赤信号のボタンを押したい
眠れない夜というものがある。
じりじりと時間が進まず焦燥が募り、気分が落ち着かず動かないこともままならない。眠れない理由は様々で、しかし全てが鬱陶しい。
今日の夜はつまり、俺にとってそれだった。
昨日も夜行バスの中でほとんど寝なかったから、今日も眠れなければ二徹ということになるな。
……まあ、どうでも良いか。
例え今眠れたって、きっと見るのは悪夢だろうから。
俺は外へ出ることにした。
隣ですやすやと寝息を立てているあゆみを起こさないよう、慎重に布団から這い出す。
肌寒い。冬は嫌いだ。
チラと振り返ると、二枚横並びにされた敷布団の上で、三人はぐっすりと川の字になって眠っている。
この家には死体があるというのに、存外みんな図太い。
俺は忍び足で家から脱する。
息苦しかった。死体があって、人が三人もいる家が。
別に皆のことが嫌いなわけじゃない。
だけれども、煙くて重い明日への不安が、あの場所ではどうしたって拭えない。
俺は逃げ出したかった。
少しの間だけで良いから。
玄関を開ける。
アパート三階の廊下から街を見下ろした。
眼下に広がるのは変わり果てた懐かしの街で、俺が嫌いだった街。
記憶と違い綺麗になった国道と、昔は無かったドラッグストアが建っている。
変わった景色は、しかし代わり映えしない印象だった。
俺は点滅する黄色信号から目を逸らし、階段を降りてアパートから出る。
田舎の夜に人は居ない。
稀に通りがかるのは大型トラックと、怯えた目をした猫だけだ。
確か近くに公園があった。
あそこにはベンチと、申し訳程度の滑り台があったはず。
夜の散歩の目的地としては十分だろう。
……尤も、俺は公園なんて嫌いなのだが。
公に開かれた園なんて、なんとも嘘臭いじゃないか。
そんないつもは考えないようなシニカルな思考に身を委ね、横断歩道に差し掛かる。
赤信号。
夜道に車通りは無いが、それでも俺は立ち止まった。
止まることに意味は無い。
安全のための信号機なら、安全だと確信が持てている今は無視しても良いはずだ。
しかしそれでも立ち止まることに理由を探すなら、俺は待つことが好きなのかもしれなかった。或いは、急ぐことが嫌いだ。
いつもどこか、俺は気が急いている。
やらなければならない事、知りたい事、良くない事、様々なものを自分の中で解決しなければ気が済まない。解決するまで悩み続けて、悩み終わったら行動して、新たな悩みが現れる。
振り返ってみれば、俺はそういうことを繰り返してきたのだと思う。
だから俺は、無機質に手持ち無沙汰を強要しつつ、こちらの意思で無視できる赤信号が好きなのかもしれない。
静かな夜だった。
月を眺めてみる。冷たい空気を吸う。
何気ない動作、さしたる感動は無い。しかし一つ気付いたことがあった。
「……名倉さん、良い夜だね」
「あっ、えへ、気が付いてたんだ? ごめんね、声かけようと思ってたけど、何て話しかければ良いのか分かんなくて……」
彼女は街路樹の影からその身を晒し、照れくさそうに笑う。
思えば、初めて会った夏休みと比べて随分自然な表情を浮かべている。
きっと、これだけは良い変化だ。
「名倉さんも眠れなかったのかね? 今夜は肌寒いからね」
「あっ、ううん、寒くはないんだけど……ちょっと、浅野くんの近くで寝るの、ドキドキしちゃって。えへ、眠れなかった。前は安心できてたんだけどな、変だね」
「……」
名倉さんの暴虐非道で理解不能な言動と、ステレオタイプな恋する乙女の様相は、まるで同一人物と思えない。
けれどもやはり、彼女の中では一つ理屈の通った行動なのだ。
「名倉さんは、最近……どうかな? 夏休みのときほど息苦しくは無さそうだけれど、最近はなんだか、君の気持ちがよく分からなくてね」
これは嘘だ。気持ちが分からないなんてことは無い。
彼女の要求はいつも簡単、理解されなくても良いから一緒にいたい、首を絞めたい、そんな感じ。
好きなんだ、俺のことが。
でも名倉さんがどんな俺を好いているのか分からないから、上手く反応できずに全部分からない振りをする。
全部分からない。
だからつい、もっと重大そうな話題で話を逸らしてしまう。目を逸らしてしまう。矛先を逸らしてしまうのだ。
「名倉さんが俺の母親を殺した理由、以前は俺と引き離されるのが嫌だから、なんて言っていたけれど……あれは、嘘かな?」
名倉さんは「あっ」と声を漏らしてから、小さく笑った。
「浅野くんはやっぱり何でも分かっちゃうんだ? 私でも良く分かってないのに」
名倉さんが正面から俺の瞳を覗くせいで、俺も覗かざるを得なくなる。
瞳を覗き合う。
心を覗こうとするように。
「私ね、たぶん怖かったの」
名倉さんの声は、記憶より少し大人びて聞こえた。
「文化祭の日に浅野くんに拒絶されちゃったって思ったら、全部どうでも良くなっちゃって。今まで考えてたこととか、頑張らなきゃって思い込んでたこととか、そういう全部捨てちゃった」
名倉さんは、ふっと息を吐く。
「それで、浅野くんにとって必要な私にならなきゃって……そしたらね、なんか、浅野くんのお母さんを殺せば良い気がしてきたの。だからたぶん、私の殺人動機を言葉にするなら、浅野くんの気を惹くため。きっと、そういうこと」
気が付くと青になっていた信号は、ふと赤に戻る。
名倉さんの背後に伸びる影も赤く、その瞳は溶けるように黒かった。
「それで今は、思った通り浅野くんとまた一緒に居られてる。きっと理解されないって知ってるけど、今この瞬間が私の幸せ……かな?」
酷い回答だった。しかし納得はできてしまった。
きっと彼女は、今まで人と仲直りをしたことが無いのだろう。或いは喧嘩をしたことすら。
そしてそれは俺も似たようなもので、だからここまで拗れてしまった。
「……何故、今になって正直に話そうと思ったんだ」
「んーとね」
名倉さんは首を傾げ、昏く妖しく微笑んだ。
信号機が青に変わる。歩き出した彼女は俺の手を引き言葉を吐いた。
「今の浅野くんなら、全部受け入れてくれる気がして」
「……前にも行ったが、俺は君を受け入れられない。今はただ、しょうがないから一緒に居るんだ」
名倉さんは俺の手を握ったまま、横断歩道の中心で振り返る。
「私にとっては同じことだよ?」
俺はしばらくその表情を見つめ、それから明滅する青信号に急かされ名倉さんの手を引く。
「俺にとっては、違う事なんだけれども」
「ふふふっ」
彼女は随分と楽しそうだ。
俺はそんな彼女が怖かった。
首を絞めてくるし、首を切って来るし、気を惹くために人を殺すし、理解不能だ。怖くて仕方がない。
それでもしょうがないからと一緒にいるのなら、なるほど名倉さんの言い分にも一理あるように思えた。
一緒にいるだけで、孤独は癒せるものだろうか?
「ねぇ、浅野くん?」
「何かな」
「平川さんに切られたのと、私に切られたの、どっちが気持ち良かったかな?」
「……どっちも痛いだけだったよ」
ため息交じりの返答は、しかし名倉さんにとって満足のいくものだったようで、彼女は楽しげに笑っている。
「浅野くんは悪い子だね。そうやって私も、あゆみちゃんも、平川さんも、綾加ちゃんも、お姉さんも、みーんな誑かしちゃうんだ?」
「俺は、そんなつもり無かったんだけどな……」
俺なりに必死に話を聞いて、話して、それで目の前の孤独な人が、過去の自分みたいな人が、楽になったら良いと思っていただけなんだ。
尤も、結果を見てみれば俺に反論の余地など無いのだが。
「浅野くんはそれで良いよ。それで女の子たちが勝手に殺し合って、一時だけ二人きりになって、それの繰り返し。たぶん浅野くんが人を……家族を嫌いなうちは、ずっとそうだよ?」
「そうだろうか?」
「うん、絶対。だって私、浅野くんのことしか考えないから、浅野くんに詳しいの。だから正しいの。きっと、浅野くんより、だよ?」
その濁った瞳は、名倉さんがすっかり取り返しのつかないところまで辿り着いたことを示していた。
何より、俺自身が名倉さんの言い分について半ば納得してしまっている。
「皆、人の話をちゃんと聞けば良いのにな」
呟いた言葉は、名倉さんに「そうだね」と肯定される。
俺は赤信号も無いのに、手持ち無沙汰で立ち尽してしまった。