スキ、キライ、スキ、キライ
「……」
痛む頬に触れる。
瞳の奥に涙が滲んだ。
綾加さんはハッとしたように謝罪し、押し倒していた私を解放する。
そのまま、彼女はジッと何かを願うようにこちらを見つめた。
私は努めて気のないフリをし、スカートについた汚れを払う。
「……私の意見は変わらないわよ」
静かに告げると、綾加さんは泣きそうな顔で目を細める。
「なんで、そんな……謝ったらきっと、浅野先輩は許してくれるっすよ」
「許してくれるから駄目なのよ」
彼女は項垂れ、かすかに声を漏らす。
「意味、わかんないっす……」
「浅野は許してくれるから、私は許されようとしちゃ駄目なの」
どうせ分からないだろうと理解しながら言葉を続ける。
「浅野は全部受け入れてくれるから、一度浅野を拒絶した私は……居場所を得てしまった私は、もう戻れないのよ。戻る資格が、無いの」
「……意味、わかんないって言ってるんよ!」
顔を上げた綾加さんは、まだ泣きそうな顔をしていた。
「平川先輩、なんか色々言ってるけど、謝るのが怖いだけなんじゃないんすか!? 資格って何すか! 浅野先輩があんなに辛そうだったのに、追いかけられない理由って何なんすか! 友達と仲直りすることより大事なことって何なんすか!?」
「……っ! アイツは友達なんかじゃない! 私の事情も知らないで、簡単に言わないで。だいたい、そんなに浅野が心配なら、綾加さんが一人で行けば良いじゃない!」
「っそんなの! 綾加だってそうしたいっすよ! でも綾加じゃ、浅野先輩の辛さ何も分かんないからっ! だから平川先輩にいっしょに来てほしいんじゃないっすか!」
ぐっと、綾加さんの顔が近づく。
眉間にシワが寄ったその表情は酷く震えていて、今にも崩れそうに見えた。
「綾加は今まで、慰めたり、寄り添ったりしようとするたびに人を怒らせてきたんす。友達もゼンゼンできなくて、人の気持ちが分かんなくて、空気も読めなくて! 何もかもが遅くて、助けてって言われるまで分かんなくてっ! みんながフツーにやってる大人なコミュニケーション、ゼンゼンできなかったんす!」
綾加さんの手が、痛いほど強く私の肩を掴む。
「平川先輩は、そういうのできるんだからっ! ちゃんとしてくださいよ……。ここにいて良いんだって、気持ちを分かってあげられるって、話を聞いてるって、浅野先輩に伝えたいんすよ……」
「そんなの——」
私の言葉を遮り、綾加さんは吐き出すように言葉を続ける。
「浅野先輩、屋上で言ってたんす。誰も自分の話を聞いてくれないって……。浅野先輩が言った『話を聞く』って、たぶんフツーに聞いてるだけじゃダメなヤツなんすよね? それって綾加にできないヤツで、だからその時、何も言えなくてっ」
綾加さんは私の胸に顔を埋め、掠れた声を小さく漏らす。
「助けてくださいよ、平川先輩……」
「……」
私は知っていた。
浅野の気持ちを、文化祭の日に聞いたから。
アイツは椅子に縛られたまま私に言い放った。
『人の言葉を聞く気が無いのに、自分は何も言う気が無い。そんな奴は、孤独なんて癒せない』
図星だった。
でも、私にだって言い分はあったのだ。
『思ったこと口にしたって、理解されないで怒らせるだけなら、言わない方がマシ』
これがあのときに放った言葉。
毎日怒鳴り合う両親に嫌気が差して、私は言葉なんか意味が無いと切り捨てた。
……けれど今、私の両親は話し合って歩み寄っている。
胸が痛かった。私は間違っていたのだろうか?
浅野にナイフを突きつけるのでなく、話を聞こうとしていれば本当の友達になれていたのか?
……なんて、たらればを語るのに意味は無い。
それに、小さい頃から怒鳴り合いばかりを見てきた私に、ちゃんと人の話を聞く方法なんて分かるはずもなかった。
今更、変われない。
「綾加さん、あなたが行きなさい。浅野の居場所は教えてあげるから」
「……綾加じゃ、ムリっすよ」
綾加さんは可哀想なほど小さくなりながら言葉を続ける。
「浅野先輩と出会ったばっかの綾加じゃ、ダメなんすよ。事件が起こるまで、ゼンゼン浅野先輩の辛さに気がつけなかった綾加じゃ……」
「アイツの気持ちなんて、そんなの私だって分かんないわよ」
ふっと、私には珍しく素直な言葉が漏れた。
「そりゃそうでしょ。アイツ、自分のこと何も話さないじゃない。アイツと話してたら、気が付くとコッチの話させられてるし……」
そう言いながら、私は廊下の壁に背をもたれる。
視線は窓の外。もう外は夕闇に呑まれ始めていた。
「アイツのことなんか、誰にも分かんないわ。だから綾加さんの期待してるような役目、頼まれたって私にはできない」
夕日の残光に照らされて、綾加さんの頬で涙の跡が光る。
「ほら、そろそろ帰るわよ」
「先輩……」
さっさと歩きだした私に、後ろから追いすがる綾加さんの足音。
今更ながらに、先輩としてどう振る舞うべきかを考え始める。
芥屋先輩はどうしていたっけ?
大学の推薦関係で忙しいのか、最近は先輩に会えていないので上手く思い出せない。
私の起こした事件で迷惑を掛けていないか、今更ながら心配になった。
「……」
綾加さんの足音を意識する。
彼女の言っていることは、きっと間違っていない。
浅野の危うさは私も理解しているのだ。
すぐ一人になろうとするアイツには、きっと本当の友達が必要だった。
けれども、散々浅野に酷いことをした私は、浅野に許されるべきでない。
「……はぁ」
また、会いたい。
胸の苦しさが示す本音は、結局のところそれだった。
何故だろう、私がアイツに押し付けていた色々な問題は、もう無くなったはずなのに。私の方から、アイツを拒絶したのに。
どうやら自分で壊した物というのは、思い出の中でどんどん大きくなっていくようだ。
帰路を歩みながら、そんなことを想う。
冬の風は冷たく、早すぎる暗闇にはまだ慣れない。
私は三叉路で綾加さんに別れを告げようとして、背後の足音がピタリと止まったことに気がついた。
「……やっぱ綾加、なっとくできないっす」
振り返ると、綾加さんは肩に力を込めて、真っ直ぐに立っていた。
「だって平川先輩、浅野先輩のこと好きっすよね?」
ビクリと肩が震える。
思わず言葉が、喉に詰まった。
「なっ……なによ、急に。別に好きなんかじゃ……好きなんかじゃ、ないわよ」
私が浅野に抱いているのは、そんな安っぽい気持ちじゃない。
本当の、切れない繋がりが欲しかっただけ。
「じゃあ、何で綾加の告白邪魔したんすか?」
「っ……」
文化祭の日、事件直前のことが記憶によみがえる。
当初の『浅野晋作殺害計画』では、文化祭が終わった後で、打ち上げの食事に薬を混ぜて心中するつもりだった。
それくらいしないと、浅野は名倉花香から目を逸らさないと思ったから。
でも、告白している綾加さんを見つけたとき、訳が分からなくなって、気が付くと浅野の手を引いて逃げていた。
薄っぺらな恋愛関係なんて、どうでも良いつもりだったのに。本当の友達になれたら、他の関係なんて無意味だから気にならないと思っていたのに。
……浅野が他の誰かと付き合うのは、怖かった。
「わ、私は……違うの。そんな高校生のお遊びみたいな、好きとか嫌いとか、そういうのじゃなくて……」
「そんな話はしてないっす! なんで好きなのに、辛そうな浅野先輩を放っておくんすか!」
「っ! 辛そうな顔してるのが、私のせいだからよ!」
「だったらやっぱ、ちゃんと謝らないとダメじゃないっすか!」
真正面からぶつけられた言葉。
シンプルで、ある種の幼稚ささえ感じさせる単純な論理。
そんな真っすぐな言葉を前に、私の捻くれた心が怯えて震える。
「でも、私に許される資格なんて……」
「資格とかじゃなくてっ、できることをしようってコトじゃないっすか! フラれたんだから、これからもっと頑張って振り向かせるのが、私たちにできるコトなんじゃないんすか!?」
「あっ……」
言葉の意味が分からなかった。綾加さんは難しいことなんて言ってない。
でも、それでも、綾加さんの言葉の一点が気になって、そこ以外耳に入らなくて、そして腑に落ちた。
私、浅野にフラれてたんだ。
……ずっと、それを認めたくなかっただけなのかも。
色々な、本当に色々な事情が絡み合って、見えていなかったシンプルな事実。
私が前に進めなかった理由。
私の心は、私が思っていたよりも卑しくて、一番引っかかっていたのはそこだったんだ。
胸中を満たす酷い悲しみと寂しさに気がつく。
それはどこか虚ろで、しかしスッキリとした感情だった。
私、フラれただけだ。それはよくあること、よくある話。
でも私にとっては重大で、飲み込むのにも時間が掛かった。
「……私、フラれてたんだ」
夏休みに、合宿で浅野と話したときのことを思い出す。
「私、浅野のこと好きだったんだ……」
胸が苦しくなり、込み上げる熱が涙に変わる。
綾加さんは慌てた様子で、そっとハンカチを手渡してくれた。
「ふふ、ありがと」
涙を拭いても、心は晴れない。
「い、いえ! あのっ、でもっ! またアタックすれば良いじゃないっすか! 綾加はそうするっすよ?」
「……今は良いの。なんだかスッキリしたから」
ずっと求めていた『本当の友達』が、単純な『恋人』の言い換えだったとは思わない。
けれど恋の要素は私が思っていた以上に重大で、だから芥屋先輩とも綾加さんとも『本当の友達』にはなれなかった。
「私、自分で思ってたより恋愛脳だったみたい……でも、恋はお終いね」
ふっと、綾加さんに笑いかける。
「私、ようやく浅野の友達になれそう」