天国、地獄、大地獄
知らない人間に死体を見られた。
これは不味い、明らかに致命的な状況だ。
無論、この女性が自殺してくれたら事態は比較的楽になるが、それはあまり気分の良いものではない。
では説得するか? だが「死体は見なかったことにしてください」なんて言ったところでどれだけ効果があるだろう?
「……」
一対三……仮にこの女性を殺そうとした場合、殺せはするだろう。
だが、駄目だ。あゆみを本当に取り返しのつかないところまで巻き込むことになる。
結局、理想としてはこのまま自殺してくれることに掛けるしかないのか?
いや、なんだよそれ……
じっと、女性を見つめる。
黒いワンピースと目元まで隠れる長い髪。
暗く陰鬱な印象、壊れた蝙蝠傘のようだと思った。
この女性はどんな理由で死のうとしているのだろう?
俺はこの状況でどう動くべきだ?
どうする? どうすれば良い?
……考えるだけ無駄だ。
情報が足りないから全部妄想と変わらない。
まずは、話すべきだ。
「……自殺しようとしていたんですか?」
俺の問いかけに女性はビクリと肩を震わせ、視線を落として爪を噛み始める。
「ぁ、ぁ、そ、しょ、そうですね~、はぃ、首吊りの方をぉ……」
小さく掠れた声だった。
こちらに怯えているのか、元来会話が苦手な質なのか、どうあれ話を聞くのには骨が折れそうだ。
「このまま自殺、続けるつもりですか?」
「ぁああのっ! と、止めても、む、むだっ……ぁ、ゃ、止めないか、自殺、止めない、です、よねぇ~……止めないですよねっ!」
女性の中で何かのスイッチが入ったのか、急に声が大きくなる。
「ど、どうせ! 死んで欲しいんですもんねっ! 私とか役に立たないしっ! ばっ、ばかでっ! ばかでさっ! 初対面の人にも最後までめいわっ、めいわくだって思われてっ! し、死にますよっ! 死にまーす!」
そう絶叫するや否や、女性は黒いワンピースを揺らし台の上に躍り出る。
勢いはそのまま、女性は縄に手を掛け首を差し入れた。
「待っ!」
俺が動き出したのと、女性が台を蹴飛ばしたのは同時だった。
ふわりと宙に浮く黒い塊、まるで壊れたカカシのように、一瞬ビンッと背筋が伸びた。
「っ!」
地面を蹴って前へ。二歩、三歩、衝突っ
重さは想定よりも少なく、女性はまるで人形のように抵抗なく後ろへ吹っ飛ぶ。
「ぅぎゅっ……」
突き飛ばした勢いのまま、もつれるように女性を押し倒す。
「……」
数秒、無言で見つめ合った。
顔が近い。彼女は驚いたように目を見開き、まじまじと俺の顔を見つめる。
女性は浅く呼吸をし、おずおずといった様子で小さく口を開いた。
「ぁ、あれ? ぁ、ぁ、浅野少年、ですか?」
まるでこちらを知っているかのような口ぶり。
何よりその呼び方と、前髪の下から覗く顔には見覚えがあった。
「……俺が小学生のとき、秘密基地で会ってたお姉さん?」
「そ、そうそうそうそう! ぉお覚えててくれたんですかっ! ぁ、ふっ、ぉ!」
言葉にならない気持ちを表現するように、お姉さんは俺のことを抱きしめる。
俺は場違いに胸の感触を気にしながら、小学生の頃の記憶を思い出していた。
お姉さんとの関係の始まりは、あまり良く覚えていない。
俺が秘密基地に一人でいると、高校生のお姉さんがたまにやって来る。それくらいの認識だった。
当時の俺から見たお姉さんは『ミステリアスぶりたい人』という印象で、俺はそんなお姉さんを痛々しい人だと思っていたけれど、決して嫌ってはいなかった。
お姉さんが秘密基地に来た日は二人で何となく雑談し、夕方になったら山の麓まで一緒に帰る。
俺はそういう時間が嫌いではなかったし、お姉さんの方も同じ気持ちだったから、二人とも秘密基地に逃げ込んでいたのだろう。
今から思えば、俺が飽きずに秘密基地へと通っていたのは、お姉さんが話を聞いてくれていたことも大きかった気がする。
存外、俺はお姉さんから多くの影響を受けていたらしい。
もっとお姉さんとの記憶を掘り起こそうとするが、何分昔のことで上手く思い出せなかった。
それでも、あの頃のお姉さんと今のお姉さんの違いは一目で分かる。
目の前の黒い女性は、痛々しいほど弱々しい。
強く抱きしめられている今、骨ばった体の感触がより一層哀しかった。
「ぇあ、で、で、でもでも、浅野少年は何でここにっ、て、ていうか、し、しあ、し、死体……」
……当然の疑問だ。
黒い女性が知り合いだと分かったからと言って、死体を見られた状況は何も変わっていない。
どうする、正直に話すか?
いや、名倉さんが殺したと話して、それでどうなる?
お姉さんは俺の知り合いかもしれないが、最後に会ったのは五年前。
その上、名倉さんとは初対面なのだ。
だが死体は見られている。
何かしらの説明は、しなければならない。
「俺は、その……母を殺したから埋めにきた。秘密基地の奥に縦穴があったから、埋めやすいと思って」
「ぁあっ、そ、そうなんですねっ! 浅野少年、ず、ずずずっとお母さんのこと嫌ってましたもんねっ」
ゾワリと背筋に怖気が走る。
瞳の奥が、黒く、黒く、ドロリとした汚泥の色に濁っていたのだ。
殺人の告白を前にしたその目は、どうしようもなく壊れた人間のそれだった。
「ででででもっ、こ、ここの防空壕っ、あ、危ないから二年前に埋め立てられちゃって……ここで行き止まりでぇっ。だ、だからっ、だからっ……縦穴、もう無い、です」
「えっ?」
俺は慌てて顔を上げ、防空壕の奥を見る。
あゆみも確認しようと思ったのか、暗闇は少し遅れてライトで照らされた。
その先にあったのは、無機質でのっぺりとしたコンクリートの壁だけ。
「嘘だろ……」
「し、市長さんが変わってからぁ、ぁ、ふ、ほ、防空壕はどこもこんな感じでっ、し、死体埋められるようなとこ、も、もももう残ってないと、お、思いましゅっ」
困った。完全に当てが外れた。
これでは死体を埋めようにも、一から穴を掘らなければならない。
だが、人間を埋められるほど深い穴を掘るには、木の根や堅い土など障害も多い。埋めるのにどれだけ時間が掛かるだろう? そもそも穴が掘れるまで、どこに死体を保管しておけば良い?
……駄目だ、問題が多すぎて上手く頭が回らない。
「だ、だだっ、大丈夫。浅野少年、お、お姉さんに任せて、く、くださぃ……」
「え?」
お姉さんは俺を抱きしめたまま、トントンと一定のリズムで背中を叩く。
それはまるで子供をあやすようで、弱々しく思えていたお姉さんの低い体温が、不思議と俺を落ち着かせた。
「ぁ、ぁあ穴をっ、ほ、掘り終わるまで、し、死体っ、家の冷凍庫に入れてて良い、です、から……ひ、一人暮らしですしっ、お、お友達も一緒に、家、いて、良いっ。あああとあと、お、お金はっ、た、貯めてて、し、仕送りも、た、沢山あるのでっ! だ、大丈夫っですっ……」
「え、良いの、お姉さん……というか、なんでそこまで」
お姉さんは記憶よりもぎこちなく、ニンマリと笑った。
「ど、どうせ死のうと、ぉお思ってた、のでっ。私、め、迷惑かけてばっかのグズですから……こ、これ運命かなって! 運命かなって! おも、思いまひてっ! ひひ、人の役に立つ、立ちっ……て、ていうか現役男子高校生とひとつ屋根の下とかムネアツすぎですっ、む、寧ろ泊まって、家に来てくださっ、み、みたいなぁっ、ぁ、おふ、ご、ごめっ、うそうそっ、うそでしゅ……」
……信用して良いのか?
正直、願ってもない提案だ。
俺たちの資金は名倉さんの貯金頼りで、その額はホテル暮らしをずっと続けられるほど多くない。
何より、死体の保管場所を確保できるのは大きかった。
死体がこれ以上腐らないということは、時間的余裕が生まれるということ。
無論、死体の処理をダラダラと先延ばしにするつもりはないが、より丁寧な隠蔽が行えるというのは、それだけ捕まる可能性を下げられるということだ。
一方、お姉さんに裏切られた場合、逮捕されるのは確実だろう。
このリスクは絶対に無視できない。
……どうだろう? さっきまで自殺しようとしていたお姉さんが、最期の一仕事として社会のために殺人犯を断罪しようとしている可能性はあるか?
分からない。俺は人の心を類推することが苦手だ。
相手の言ったことを、言った通りにしか受け取れない。
どうする? 今、決めなければ……
優しく抱きしめられたまま酷く近い距離から覗く深淵のような瞳は、しかしどこまでも底が見えない。
俺は、今この状況で安心してしまっていることこそが、どうしようもなく恐ろしかった。
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