ごめんね、いいよ、やっぱり良くない!
流石の俺も肝を冷やした。
こと名倉さんに関して大抵のことでは動じないつもりだったのだが、夜間に血塗れで遭遇するのは全くもって想定外である。
相変わらず、彼女はお行儀よくドアの向こうで立っていた。
どうしよう、居留守で良いだろうか?
でももし家に居ることがバレたら?
そもそも彼女の目的は何だ? あの血は誰の血だ?
思考はまとまらない。
しかしドアの向こうで笑顔を浮かべ続ける名倉さんのプレッシャーは大きく、俺は痺れを切らして口を開いた。
「……名倉さん?」
ひとまず、ドア越しの返答でお茶を濁す。
「あ、浅野くん! えと、開けてくれないかな、ドア」
「……」
彼女は表情こそ笑顔だが、アパートの電球に照らされて夜闇に浮かぶ姿は不気味の一言に尽きる。
俺は恐怖と緊張に駆られながらも、なんとか声を絞り出す。
「こんな遅い時間に、どうしたの」
「え、と……この前の事、謝りたくて」
この前の事と言えば、彼女が俺の首を切ったことだろう。
だが、俺はあのとき大した抵抗も意思表示もしなかった。
そんな俺を害したからと言って、名倉さんが悪いとは思えない。
そう、彼女が謝るようなことはないのだ。
ただ単純に、名倉さんと一緒に居ることが億劫になっただけ。
「別に良いよ、俺は大丈夫だから」
ドアは閉じたまま。
冷たい鉄のドアを隔てたこの距離感が、正しく俺と彼女の関係を示している。
「……ぅ」
息を呑む声が聞こえた。
覗き穴の向こうを見ると、名倉さんは今にも泣きだしそうな顔でドアに縋りついている。
「ごっ、ごめんね……もうしません! お願い、ねぇ! 許してよぉ……」
「違うよ、許すとか許さないとか、そういう話ではない。俺が単純に、人間関係に疲れたというだけの話だ」
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……」
まるで現実逃避の呪文のように、名倉さんは「ごめんなさい」を繰り返す。
意味がない、まるで意味がない言葉だ。
伝えるとか、聞くとか、そういう目的が抜け落ちた泣き声のような言葉。
しかし、その様子はどうにも哀れで、幼子のような名倉さんの姿に俺は毒気を抜かれてしまった。
ああ、慣れとは怖いものである。
今も彼女は血塗れなのに、俺はゆっくりとドアノブを回す。
「……っ!」
今度は俺が息を呑む番だった。
周囲に漂うのは生臭い血の臭い。
覗き穴からは見えなかった名倉さんの足元……そこには人間の死体が転がっていた。
「あ、浅野くんっ!」
ぎゅっと抱き着き、もう離さないとばかりに名倉さんは俺を包み込む。
体温、胸の柔らかさ、女の子の匂い、それらがまるで用を成さず、俺の脳内は氷水を掛けられたかのように麻痺している。
「だ、だれ、誰の、死体……?」
「えと、浅野くんのお母さんだよ」
名倉さんが喋ると、俺の顔に押し付けられた胸が少し揺れた。
俺はなんだか、自分が生きているのか自信が持てなかった。
「な、何で……殺したの?」
声は掠れていた。
人が殺されているという状態の衝撃は大きく、全身に力が入らない。
名倉さんに抱きしめられていなければ、今頃俺は床に崩れ落ちていたことだろう。
「えと、浅野くんの転校の話聞いて、それでね、引き離されちゃうと思ったら、殺しちゃってた……あっ、ご、ごめんね? 嫌だった、かな? やっぱり、人を殺すなんて正しくないもんね?」
不安げで、確認するような彼女の声音。
訳が分からない、何も分からない、何より名倉さんのこの反応が理解できない。
「と、取り合えず……上がりなよ」
「あっ、うん!」
名倉さんは随分と嬉しそうだった。
許されたと思ったのだろうか?
というか俺、なんで名倉さんを家に上げたんだ?
不味い、かなり頭が混乱しているようだ。
いっそ悪い夢みたいなこの状況が、本当に夢であって欲しいと願う。
駄目だ、現実逃避で現状は変えられない。
俺は自分の目を覚まさせるように、二度頬を叩く。
大して痛くもないが、とにかく気持ちを切り替えたかった。
「名倉さん、これから名倉さんはどうしたい?」
「え? あ、えっと、えへ、お、お泊りの道具持ってきてないけど、大丈夫かな……」
まるで見当はずれの返答。
床に座って照れたように微笑むその表情は随分可愛らしかったが、今はそれどころではない。
もしかすると名倉さんも、自分が人を殺したという状況を認めたくないのかもしれない。
「名倉さん、自首する気はある?」
「あ、あ、えっと、自首?」
「日本だと殺人はかなり重罪なんだけど、知ってるよね? 逮捕されたら懲役は相当長くなると思う」
「うん……」
名倉さんはしょんぼりと俯く。
殺人者なのだから、もう少し殺人者らしくしてくれないだろうか。
「一応言っておくと、俺の母は死んだ夫、つまり俺の父の遺産を食いつぶして今まで働かずに生きて来た。更に母は自分の両親から勘当されている。そして俺の知る限り母に友人は居ない」
「えと……うん?」
名倉さんは、よく分からないといった様子で首を傾げる。
「つまり、このまま死体を処分して、俺が通報しなければ殺人がバレるリスクはかなり低いってこと」
「え、じゃあ浅野くんと一緒にいられる?」
「いやまあ、それでも逮捕される可能性はあるけど、普通の殺人よりはかなりバレにくいと思う」
……というか、俺は何故名倉さんの殺人隠蔽に協力する前提で話を進めているんだ?
普通に考えれば名倉さんが大手を振って街を歩くのは社会にとってマイナス以外の何物でもない。更に、俺は実母を名倉さんに殺されている。
ただでさえ殺人隠蔽の補助なんてリスクばかりで得が無いのだから、協力するなんて以ての外だ。
「……」
でも俺、社会も実母もどちらかと言えば嫌いだ。
名倉さんが殺人者だからと言って義憤のようなものは湧いてこない。
となると俺の殺人隠蔽補助を阻むのはリスク。バレたらまあ、何らかの罪には問われるだろう。
名倉さんを見る。
俺の視線に気がついた彼女は、少し嬉しそうに微笑んだ。
ああ、どうして名倉さんは、こんなにも社会から外れているのだろう?
……いや、違うな。元々は社会に適合できていたのだ。
見よう見まねで、怒られないようにと自分を殺して、何とか今まで生きてきたのだ。
そんな隠されていた社会不適合な本心を、夏休みに俺が暴いた。
しかし、暴いたモノを俺は受け入れられなかった。そうして辿り着いた果てが殺人なのだ。
「……名倉さん」
「なあに?」
「まず、俺は何があっても君の行いを通報しない、そこは約束する。その上で俺の質問というか、言葉に返答して欲しい」
真っすぐに、俺は彼女の瞳を覗き込んだ。
「名倉さんが謝りたいって言ってたこと、何について謝りたかったの?」
「え、と……」
名倉さんは不安げに瞳を揺らし、ペタンと座り込んでいる。
「動けない浅野くんを、ハサミで切ったとき……なんだか興奮しちゃって。それで、浅野くんの首、切りたくて。嫌がってるの分かってたのに……気が付いてない振りして、切っちゃった、こと。その、謝りたかった」
たどたどしく紡がれる言葉。
名倉さんは目を合わせず、小さな声でそう言った。
……俺はこれを聞いてどうするんだろう。
でも、聞かなければ前に進めないと思った。
前に進めないって何だ。殺人者と進む先なんて破滅しか無いだろうが。
「……名倉さん」
俺は、もう、分からなかった。
話を聞くとか聞かないとか、優しいとか、理解できないとか、コミュニケーションとか、全部全部意味が分からない。
頭の中がごちゃごちゃで、どうしようもなく、どうしようもない。
俺はもう名倉さんのことは諦めて、あゆみさえ居れば良いはずだった。
でも今、俺は名倉さんと相対して、助けたかった。理解したかった。寄り添いたかった。
だって、じゃないと名倉さんは……人間社会であまりに孤独だ。
彼女が普通に人を頼れるなら良かった。
彼女が普通に人と馴染めるなら良かった。
彼女が普通に人と同じものを愛せるなら良かった。
名倉さんは、行動も、考え方も、倫理観も、全部異常な怪物だ。
そんな彼女の心を一時だけで癒せたのが夏休みの俺ならば、俺はやっぱり彼女との関係を切り捨てたくない。
俺は名倉さんの必死さを、分かってあげたかったのだ。
「……大丈夫、大変だけどさ、しょうがないから一緒に逃げよう」
果たして彼女は、笑顔で「うんっ」と返事をした。