空を自由に飛びたいな
スマホの通知音で目が覚めた。
反射的に画面を見る。
『せんぱい 今どこですか??』
綾加からだ。
寝起きのおぼつかない頭で考える。会いに行くべきだろうか、と。
正直なところ面倒だった。いや、綾加に限った話ではない。
全部、全部面倒なのだ。気力が無いというのが正しい。
血を流しすぎたのだろうか?
だとすればレバーでも食べれば良いのか? だがあの味は嫌いだ。
パサパサしていて、肉のような見た目をしているのに肉の味がしない。
「……」
結局俺は、既読もつけず頭を枕に伏した。
無論、返信しなければという思考は脳裏に貼り付いている。だが遠い。遠いのだ。
綾加に返信するまでどれだけの工程がある?
スマホのパスを四桁入力し、ホーム画面をスクロールしてメッセージアプリを開く。いや、これは通知をタップすれば省略できるか。メッセージ画面を開いて返信内容を考える。今日会うのか、会わないのか。会うならいつどこで待ち合わせるのか、待ち合わせるなら外へ出る必要があるのか。会わないなら、なんと理由をつけて説明するか。
「あぁ……」
叫びたかった。が、漏れたのは小さな呻き声。
全部面倒臭かった。
未来、思考、心、気持ち、動き、明日、人間、全部全部面倒くさかった。
無気力、というやつだ。
テテテ テテテ テテテテテテン
電話……くそ。
電話に出んわ……。
くそ。
テテテ テテテ テテテテテテン
蹲った。祈るように、蹲ったのだ。
何に祈るのか、何が救いなのか、何が願いなのか、そんなことは知らないが。
テテテ テテ
「はい浅野です」
スッと電話に出た。半音高い声だ。
電話口で高い声を出すようになったのは何時からだろう?
母の影響だろうか? だとすれば些か嫌な気分だ。
『あっ! 先輩やっと出た! 大丈夫っすか!?』
行動を起こすときは、弾みをつけるんだ。
体を無理やり動かすのではなく、丁度仰向けの状態から足で勢いをつけて上体を起こすように、行動した方が自然な状況になるよう仕向ける。
『先輩! 先輩!? 聞こえてますかっ!?』
言葉が頭を通り過ぎていく。
電話に出たら会話できるかと思ったが、面倒臭さの方が上だった。
綾加が何を言っているのかは分かる。ただ、口を開き言葉を発するのが億劫だ。
『あのあと、空き教室で平川先輩を見つけてっ! 先輩の状況聞いて……先輩、先輩、無事っすか? 大丈夫っすか?』
心配されている。
面倒だ。
心配というものは善意だから、悪意を向けられたときと違い説明責任や丁寧な返答が求められる。
俺の人生で俺を一番傷つけたのは、母からの無理解で押し付けがましい善意や道徳だったのに。
『先輩、返事、して欲しいっす……』
「あぁ……」
馬鹿みたいな声で、ようやく俺は返事とも言えないような音を出した。
分かりやすい善意や道徳みたいなものを向けられるのは苦手だったが、それでも綾加を無視し続けるのは忍びない。いや、本当は忍びないなどとは思っていない。
けれども、まあ、常識的行動という奴だ。
『先輩! 今、どこっすか!?』
「……家」
『無事、なんすね? 良かった、良かった……』
電話越しの涙声は、随分と大袈裟に聞こえた。
俺はあまり、人の涙に共感できない。ということを今思い出した。
それから、あゆみや、名倉さんや、平川の涙には、共感までは行かずとも納得というか、少なくとも大袈裟だと感じたことは無かったことを思い出した。
それらの違いは何だろう? やはり涙の理由だろうか?
そんな取り留めのない思考が巡りそうになったところで、少し落ち着いた綾加に再び声を掛けられた。
『先輩、今から家、行きます。場所教えて欲しいっす』
「……」
人に会いたくない。
でも断るのは、面倒だ。善意を断るには理由の説明がいる。
でも、面倒だなんて本心は開示すべきでない。
そんな思考過程すら面倒くさい。
故に俺は、通話を終了した。
再び鳴り出したスマホを、部屋の隅に投げ捨てた。
テテテ テテテ テテテテテテン
布団を被り、少しくぐもって聞こえる呼び出し音を聞き流しながら、俺は気が付くと眠っていた。
+++++
「晋作君、合っていますか?」
「……はい、そうですね。合っています」
安心したように校長は表情を和らげた。
「待って下さい! 結果的に大事に至らなかったとはいえ、うちの息子は首を切られたんですよ!?」
「その件に関しましては完全に我々の監督不行き届きであり、誠に申し訳ないと思っております」
頭を下げる校長に対し、平川とその両親は終始神妙な面持ちをしている。
一方、久しぶりに会ったかと思えば『俺のため』に唾を飛ばして怒りを露わにしている母は、以前より随分老けているように見えた。
この人物に、俺は幼少の頃から大した世話をされた覚えがない。
それとも、五歳のころから料理洗濯買い物などを学ばせていただいたと考えれば、感謝の一つでもすべきなのだろうか?
どうあれ、俺の母に対する印象は、様々な娯楽を禁止し、時折親として俺の人生に口を挟み、正しさを規定する人間というものだ。
頭の上を、俺と平川の問題が、俺と平川抜きで進められていく。
しかし、学校の隠蔽体質によって、今回の件はどうやら大事にならなさそうだった。
まあ、大人たちの総意として受験に影響を出したくない、というのもあるのだろう。
名倉さんについては、話題にすら上がらないことに少し違和感を覚えるが、俺も平川も特に何も言わなかった。
「……では、そのような流れで。はい、この度は大変申し訳ありませんでした」
どうやら話が終わったらしい。
校長室の柔らかいソファから腰を上げると、倣うように母も立ち上がった。それが、なんだか気持ち悪かった。
こんなどうでも良い事にまで不快感を覚える俺は、高校生らしく反抗期の真っ只中ということなのだろうか?
校長室を後にし、誰もいない廊下を歩く。
休日の昼に学校に来ているというのは、何だか変な感覚だった。
後ろから聞こえる母の足音が邪魔だと思った。
「ねえ、晋作」
母が数年前と変わらない馴れ馴れしさで話しかけてくる。
「大丈夫だからね。お母さん、今、転校の手続き進めてるから。晋作は何も気にしなくて良いから」
「……」
「晋作は反抗期でお母さんのこと遠ざけてるけど、本当は大切に思ってること知ってるから。全部お母さんに任せて良いからね」
「……」
「独り暮らしも、もう満足したでしょ? 今度はちゃんと私たちのお家に近い学校だから、安心してね」
「……ありがとうございます。今日は疲れたので、また」
背後で声が聞こえた気がした。
俺は無視して最大限足早で歩いた。
気分が悪かった。
疲れているのは本当だった。
……時間切れだ。
束の間の自由も、結局のところ金銭面で親を頼っている以上は仮初でしかなかった。
俺が持っているものって、何なんだ?
気が付いたら全部、他人のものになっている。
奪われないための闘争は面倒臭い。だから諦め、奪われている。
自分が自分で居続けるには孤独が不可欠で、しかし孤独なんてものは他人から一番に奪われてしまう。
自分すら、自分すら、自分のものではない。
殺される前に、飼い殺される前に、自分を殺してみようか?
存外悪くない案に思えた。
疲れたのだ。しかし、死ねばこれ以上疲れることもないと思うと、足に少しだけ力が入った。
廊下を歩く。階段を上る。
その繰り返しで、窓から見える景色が少しずつ高くなっていく。空が近づいている。
名倉さんに貸したのは、よだかの星だったか?
俺は最期天に昇るよだかを逃走と読んだが、名倉さんは居場所を見つけたと読んだ。
どちらが正しいという話ではない。
しかし、今まさに天を目指している俺の行動は、逃走に他ならないだろう。
誰にも、誰にも奪われない場所へ。
屋上へと続くドアを開けた。
夏の終わりの秋空は快晴。なるほど、快い晴れである。