ヤドカリの生態
え、俺、犯されるの?
恐る恐る名倉さんの表情を伺う。
なるほど、彼女は陶酔したように顔を赤らめ、その瞳は蠱惑的に細められていた。
犯されるかもしれない……
「名倉さん、あの、これから何をするつもりなのか聞いても良いかな?」
「えっと……たくさん切って、舐めて、触りたいなって、思ってたよ? えへ、改めて言うと少し、恥ずかしい、ねぇ」
照れたように微笑む名倉さんの表情は随分と可愛らしい。しかし、その返答内容は看過できない程度に攻撃的であった。
「あー、名倉さん、できれば遠慮したいのだが……」
「え、えっ? え? な、なんで? なんで? 私だとダメ? ダメ、ダメだった?」
先程まで形作られていた笑顔は俺の言葉とともに崩れ、今にも泣き出しそうな表情へと変わる。
断られるとは考えていなかったのだろうか、「なんで」と繰り返し目に涙を浮かべる様子は酷く取り乱しているように見えた。
「落ち着きたまえ、駄目というわけではないさ。ただ、沢山切るというのは遠慮したいという話だよ。それ以外についてはまあ、要相談ということで」
「あ、そういうこと? 大丈夫だよ、死にそうなところは切らないから〜」
「や、そういう問題ではなく……」
「え?」
すっと、瞳を覗き込まれる。
まるで心までも覗こうとしているようだ。
俺は唾を飲み、名倉さんの瞳を見つめ返す。
「なんで。平川さんは良かったのに」
彼女の瞳孔は、底がない穴のように、ぽっかりと開ききっていた。
「私じゃ、ダメなの?」
「いや、というか、平川も駄目だったんだ。首を絞めるのと一緒だよ、俺を切ることは誰にも許していないんだ」
じっと、名倉さんは黙っている。
俺はよっぽど目を逸らしてしまいたかったけれど、視線が吸い込まれるように逸らせない。
「でも浅野くん、切っちゃダメって平川さんに言わなかったよ?」
「いや、それは……うーん」
確かに俺は、首を切るなと平川に伝えなかった。
それは差し迫った別の問題があったとか、伝えるまでもなく当然首を切るべきでないとか、そういうパッと思いつく言い訳を飛び越えた。そして俺自身を刺してくる。
伝えるべきなのだ。
首を切られるのが嫌だったのなら。正しく在りたいのなら。
少なくとも俺は、そういう風に生きてきた。
そして平川に首を切るなと伝えなかったのに、名倉さんにだけ首切りを禁止するのでは道理が通らない。
「名倉さん、平川が切ったのと同じだけ切って良い。ただし、頸動脈など命に関わる箇所を切ってはならない」
「え、そうじゃないよ?」
名倉さんはキョトンとした瞳で俺を覗く。
「なに?」
「平川さんは頭が良いから、きっと浅野くんが首切られるの嫌がってるって分かってたはずだよね?」
俺は滲む汗を拭えないまま、縛り付けられている現状を恐れた。
「嫌だって分かってても、抵抗できないのなら人の嫌がることをしても良いんだよね?」
「っ!」
「浅野くん。私なら平川さんと違って、縛らなくても、ハサミが無くても、いつでもあなたを抵抗できなくできるね?」
彼女は体重をかけるように、縛られた俺の膝に腰掛ける。
向かい合ったまま非対称に俺は動けず、名倉さんはそっと腕を回してきた。
ぎゅうっと、抱きしめられた。
鼓動が早まる。
このドキドキは恐怖だろうか恋だろうか、なんて場違いに馬鹿馬鹿しい思考が過った。
吊り橋効果など阿呆の戯言だ。
ただ、今の俺にとって重要なのは、俺の正しさが確信できないということ。
名倉さんの言った『そうじゃないよ』という言葉。
これは全くもって正しい。俺は誤魔化したのだ。
『切っちゃ駄目って平川さんに言わなかったよ』という指摘に対する正しい返答は、『平川と同じだけなら切って良い』ではない。
何故ならこの指摘は『お前は勝てない相手に良いようにされる状況を受け入れていただろう?』という確認なのだから。
俺は平川に首を切るなとは言わず、虚勢を張って解放せよと繰り返した。首を切られている状況を受け入れていた。あゆみに拉致監禁されたときも、俺はそうだった。
抵抗しなかった。
実のところ俺は受け入れていたのだ。
敗者はただ奪われるという『みんな』の論理を。諦めるとはつまり、そういうことだから。
故に名倉さんは、そのルールに則って俺から奪うと宣言した。俺がそれに抵抗の意を示すのなら、何故平川には抵抗の意を示さなかったのかと問われるだろう。
尤も、抵抗する気は存外に薄いのだが。
今まであまり自覚はして来なかったが、俺は俺の意思を無視する者にめっぽう弱いのだ。
思えば、あゆみが窓を割って押し入って来たのだって似たようなものである。
そう、あんまり関係が無いんだ。
俺が頑張ったとかサボったとか、嫌だとか嫌じゃないとか、他の人には関係ない。
別に人の居場所を作ったって、俺の居場所ができるわけじゃない。
人と分かり合うこと、俺が孤独じゃなくなること、話を聞くこと、話を聞いてもらうこと、全部、案外無関係なんだ。
全部簡単に壊れるし、他の人にとっては壊しても良いものだし。
壊す行為を非難することも、俺にはちょっとできないな。
こんなんじゃあ、どうせ話を聞いてくれる人なんていないと拗ねてみたくもなるよ。
腕を、つつとハサミで裂かれた。
どうでも良い。
なんだか中学の頃を思い出した。世界から孤立している感覚。
全てが億劫で、動く気力も湧かず精神だけこの場から避難させる。
もう一本、傷が増えた。名倉さんは興奮した様子で、随分と楽しそうだ。
面倒くさい。
結構、本トーナメントとか、カフェとか、色々と準備を頑張ってみたが、当日になってみればこの様である。
まあ、行事の類は今まで散々サボってきたんだ。
今回ちょっと頑張ったからといって、参加するのも、しないのも、変わらないさ。
痛いな……。
どうでも良いけど。
「名倉さん、楽しいかい?」
「うんっ!」
満面の笑みだ。皮膚に刃が潜る。
痛いけど、なんだか他人ごとみたいに思えた。
「……それは良かった」
「え?」
ズキズキすんなぁ、腕。
「あっ……」
血ってどれくらい減ったらヤバいんだっけ?
「うそ、ご、ごめんなさい」
あー、怠い。
「違う、見て、こっち見て! ごめんねっ!」
はぁ。
「浅野くん! ねえ! ねえ! 間違っちゃった! ごめん、ごめんなさいっ!」
「んー、良いって。どうせ動けないし」
「違うっ! 違うのぉっ!」
気が付くと名倉さんは泣きそうな声で俺に縋りついていた。
何故か、俺も目の奥に泣きそうな感覚があったけれど、感情は凪いでいた。
「どしたの、名倉さん」
「うー、うっー、こっち、見て……許して……」
「えぇ? いや、別に許すも何もないって。怒ってないよ~……」
疲れた。はぁ、溜息。はぁ。
名倉さんは泣いている。理由はよく分からない。
俺も泣いているのかと思ったけれど、視界が涙で滲んでいるようなことはなく、目元が濡れている感覚も無かった。
なんか、体調悪いな。
「平川、どうやら君の思い通りかもしれん。なんか色々なことが面倒でさ、頑張るのは止める。怠いから帰る。ガムテープ解いてくれ」
名倉さんが俺に夢中になっている間、拘束から抜け出していた平川に声をかける。
しかし、平川が反応するまでもなく、焦ったように名倉さんは俺の拘束を解き始めた。
「ありがと、じゃあ俺、もう帰るわ」
足に力が入らない。それすら面倒でフラフラと夢遊病者のように教室から出た。
二人は追って来なかった。腕の深い傷を除いて、血は全て止まっていた。
衆目は俺を物珍しそうに眼で追うが、血と足取りを見てゾンビの仮装か何かだと信じ込む。
なるほど、文化祭という日は存外殺人に向いているのかもしれない。
そのままフラフラしていると、気が付けば俺は家の前にいた。
一瞬、あゆみがいるかと思ったが、どうやら今日は来ていないらしい。
ちょうど良かった。人にはあまり会いたくない。
「ふぅー」
ベッドに倒れ、深く息を吐く。
全身に重力が加わり、体が沈み込む。
肺から空気が抜けきった。閉じたカーテンから差す陽の光が、天井を薄明るい白に染める。
ぼーっと、光の動きを眺めた。
ようやく涙が、一筋だけ垂れた。
やっぱり、独りで良いかもな。