恋の狂気はオーバーヒート
「私、ね……」
平川はハサミの刃で少しずつ首の傷を伸ばしながら話し始める。
「お父さんとお母さんが、毎日ケンカしてて、もう疲れちゃった」
彼女はどこか子供のような口調で、俺のことさえ見えていないようだった。
俺は縛られているということを抜きにしても動く気になれず、黙って皮膚を裂かれる痛みに耐えている。
「毎日毎日、馬鹿みたいにしょうもないことで怒ってるの。それが本当に嫌で嫌で、自分の部屋でイヤホンをしていても、音楽より怒鳴り声の方が良く聞こえて。本に集中して周囲の音が聞こえなくなるまでの間、ずっと、怖い」
傷はジワリジワリと伸びていき、痛みが酷くなる。
ふと、俺はその刃が頸動脈へ向かっていることに気がついた。
「愛し合って結婚したはずなのに、なんでケンカするのかな? もう、お互いに好きじゃないのかな? 私も将来、あんな風になるのかな? お父さんのことも、お母さんのことも、キライになっちゃったみたいに、好きな人をキライになっていくのかな……」
平川の言葉は、どうにも具合が悪かった。
俺は彼女と友達になれない。けれども彼女の文芸部という居場所を壊したのは、間違いなく俺なのだ。
勿論、全て俺が悪いとは思わない。けれども何とかしたいと思う程度には、確かな罪悪感があった。
俺に何かができるとは、到底思えないけれど。
「私も、ずっとイライラして、おんなじ。お父さんもお母さんも怒ってて、私も怒ってて、自分を抑えようとしてるのに、ふとした瞬間頭がおかしくなりそうになるの」
つぅ、と、刃、が、頸動脈のすぐ近くで止まった。
「ねえ浅野……」
平川は、すぅっと、息を吸い込む。
「私のね、私のね、友達になれないのなら、駄目なままでいてよ。何もできないままでいてよ。私がいないと生きていけなくなってよ……前みたいに、私だけ、私だけしか、いない世界にいてよ」
それはつまり、夏休みの前のように戻れということだ。
全てを諦めて、一人で生きていた頃。確かにあのとき、俺が持っている人との繋がりは文芸部だけだった。
そして今、あゆみとも名倉さんとも綾加とも関係を切って、平川と同じく孤独でいることを求められている。
一切の能動性を捨て去れと、そう言われている。
刃があと数センチ動いたら、俺の頸動脈は裂けるだろう。
これは脅迫だ。
俺は頷く以外の選択肢を提示されていない。
なるほど、平川は良く俺のことを理解しているようだった。
これは俺にとって、平川と友達になるよりも遥かに選びやすい選択肢だ。
俺は今まで、様々な人間関係を切り捨ててきたから。
既に親とは距離を置き、もう数年連絡は取っていない。文芸部の関係だって、自分の心情を優先して一度は切ろうとした。綾加との関係は運動会で終わるものだと思っていたし、名倉さんとの関係だって最初は夏休みと共に終わったものと考えていた。あゆみが窓ガラスを割らなければ、彼女と今のように関わり続けることも無かっただろう。
元来、俺は孤独になろうとする質なのだ。
そこに脅迫まで加われば、俺が平川の要求に対して首を縦に振ることは決してあり得ない話ではない。
もしかすると『浅野晋作殺害計画』とは、夏休み後の新しい俺を殺すための計画だったのだろうか?
「平川、俺は……」
意外にも、言葉が出てこない。
刃は今にも俺の頸動脈を切り裂こうとしているのに、どうにも彼女たちとの関係を捨て去ると口にできない。
それは責任とか、過去の自分とか、そういうことが理由ではなかった。
あゆみにキスされる直前、全ての人間関係が面倒で捨て去りたいと思っていたことは確かな事実だ。
「……」
つつ、と刃が少し頸動脈に近づく。
急かされている。しかし、何かが引っかかっていた。
あゆみに「二人しかいない場所へ行きたい」と言われたとき、俺もそう思ったんだ。
そう、違う、俺が面倒だったのは全ての人間関係などではなく、複数の人間関係だ。
俺はあゆみも名倉さんも綾加も平川も芥屋先輩も、普通に好きだ。
けれどあゆみと名倉さんは仲が悪いし、平川は周囲を邪魔だと思っている。別に全員が仲良くする必要は無いけれど、目の前の人に俺以外との人間関係があるのは面倒だった。
ああ、やはり俺と平川は似ている。
動機は違うかもしれないけれど、求めているものは同じ、2人だけの世界だった。
けれど、じゃあ、平川の言う通りにするのも悪くないのだろうか?
面倒なことや嫌なことから逃げ出したいというのは、きっとどうしようもない俺の本質だ。
しかし、それでも俺には平川に返事をする前にするべきことがある。
「平川、俺はまず綾加く──」
言い終わらないうちに、再び刃が頸動脈へと近づいた。
感覚的に、もうあと1センチでも刃がズレたら俺は死ぬだろう。
平川は口さえ開かない。
確かな死の気配に緊張で呼吸が荒くなる。汗のせいだろうか? 体が異様に冷たく感じた。
どうやら許される答えは「はい」の一言だけらしかった。
腹が立った。
体はブルブル震えて、どうしようもなく縮こまっている。
客観的に見れば俺は酷く怯えているように見えるだろう。
それでも、俺は強い不快感を腹に溜め、怒りが黒煙を上げて燻るのを感じていた。
言葉を発さずに人の意見を押しつぶそうとするその態度、圧倒的優位を確信した人間のやり方だ。
俺は、そういう手合いが心底嫌いなのである。
話を聞く気が無い奴と会話する方法など、存在しないのだから。
「……なんだ、君は。不愉快だな。話す気も、話を聞く気も無いのなら、この時間は無駄だ。もし返答を考え込んで黙っているのだと言うのならいくらでも待つが、そうでないならさっさと拘束を解いてくれ。俺は本トーナメントの手伝いをしなければならないし、綾加くんに伝えなければならないこともある」
刃がジワリと動いたのを無視して、言いたいことを言いきった。
刃はそれ以上動かない。
代わりに動いたのは、平川の目と眉と唇だった。それらは歪み、お前が心底理解不能だと伝えてくる。
「アンタ状況分かってんの?」
「分かっているとも! 分かった上で、俺はこんな茶番に付き合っていられないと言っている。人の言葉を聞く気が無いのに、自分は何も言う気が無い。そんな奴は、孤独なんて癒せない。残念だが、しかし、そうなのだ。君だって分かっているだろうが!」
俺の大きな声に、平川は一瞬怯えの表情を見せる。その様子に少しばかり罪悪感を刺激されたが、束の間、彼女は声を張り上げ応戦してくる。
「うっさい! 思ったこと口にしたって、理解されないで怒らせるだけなら! 言わない方がマシよ!」
平川はハサミを一層強く握りしめ、勢いをつけて振りかぶる。
反射的に目を瞑った。
それは俺の首めがけて一直線に振り下ろされた。
いや、痛みは来ない。
振り下ろされていないのか?
恐る恐る目を開けると、名倉さんが平川の手を掴んでいた。
名倉さんは酷く場違いに、はにかんだ笑みを浮かべている。
「ごめんね、助けるのが遅くなっちゃって。ちょっと前から見てたんだけどね、なんか、浅野くんが平川さんに首筋を切られてるの見てると、ドキドキしちゃって、えへへ」
「あぁ、えと、いや、そうか?」
突然現れた名倉さんに、俺は驚きを隠せない。
そんな俺の様子が可笑しかったのか、名倉さんは「ふふ……」と柔らかく笑った。
そのまま彼女は平川の肩を掴んで椅子に座らせる。
平川は不服そうに名倉さんを睨みつけるが、力の差は歴然で抵抗する素振りは無い。
「よいしょ……」
「ちょっと、なに、何してるのよ!」
名倉さんがガムテープで平川を椅子に縛りつけ始める。
平川は慌てたように体をバタバタと動かすが、力と体格の差は大きい。名倉さんは黙々と平川を縛り付けている。
俺は、ハサミを突き付けられていたとき以上の焦燥と恐怖を感じていた。
平川の行動原理は何となく理解できるが、名倉さんについてはまるで分からない。
「な、名倉さん、一度平川を放したらどうかな?」
「え、何で?」
名倉さんは首を傾げる。その間も平川を縛る手は止まらない。
「いや、ハサミだけ取り上げたら十分じゃあないかなと思ってね」
「でも逃げるかもしれないよ? 喧嘩のときは二人のことを先生に説明して怒らせるのが正しいよね? だから平川さんが浅野くんにしたみたいに縛ってみたんだけど……」
ゾッとした。それと同時に、以前名倉さんから聞いた話を思い出す。
あれは夏休みの逃避行をする前日の夜、名倉さんの幼少期に起こった、母と蝶々についての話だ。
名倉さんは、母から叩かれる理由を理解しようと、自分で蝶々を叩いてみたことがあると言った。そして、潰れひしゃげた蝶々が美しかったから、母も同じ美的感覚を持って自分を叩くのだと、幼少期の彼女はそう理解したらしい。
名倉さんの抱える本質的な悩みというのは、その攻撃衝動ではなく、一般常識を理解する能力の欠如だったのかもしれない。
そんなことに思い至り、俺は名倉さんの「人に理解されることは、もう諦めた」という言葉を思い出した。
どうにも遣る瀬無い感情が広がる。なんだか、こんな気持ちばっかりだ。
「名倉さん、平川を解いてやってくれ。あと、できれば先生にはこのことを言わないで欲しい」
「え? ふふ、ダメだよ。先生に怒られるのが嫌なのは分かるけど、喧嘩したならちゃんと先生に言わないと……あぁ、えっと、でもそっか。浅野くん、やっぱり私、先生には言わないね」
ふと、何かに思い至ったかのように、名倉さんはあっさりと意見を翻す。その様子を見て、俺は安堵より先に不気味さを覚えた。
「……それは有り難いけれど、心変わりした理由を聞いても良いかな?」
「あ、えへ、だって、浅野くんが嫌なんでしょ? じゃあ、先生には言わないよ〜」
そこまで変なことを言っているわけではない。けれども酷い違和感があった。
何より、名倉さんは一向に俺や平川の拘束を解こうとしない。
スッと、名倉さんはしゃがみ込んで俺の首元を見つめる。
「血、出てる」
彼女は吸い寄せられるように、俺の首元へ顔を近づけた。
じっと、見つめているようだった。長い間、息がかかるような近さで。
時が止まったかのような沈黙。
それを破ったのは平川だ。
「……さっさと解きなさいよ」
しかし、名倉さんは動くことなく傷口を見つめ続ける。
「ちょっと!」
聞こえているのかいないのか、やはり名倉さんは静止していた。
その様子は、自室で時計を見つめていた彼女を思い出させるが、夏休みとは何かが確実に違っている。
そうして平川が三度目の声を上げようとしたとき、ようやく名倉さんは口を開いた。
「私、嫌だったんです」
「……は?」
「毎日、部活で平川さんが浅野くんと話しているのを見るのが嫌でした」
「知らないわよ、そんなの」
平川は不快そうに顔をしかめる。
一方、名倉さんは変わらず一定のトーンで言葉を続けた。
「平川さんが、浅野くんをバカにするのが嫌でした。私の知らない去年の浅野くんを、平川さんが知っているのが嫌でした。平川さんと浅野くんの間にある、私よりも長い時間を感じる瞬間が嫌でした」
平川は何も言わない。
それでも名倉さんは変わらず話し続ける。
「……浅野くんが、誰にも優しいんだって分かっていくのが嫌でした」
つつ……と、名倉さんは傷口をなぞる。
その指先は俺の血で赤色に濡れていた。
「これが、嫉妬なんだと思います。私に嫉妬なんて感情があるとは思ってもみませんでした。なんだか浅野くんと一緒にいると、自分が普通の女の子みたいに思えてきます」
ねろりと、彼女は自分の指についた血を舐める。
「ずっと、見せつけられているみたいで嫌でした。私は理解なんて求めることすらできないのに、平川さんばっかり理解してもらえて、ずるいと思いました。浅野くんとの思い出が少しずつ盗られていくみたいで、嫌でした」
執拗に、名倉さんは自分の指を舐った。
その様子は酷く艶めかしく、気が付くと俺は唾液に塗れた彼女の指を注視している。
この白い指が、いつも俺の首筋を撫でていたのだ。
「前に階段の下で浅野くんの首を撫でていたとき、平川さんに見られちゃいましたよね。あのとき、ようやく少しだけ取り返せた気がしました」
ほっそりとした指を広げ、俺の首に両腕が絡みつく。
その白い肌は不自然な熱を持って俺の顔を包み込んだ。
「だから見ていて欲しいです。今から、浅野くんを犯しますから」
彼女の指が、首筋の傷を逆撫でた。




