった。
コンクリートを踏みしめる。
死体を抱えた腕をゆっくりと闇へ。
体に巻き付く命綱の感触を頼りに、少しだけ身を乗り出す。
テトラポットの隙間から冷たい海が覗く。
俺はそっと、母を放った。
まるで吸い込まれるように落ちた死体は、水音を立ててそれきり見えなくなった。
母が死んだ。
そんな事実がようやく実感として追いついて来た気がした。
物語で目にするような後悔や悲しみは無い。
ただ何となく、終わったのだという実感だけがあった。
俺は一つ溜息を吐いて水平線を見る。
強くなった雨脚は、まるで空と海の境界を搔き消そうとしているみたいだ。
「……」
終わった。
死体はもう戻らない。
後はただ、流れに身を任せるしかない。
「ねぇ」
「……ぁ」
気が付くと、隣に名倉さんがいた。
堤防で待っているよう言ったのだが……来てしまったのか。
俺は何故だか気が抜けて、テトラポットに腰掛ける。
すると、名倉さんも俺の隣に腰掛けた。
「雨、強いねぇ」
「……うん」
名倉さんは俺の方をチラと見て、そっと肩に頭を預けてくる。
「あったかい」
「寒いよ」
「ううん、あったかいよ」
「……」
名倉さんの言う通り、触れ合っている部分は温かかった。
雨に打たれ冷たくなった体のせいで、余計にその熱が心地よく思える。
何となく、ずっとこのままでも良いような気がした。
明日が来なくても、良いような気がした。
隣り合って雨音に耳を澄ますこの場所で、きっと俺は安心していたのだと思う。
母が死んだ。
そのことが何故か、窮屈な世界の死と同じに思えた。
きっとそれは、今だけだろうけど。
「……ぁ」
ポケットに入れていたスマホが振動する。
その振動は、腰まで隣り合っていた名倉さんにも伝わったようだ。
スマホを取ろうとポケットに手を伸ばす。
すると、名倉さんが腰を押し付けて邪魔してくる。
「名倉さん……」
見つめ合う。
「要らないよ、こんなの」
彼女は、そっと俺のポケットに手を入れた。
顔を向かい合わせて初めて、酷く距離が近いことを意識する。
ポケットを弄るその手つきに、痺れるような寒気が奔った。
撫でるようにスマホは取り出される。その画面には『あゆみ』と表示されていた。
スマホが振動している。
定期的に鳴り続ける低音は、まるでカウントダウンのようだった。
俺は名倉さんと見つめ合いながら、そっとスマホを受け取る。
「ねぇ、捨てよう? 要らないよ、そんなの」
「……」
見つめ合う。
名倉さんの睫毛は雨に濡れて、その色気に身体が熱を覚えた。
「っ、要らなく、ないんだよ……」
俺はそっと、スマホの画面を押した。
振動が止まる。
『ねぇ、今どこ?』
あゆみの声。
俺は息を吸って、吐いた。
名倉さんは寂しそうに俺を見つめている。
その濡れた瞳を見つめながら、電話口に小さく「海」と返事をした。
次の瞬間。
ふらり、と名倉さんの体が揺れる。それは躊躇なく、雨が滴り落ちるように、滑り落ちる死体のように、重力に身を任せた動きだった。