風呂は面倒くさい、臭い
拉致監禁が始まって数日、俺と彼女らにとっての日常がなんとなく形を持ちつつあった。
主に食事時間と就寝時間は名倉さんと一緒、それ以外の時間は女子小学生の部屋でダラダラ。そんな暗黙のルールが、各々の妥協点として成立したのだ。
そんなある日の昼下がり。
俺は女子小学生とレースゲームにいそしんでいた。
俺の操作する車が加速アイテムをゲット。
ぐんぐんとNPCを追い抜いき、そして今にも女子小学生の車を追い抜いてゴール目前……!
突然ゲーム画面が停止した。
「あれっ?」
表示される『ポーズ』の文字と、設定画面。
女子小学生が一時停止ボタンを押したのである。
俺がそれを理解し抗議の声を上げる間も無く、女子小学生は大きな声で言った。
「く さ い !」
「……いや、君、負けそうになったからといって、言いがかりをつけた上に一時停止は無いだろう」
「バカ! ちがう! お前、この家来てから一回もお風呂入ってないでしょ! さっき、クーラーの風で臭いがきて、くさかったの! 早く、お風呂入って! バカ!」
俺は無言で手足の鎖をジャラジャラ鳴らし、風呂に入ろうにも服を脱ぐことすらかなわないと主張する。
「……分かった。お風呂の前で待ってて」
そう言うや否や、女子小学生は部屋の外へと出て行った。
一人残された俺の耳に、ゲームのBGMだけが空しく響く。
はあ、降りるのが面倒なのであまり階段は使いたくないのだが……
とはいえ、このまま部屋にいても意味などない。
それに最近は、稀に頭が痒くなっていたことも事実だ。
俺は大人しく、シャクトリムシスタイルで尻を引きずりながら階段を下りた。
風呂場の前では、ここ数日で少し固くなった笑みを浮かべる名倉さんがこちらに手を振っている。
「あゆみちゃんが、お風呂の間は鎖はずして良いけど、私が見張ってるようにって~」
そう言いながら、名倉さんはカチャカチャと手枷と足枷の鍵を外し始める。
別に、わざわざ女子小学生の言うことを聞いてやる義理も無いだろうに……まあ、名倉さんはそう考えない。それだけの話だ。
俺は黙って、名倉さんが鍵を外すのを待った。
「……っと、はい、外れたよ。あ、お湯は体洗ってる間に溜まっちゃうと思うから、ちょうどいいところでお湯止めてね~」
そう言いながら、名倉さんはタオルと服を渡してくる。
「あ、浅野くんは小柄だから、お父さんの服だとサイズが合わないと思って……それ私の服なんだけど大丈夫かな?」
「ああ、構わないとも。それよりも、名倉さんはそれで良いのかね?」
「ん? うん、私は別に。それより、あゆみちゃんから逃げないようにちゃんと確認するように言われてて……お風呂入ってる間、時々声かけると思うけど、ごめんね?」
やはり俺の監禁体制は、想像以上に徹底していた。
名倉さんも断れば良いのに、よくもまあこんな面倒事に付き合うものである。
そんなことを考えながら、俺はいそいそと脱衣所に入り服を脱いだ。
特段風呂が好きというわけでもないが、久しぶりなので少しばかり浮足立つ。
シャワーからは、すぐにお湯が出てきた。
そのまま体を流し、シャンプーを髪で泡立てる。良いシャンプーを使っているのか、泡を洗い流すときスルスルと髪に指が通った。
「……か〜?」
「ん?」
何か聞こえた気がしたので、シャワーを止めて聞き返す。
「名倉さん、何か言ったかな?」
少し張った声は、風呂場の壁に反響する。
「あ、ごめんね? シャワー中で聞こえなかったかな? ちょっと確認のために、いますか~って言ったの」
「います」
「うん、は~い」
名倉さんの照れたような返事が聞こえて、その後で風呂場のガラスに影が落ちた。
名倉さんが背を預けているのだろう。
別に覗かれているわけでは無いけれど、確かにそこに人がいるのだと実感し、俺は少しばかり気まずくなってさっさと体を洗ってしまった。
湯船にお湯を出し続けていた蛇口を閉める。
そのままお湯に入ろうとしたところで、再び声をかけられた。
「いますか~?」
「います」
「うん、そっか。は~い……ふふっ」
何が楽しいのか、名倉さんは小さく笑った。
俺は湯船に肩まで浸かり、なんとなくガラスに押し付けられた彼女の背を見る。
名倉さんは、頼まれごとを断らない。
誰が相手でもニコニコ笑って、相手が求めている答えを返す。
実際、最初の数日は名倉さんも何か本心とか本音みたいなことを話そうとしてくれていた。俺が求めていたからだ。だが、次第に彼女の口数は減っていき、最終的に必要なことしか話さなくなった。
彼女は、俺がどんな言葉を求めているのか分からなかったのだろう。或いは、本心からの言葉というものを、そもそも持ち合わせていないのかもしれない。
結果、奇しくも女子小学生の言った『名倉さんと相性が悪いのだから自分とだけ話せば良い』という言葉通りの状況になった。尤も、女子小学生の言葉が無くとも、俺と名倉さんはこうなっていただろう。
苦手な人間との会話を徹底的に避けるというのは、俺が今までの人生で慣れ親しんできた行動だ。
そしてなにより、変に本音っぽい嘘を話されるよりも、互いに何も喋らない方が気楽なのは事実だった。
だが、今回は一つ、今までと違う点がある。
それは彼女の性質だ。
彼女は相手の求める答えを、自分の本心とは関係なく相手に会わせて提示する。だから彼女の口数が減っていった理由も存外、俺の求める返答を察して、無言という最適解を提示しているだけなのかもしれない。
そう考えると、会話の少ない現状もそれはそれで気まずく感じてしまう俺だった。
「ふうー」
思考に一区切りつけるように、意識して息を吐く。
ようやく体が解れてきた、湯が全身に染みるようだ。
自分ではあまり気が付かなかったが、俺も拉致監禁や手足の拘束された生活に疲労が溜まっていたのだろう。
湯船の温かさに、ふわふわと意識が揺らぎ始める。
「いますか~?」
「…………」
「おーい、いますか~? もしもーし!」
名倉さんの、少し大きな声にハッとする。
「……あ、すまない。一瞬、眠っていた」
「え!」
俺の返事を聞き、ガラス越しの名倉さんはサッと立ち上がった。
「大丈夫なの!? お風呂で寝るのは危ないよ! 早く上がった方が……」
「いや、問題ない。というか、久しぶりに拘束が無いから、もう少しゆっくりしたいと思っている」
彼女の慌てた声を途中で制すると、ガラス越しに不服そうな声が漏れる。
「じゃあ、お風呂から上がるまでお話ししよう? 眠らないように、ね?」
「……分かった」
名倉さんから提示された妥協案は、風呂でゆっくりしたかった俺としては少々受け入れがたい内容だったが、致し方あるまい。
俺が風呂に入っている様を覗いていてもらうわけにもいかないしな。
そこで、どうせならと俺は以前から気になっていたことを、ここで聞くことにした。
「名倉さんの部屋には、ぬいぐるみが沢山あるけれど……あつめてるのかな?」
作り物染みた彼女の部屋を覆い隠すようなぬいぐるみの群れは、ここ数日でどんどん違和感として俺の中で膨らんでいた。
普段接していて、名倉花香という人間には、およそ執着や好き嫌いといった要素が感じられないのだ。まるで、相手に合わせて姿を変える鏡像ような……そんな印象を受ける。
事実として、彼女は俺に対し積極的に話しかけるのを止め、夏休みの課題を数日で終わらせてからは、ずっと時計か、ぬいぐるみを眺めていた。だから、全てが白々しい彼女の中で、ぬいぐるみがどんな意味を持つのか気になったのだ。
ガラス越しに名倉さんが動く。
首を傾げ、俺の質問について少し考え込んでいるようだった。
「……えーと、あつめてるというか……お店で見かけると買っちゃうんだぁ。それで、ぎゅうぅって抱きしめると、少し心が落ち着くの」
「そうか? 俺は今まで、君がぬいぐるみを抱きしめている姿は見たことないが……」
言外に疑いの意を込めて言う。
しかし、ガラス越しの彼女は照れくさそうに笑った。
「えへへ、そう、うん……見られるの、なんだか恥ずかしくて」
いかにも取り繕った言い訳のような内容の言葉だが、その声に白々しさは感じられない。
もしかすると、本当に誰にも見られていないときだけ、ぬいぐるみを抱きしめているのかもしれない。
……そういえば以前にも、名倉さんの言葉で取り繕っていないと感じたものがあったことを思い出した。
あれはたしか、ここに来て一番最初に焦げ食パンを出された日。女子小学生や今の両親と、家族の真似事をしたいとかいう意味合いの言葉だったか。
「……なるほど、な」
口の中で小さく呟く。
色々と、気がついてしまったから。
自分の傲慢さや、浅ましさに。
そこで俺は改めて、名倉さんと向き合う為に口を開いた。