優しいおとなりさん
「あ、あにょ……ふ、二人ともちょっと、まって……くだしゃぃ」
部屋の奥からひょっこりと顔を出したのはお姉さんだった。
しかし、名倉さんは気にせずグイグイと俺の手を引き続けている。
「……名倉さん、ちょっと、聞こうよ」
俺が呟くようにそう言うと、あっさり彼女は手を止めた。その素直さに、俺はどこか居心地の悪さを感じる。
まるで俺が、名倉さんを支配しているみたいだ。
疲れた。そんな感覚が頭を支配している。
俺はどこか無気力に、お姉さんの言葉を待った。
「ぁえ、へへ、えと、車ぁ……私、出しますよぉ?」
「……平川の呼び出しには応じずに、逃げるってこと?」
俺が尋ねると、お姉さんは事も無げに頷いた。
「うん、はい。そ、それで遠くまで行ってぇ、ずっと、ずぅっと、一緒にいましょ? それが良いと、思います、はぃ」
随分と重い言葉だった。
俺は心の中で「助けてくれ」と願ったけれど、今の俺を助けるということはつまり……
「……そこまでしたら、お姉さんが本当に共犯になっちゃうよ」
「べ、別にいっ! も、もともと共犯者ぁ、でしゅからぁ!」
お姉さんは突然大きな声を出したかと思うと、次の瞬間にグイと顔を寄せてくる。
そのまま思い出したかのように、ふと顔を伏せて、上目づかいで俺を見た。
「私は浅野少年の、た、助けになりたい、です……」
お姉さんを見つめる。
それはきっと、本気の目だった。どこか静かで、昔のような強い目。
小学生の俺の話を聞いてくれていた、あのお姉さんの瞳だった。
「ぁ……」
俺が言葉を発そうとした瞬間
「うっさい!」
あゆみが叫んだ。
+++++
ムカつく! ムカつく! ムカつく!
変なお姉さんの言葉、全部ムカつく!
私は気が付くと、感情のままに怒鳴っていた。
「お前なに!? 晋作に騙されたって知ってウジウジ小さくなってたくせに! 突然助けになりたいとか意味分かんない! ホントは自分のことばっかのクセにさぁっ!」
大人はウソつき。
バカで本当のことなんか何も分かってない。
決めつけばっか。そのクセ、プライドばっか高くてエラそう。
私は強く拳を握って、ギッとお姉さんを睨んだ。
「大人のクセに! 大人のクセに! ザコのクセに! 意味分かんないこと言うな!」
「な、ぅ、な、なんでぇ? い、意味分かんなくないよぉ……?」
変なお姉さんが小声で反論してくる。それがよけいムカついた。
「じゃあ! 裏切んの!? 晋作に騙されたから、仲間のフリしてんでしょ! ずっとまわりの顔色うかがってるやつなんか、みんなそうだもん! 自分が何してんのかも分かってないバカ! バカ! バカ!!!」
どうせ助けたいとかウソだ。
晋作の理解者みたいな顔しないで欲しい。
優しいフリして、私の世話してるみたいな顔して、こういうヤツは心の中で自分のことしか考えてないって分かってる。
自分が優しい人だって気分になりたいやつが一番キライ!
何より、そんなヤツに晋作が騙されそうになってるのとか見たくない!
「お前みたいなヤツ! 本当は何にもする気ないだろ!? 話聞くとか言って、私の話すことちょっとも理解する気ないクセにっ!」
「うぅ……? な、何の話してるのぉ? 分かんない、私、裏切ったりしないよぉ?」
「信じない! 意味分かんない! 晋作に騙されてたバカのクセに!」
変なお姉さんは困ったように眉を曲げた。
自分が被害者です、みたいな顔。
「ぇぅ……わ、私、ね」
変なお姉さんがしゃがんで、子供あつかいするみたいに目線を合わせてきた。
私はすぐに、そっぽを向く。
キライ、キライ、キライだもん。
「あ、あの、私、騙されてるって、あゆみちゃんに言われて、び、びっくりしたよぉ? ででも、でも、でも、そんなの、ど、どうでも良いから。裏切らないよ」
何でか、変なお姉さんの声は泣きそうだった。
「た、大切な人の助けになりたいのって、ふ、普通のことでしょ?」
「ふつうじゃないもん」
私は俯き、ぎゅっと拳を握り込む。
シンとした部屋に、変なお姉さんの言葉が残ってるみたいでイヤだった。
「ゎわ、私ね、あゆみちゃんのことだって大切で、助けになりたいよぉ……?」
ウザい、ウザい、キモイ。
どこか心の深い部分が、ざわめくのを感じた。
「っ……! 誰もっ助けてくれないもんっ!」
ムカつくの全部、吐き出すみたいに声を出す。
つっぱねるんだ。全部、全部ウソだもん。
「大人なんか怒ってばっかじゃん! 嫌いだもん。話聞いてくれたの、晋作だけだもん……お前だって、ずっと自分のことばっかだったクセに……! 私のことなんか、興味なかったクセにっ!」
お笑いとか別に好きじゃないし、動物園のときもオレンジジュースとかそんなに好きじゃないし、とつぜん折り紙しようとか意味わかんないし、ていうかお前がアゲハチョウ折れるとか知らないし。
「晋作のことだって、助けようとしてたの私だけだもん! 私、お前のこと利用するつもりだったし! お前のことなんかキライだしっ! 今まで優しくしてやったの、全部ウソだしっ……! しねっ! しんじゃえっ!」
絶対に涙を零すまいと目を見開く。
顔がくしゃくしゃで、ブスになってる気がした。
「ぁぅ……き、嫌らわれてた、んだ。ぜんぜん気が付かなくて、ごめんね? 私、バカで、わ、分かんなくて……」
「あ、あやまんなっ!」
変なお姉さんは悲しそうな顔をしていた。
こいつが一回だけ、ちゃんと私の話を聞こうとしたのを覚えてる。
動物園に行ったとき、何見たいか私に聞いてきた。別に、だから何って感じだけど。
サイアク。
私が悪いみたいでムカつく。
私が悪いんだけど、でも私悪くない。
「で、でも……あにょ、嘘でも、あゆみちゃんに優しくされたの、嬉しくてぇ……あ、あと話、ゆっくり聞いてくれたのも、嬉しかた。だからやっぱり、あゆみちゃんの今の辛そうな顔、見てると、あの、あの……わた、私も、辛い」
意味わかんないこと、言うな……!
「私、浅野少年とか、あゆみちゃんとか、来て、お話、聞いてくれて、嬉しくて……ひ、必要とされてると思って! だ、だから死ななくても良いって、単純で、バカだから、そう思っちゃった」
変なお姉さんが、私の手を握る。
「ば、バカでごめんね……でも私、あゆみちゃんの助けになりたいんだよぉ……」
真っすぐ見てくる。
涙で濡れた、目!
頭がカッと熱くなる。
咄嗟に手を振り払った。
「っうあぅぅ……うううううっ!」
殴った。
意味わかんなかった。
手がジンジンする。
なんだか泣けてきた。
たぶん、私が悪いんだ。
「ぇ、あ、あゆみちゃん、な、泣いてる。だ、大丈夫?」
ほっぺ真っ赤なのに、こいつ私のこと心配してる。
私、バカっていっぱい言っちゃった。母親からいっぱい言われて、嫌だったのに。
ウソついて、人のこと利用しようとしたんだ、私。
「……っ、うっ、ぁ」
何だか気持ちがいっぱいになって、あふれるみたいに泣き声が出る。
ごめんなさいって言いたかったけど、「うわーん」ってバカみたいな声が止められなくて、もどかしくて、不安とか、怒りとか、怖さとか、とにかく全部で泣いてしまった。
変なお姉さんはやっぱり困ったみたいな顔してて、おろおろしながら私に話しかけてくる。
でも泣いてて返事できなくて、心のどこかで、こんなの初めてだなって思ってた……。
+++++
「ご、ごめ、ごめんね? あゆみちゃん、大丈夫かな? 泣き止んだ? じ、じゃあ、す、しゅ、好きな食べ物、お、教えて? そ、それ、ああ朝ご飯にしよっか? ねぇ?」
沢山泣いて少し落ち着いてきたあゆみに、お姉さんは気遣うように声をかける。
対するあゆみは、グズグズと鼻を鳴らしながら「……カレー」と短く返事をした。
「あっ、じゃ、じゃああああ朝ごはんカレーにしよっかぁ……」
「別に、良いけど」
あゆみはやはり憮然とした態度だったが、その声音はどこか今までと違うように思える。
お姉さんを頼って良かった。
あゆみに、話を聞いてくれる大人ができたのだ。
俺のように中途半端な子供じゃなくて、お姉さんは大人だから……。
「……ねっ」
名倉さんが、そっと俺の手を引く。
俺は小さく頷き返した。
「カレーの食材を買ってくる。二人は家でゆっくりしていると良い」
そう一声かけて、俺は財布を手に取った。
気がつけば名倉さんは、キャリーケースを持って後ろにいる。
俺と彼女は音を立てずに、そっと玄関を後にした。
そこはきっと、俺がいる必要の無い場所だから。
+++++
早朝、キャリーケースを引いて歩く。
走っている人や散歩中の老人を避けるために裏道を行くが、それでも幾人かとすれ違った。
「浅野くん、これからどうしよっか?」
「……海に行こう」
俺がそう言うと、名倉さんは気の抜けた顔で笑う。
「じゃあ、水着買わないとだね」
「……というより、死体を捨てたくてね。時間が無いから、テトラポットの隙間に落とすつもりだ」
「そこだとバレないの?」
「……まあ、次善の策といった程度かな。以前から穴が使えなくなった場合のことを考えていたんだがね、これが現実的に考えて妥当な捨て方だと思うよ。テトラポットの隙間なら回収は難しいし、普通に捨てるよりは海面に浮き上がりにくい」
とはいえガスが溜まると死体は浮くらしい。捨てる前に腹は裂いておかなければ。
脳裏を過った悍ましい思考は、どこか自分の物ではないように思えた。だが、それでもやらねばならない。
未来への展望なんて無い。きっと平川に通報されて捕まるのがオチだろう。
それでも、あゆみとお姉さんのやり取りを見て、俺はもう心を決めていた。
……俺はお姉さんを騙していたのだ。
その場を切り抜けるため、あまりにも自然にお姉さんの善意を利用していた。
こんな俺を、お姉さんは当然のように助けたいと言う。
俺は、お姉さんやあゆみを巻き込むべきではなかった。
良くないことだという意識はあったのに、死体という大きすぎる問題を優先して誤魔化していた。
だから、でも、もう手遅れかもしれないけれど、俺は二人から離れるべきなのだ。
早朝の空は薄青く、鳥が自由に鳴いている。
キャリーケースのタイヤはアスファルトを擦りガタガタと騒々しい。
……もうここには戻らない。そう思うと、少し寂しかった。
そして、そんなことを思う自分が意外だった。
「監視カメラが怖い、海にはバスで行こう」
「うん~。なんか懐かしいね?」
「……そうだね」
夏休みの逃避行、首を絞められた記憶。
何も受け入れられない自分、逃げてばかりの過去。
死体を運んで来た、あの日の夜。
どうすれば上手くいくのか考えて、間違え続けて、そうしてここまでやって来た。
助けの手を振り払って、俺は俺を助けようとしない女の子の隣にいる。
バスが来る。
キャリーケースを引く死体の重みが気持ち悪い。
空気は清々しいほど冷たく、名倉さんは相変わらず嬉しそうに微笑んでいた。
俺の気分は、すこぶる悪いが、それでも少し口角を上げる。
間違い続けた果てとしての今を見たなら、俺はきっと間違えていない。