ヒガンバナは毒あるから触ったら死にまーす!
俺は吸い寄せられるように屋上のフェンスへと近づいた。
空が蒼い。遠くにあるはずの白雲が、まるで翼のようだった。
秋めいた涼やかな気温、もう夏は終わったのだ。
或いは、とっくの昔に終わっていたのかもしれない。
フェンスに手を掛けると、カシャンと音が鳴った。
登るのは少し骨が折れそうだ。別に折れても構わないけれど。
「……先輩」
振り返る。
どうしてここに居るのか、綾加が立っていた。
「ああ、そういえば告白の返事がまだだったね」
そう呟くと、彼女は唇を噛みしめて俺を見る。
それがどういう感情なのか、俺にはよく分からなかった。
「ごめん、俺は綾加君と付き合えない」
「……」
さあ、これからどうなるのだろう?
告白などされたのは初めてだったから、当然それに返事をするのも初めてだった。
だから振られた人の相手をするのも、やっぱり初めてだ。
付き合えない理由なんかも、言った方が良かっただろうか?
しかしごちゃごちゃと考えたところで、場を上手く収める言葉など俺に思いつくはずもない。
故に俺は、大人しく綾加の反応を待った。
綾加は泣きそうな顔で……いや、涙を流しながら俺にツカツカと歩み寄る。
頬を張られるだろうか? だとしたら嫌だな。
これから死のうというのに、俺は世界に不寛容なままだった。
綾加は目の前で立ち止まり、赤く腫れた目で真っすぐに俺を見る。
「告白なんかどうでも良いっす!」
「え……」
俺が呆けている間にも、綾加は更に意表を突く。
「先輩、だから……そんな辛そうな顔、しないで」
「……」
そんな顔はしていない。
俺はきっと無表情だ。寧ろ辛そうなのは、綾加の方ではないか。
「……俺は別に、辛くないよ」
そう、辛くなんてない。
もう色々なことを諦めたから。
だから、俺は……
「ただちょっと、嫌なことがあっただけ」
そんな俺の言葉を聞いて、綾加はいっそう悲しそうに顔を歪める。
「先輩、辛いときは辛いって、言って欲しいっす……」
綾加の言葉を聞いた瞬間、気が付くと言葉を吐いていた。
「それを言って何になる」
「何にって、そんな……」
綾加が何かを言おうとした。
俺は止まらなかった。
「どうせ言っても、聞く気なんて無いだろ。人の話なんか聞かない方が楽なんだ。人の話なんかいくら聞いても、自分の話が聞いてもらえるようになるわけじゃない。だから皆、人の話は聞いたふりで、自分の話ばっかりベラベラと喋る。だったら——っ!」
綾加の顔を見て、自分が感情的になっていたことに気がついた。
言葉は空回り、急速に心へブレーキがかかる。
「——だったら、俺はもういい。何もせず、何も言わず、何も聞かないモノになる」
最後の俺の言葉は酷く掠れていた。
綾加に届いたのかは分からない。ただ、彼女は黙って俺を見ている。
酷く、悲しそうな顔で。
俺は断ち切るように振り返り、フェンスに手を掛ける。
まるで、囚われているみたいだ。
「……邪魔」
「えっ、小学生……?」
綾加は困惑と驚きの声を上げる。
いや、ここに居るはずがない。
ここは高校の屋上なのだから。
俺はゆっくりと振り返る。しかし彼女はそこに居た。
睨む双眸。綾加を押しのけ仁王立ち、酷く見慣れた女子小学生。
「言ったじゃん。皆じゃないやつの話聞いてやってるだけじゃ、誰もお前の話、聞かないって」
「……」
その言葉は、あゆみが一度俺に告げた警句。
雨の日の夜、化け蛸遊具の中で。
そういえばあの時のあゆみは今の俺と同じように、周囲の人間は自分の話など聞く気が無いと言っていた。
あのときの俺は、あゆみに何と言ったんだっけ?
「分かった? 私がお前の話聞いて、お前が私の話聞くしかないの。だから、私と二人だけで良いの!」
ずいっと顔を寄せ、あゆみは俺の襟首を掴む。
瞳を覗き込まれた。気圧される。
あゆみは全てと戦っているから、あゆみは諦めていないから、あゆみはいつも俺より強い。
それでも、俺は言わなければならないことがあった。
小学生相手にムキになってしまう出来事があった。
「あゆみ君、確かに以前君は俺にそう言った。その後、俺は今ある人間関係だけでも消えるまで続けようと色々やってみた。最終的には、君の言う通りだった。誰も俺の話を聞く気は無い」
あゆみは黙って俺の瞳を至近距離から見つめている。
「でも、それはあゆみ君も同じだろう? 俺が独りきりになろうとしたとき、君は独りになりたいという俺の意思を無視して窓ガラスを割ったじゃないか。聞いても無視するのなら、それは話を聞かないのとどう違う?」
あゆみが俺を睨む。
その視線はより鋭く細められた。
「お前、ほんとバカ、ダサ」
「どういう意味だ?」
問い返す俺に、あゆみは堂々と言い放つ。
「どうでも良いでしょ! そんなこと! 私がお前のこと好きで、お前が私のこと好きなんだから!」
「……っ!」
傍若無人。しかしその言葉に反論はできなかった。
「……はぁ」
後はもう、溜息しか漏れない。
「どうする、お前? まだ飛び降りたい? だったら別に、私も一緒に行ってやって良いけど」
「いや、いいよ」
別に心は晴れていない。
ただそれでも、死ぬほどではなくなった。
「あのさ、あゆみ」
「なに?」
「引っ越し、することになった」
「知ってる」
チラとあゆみを見る。
彼女はつまらなさそうに俺を見ていた。
「今日、振替え休日なのにお前のGPS学校だったから。会いに来たら校長室で話してるの聞こえた」
「……そっか」
何だか、急に寂しくなってきた。心の整理がついたからだろうか?
結局最後は平川とも名倉さんともあんな感じになってしまったが、それでも俺は文芸部での日々が楽しかったのかもしれない。
というか、楽しかったのだ。
今更、もう元には戻れないけれど。
平川とも、名倉さんとも、話したいとは思えないけれど。
それでも楽しかった今までは変わっていない。こんなことを考える程度の余裕が、今の俺にはあるらしかった。
+++++
「今日だけは特別にコーラ飲んでも良いからね。ほら、ドリンクバーのクーポンもあるから」
「ああ、ありがとうございます」
引っ越しの準備も忙しいというのに、何故俺は母とファミレスに来ているのだろう。
このままでは徹夜で荷造りコースも考える必要があるかもしれない。
「ほら晋作、メニューも千五百円までならどれ頼んでも良いからね?」
「……じゃあ、これで」
俺は九百円のラーメンを指差す。
しかし、その選択は母のお気に召さなかったようだ。
「あ、ラーメン? でもお母さん、こっちの焼き鮭定食の方が美味しいと思うな~」
「いやでも、焼き鮭定食は千五百円超えてますから」
俺が呟くと、予想通り母はニンマリとした笑みを浮かべた。
「良いよ、数百円くらいオーバーしても。晋作は子供なんだから遠慮しないで、ね?」
母親ごっこは随分と楽しめたようだ。
「お母さんはどれにしよっかな~」
母はメニューを見てわざとらしくどれにしようかと選び始める。
苦痛だった、単純に。
この人は俺を支配したいのだ。
この人との会話は自分の意見を言う形式でなく、この人の求める言葉を当てる形式で進んで行く。
だから俺は、母の声を聞くのも、母に言葉を伝えるのも、嫌いだった。
ああ、息苦しい。
「うーん、これにしようかな。晋作、お母さんとケーキ半分こする?」
「いや、大丈夫です」
「えー、美味しいのに。晋作甘いの好きでしょ? お母さん分かってるんだから、遠慮しないで」
「はい……」
母は店員に、自分のハンバーグと、二人分のドリンクバー、焼きサバ定食、ケーキを一つ注文した。
変えさせられた焼き鮭定食ですらないのか……まあ、良いさ。
「ねえ、晋作。本当にお母さん荷造り手伝わなくていいの?」
「いえ、もう大体終わっているので」
これは嘘だ。まだ荷造りは半分程度しか終わっていない。
しかし、俺はこれ以上この人と一緒に居る時間を引き延ばしたくなかった。
「本当は遠慮してるでしょ、お母さん晋作のこと何でも分かるよ? お母さんの帰りが遅くなるから悪いって思ってる。でも、遅くなったら晋作の家に泊って行けば大丈夫でしょ?」
「いや、本当にもう終わってるので」
俺はテーブルの木目をじっと見つめる。
早く帰りたかった。
「あ、もしかして、お母さんが前のこと怒ってると思ってる? もう、怒ってないから心配しないの。晋作も、あのときはちょっと気が動転してただけよね?」
何のことだよ。
俺の疑問が顔に出ていたのか、母は少し不快そうに顔を顰めた。
「覚えてない? ほら、先週にあんた、校長室から先に一人で帰っちゃったでしょ?」
「……」
なんで先に帰ったくらいで怒られなければならないんだ。
「ねえ晋作、こどもじゃないんだからお母さんの優しさ分かるよね? せっかくあんたの一人暮らしも認めてあげて、今度は心配してあんたのために家に戻って来て良いよって言ってあげてるの。あんたも学校で大変だったのは分かるけど、少しくらい感謝しても良いんじゃない?」
一人暮らしの手助けをしてくれたのは祖父母だし、家に戻りたいとも言っていない。
なんて口にしても意味がないことは、小学五年生のときに理解している。
全部全部『俺のため』なのだから。
「……すみません」
これから、俺はこの言葉を何度口にするのだろう?
+++++
「はぁ~……」
疲れた。ようやく家だ。疲労困憊だ。
俺はフラフラとベッドに倒れ込む。
明日から毎日母と顔を合わせなければならないと考えると、何もかもが億劫だった。
テテテ テテテ テテテテテテン
電話だ。
母かと思いうんざりしながら画面を見ると、あゆみからだった。
「もしもし」
『あ、晋作! もしもし!』
「どうしたのかね、こんな時間に」
『えー、まだ八時じゃん。別に遅くないし』
電話越しにあゆみの声を聞いていると、少し疲労が軽くなるのを感じた。
俺も随分と変わったものだ。
「それで、何か要件があるのかな?」
『ん~、別に無いけど? 晋作ザコだし、寂しいかなって思って電話してやった!』
「ふっ、そうかい。であれば荷造りを進めるから、その間、話し相手になってくれないかね?」
『えー、どうしよっかな~! 私、いそがしいもんなー!』
調子に乗ったあゆみの声に自然と笑みがこぼれる。
「……ん?」
『どーしたの?』
「いや、玄関のチャイムが鳴った。少し待っていてくれないか?」
『ん~』
俺はスマホの通話を繋げたまま玄関に向かう。
こんな時間に来客だろうか? まさか母が戻ってきたのかと考え、うんざりとした気分が広がる。
そうなったら、もう諦めよう。
俺はあゆみとの電話で幾分かマシになっていた気持ちを萎ませながら覗き穴に目を近づける。
「……っ!」
夜八時、覗き穴のレンズの向こう。
魚眼に歪んで映るのは、名倉さんの顔だった。
彼女は、赤い赤い鮮血で塗れていた。
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メスガキのバカな大人観察日記 第二部 完




