氷の凶器は完全犯罪
「え、あぁ……なるほど」
俺は綾加からの突然の告白に酷く狼狽えていた。
いや、なるほどって何だ。
あまり告白するような雰囲気ではなかったようにも思えるのだが。いや、雰囲気などという大層なものを察するほど立派な感受性もしていないけれど。
「えーと、それは告白と認識しても?」
「っ……! そ、そうっす!」
「……」
告白だった。
しかし、どうしても俺は勘ぐってしまう。何故なら今日は『浅野晋作殺害計画』の当日である。
妙な動きは、疑いたくなくとも抑えがたい疑念を湧き上がらせる。
だが、これで綾加が本当にただ告白しただけなのだとすれば、俺の疑念は酷く彼女を傷つける結果を生みかねない。
まずは真摯に返答する。それがベストだろう。
「……」
綾加の真剣な表情を見ていると、告白されたのだという実感が体に浸透した。
俺は綾加のことが好きだろうか? 少なくとも嫌いではない。ただ、苦手な面も多い。
ふと、以前平川から言われたことを思いだした。綾加と名倉さんが俺のことを好いているという話だ。
あの時は有り得ないと一蹴したが、結果は今この状況である。
もしかすると、名倉さんも俺のことが好きなのだろうか?
なんて考えてみると、自分のことながら勘違い野郎の妄言としか思えない。
あまり詳しくはないけれど、女子というのは体長が長いとか、足が速いとか、そういう漁師が魚を評価するような基準で男を見ているのではなかったか?
その点、漁師的評価基準で見てみれば俺の評定は酷いものだろう。正しく雑魚、思えばあゆみも俺のことをそう評していた。
うーん、どうしよう。
中学の頃、1週間で付き合っただの別れただの言っていた連中を冷めた目で見つめていた俺だが、いざ当事者となると何が正解か分からない。
いや、正直に言ってしまえば人並みに彼女というものへの憧れはあるのだ。とはいえ俺には俺なりにこれまで築いてきたプライドというものがある。
以前から好きだったというわけでもない後輩の告白に、二つ返事で飛びつくというのはいかがなものだろう?
とはいえ、他に好きな人がいるというわけでもない。だから断るための明確な理由も無かった。
いやでも、なんか、あゆみにキスされたこととか、そういうのに対するケジメ的なものが必要なのか?
分からない。何も分からない。俺はどうするのが正解なのだ?
したいようにすれば良いと世の中の人は言うのだろうが、俺にだって描く未来は様々あるわけで、それを考えるとしたいようにするというのも一つに決まるわけではない。
ああ、だんだんと綾加がジレてきているのを感じる。
というか本トーナメントの呼び込みもしないと。
どうしよう? あぁ、何だか綾加が可愛く見えてきた。
いや、もとから可愛かったのかもしれない。分からない。
何だこれ? 青春というやつか? 我ながら贅沢な悩みだ。虫唾が走る。
そもそもこんな捻くれた人間のどこが良いと言うのか? 面倒くさくて独善的、どうしようもないチャバネゴキブリ。
いや、流石の俺もそこまで酷い人間ではない。
先程から馬鹿みたいな思考が巡り、まるで考えが進まない。逃げたい。
しかし、まあ、兎にも角にも何かを言わねば。
「えー、あ~、綾加君」
「……はいっ!」
期待と不安に満ちた目。俺は当事者の筈だが、その貫くように真っ直ぐな瞳がどうにも他人事のようだった。
そして、そう思った瞬間に俺ではダメだと悟る。
「ちょっとっ!」
突然、ぐんっと体が後ろに引かれる。
「あの、あっ……えっ?」
振り向くとそこには平川がいた。
彼女は俺の手を掴み、あっと言う間に綾香の前から俺を連れ去る。
「平川っ、どうしたと言うんだ? 俺は綾香君について重要な用事が残っている。君の用件が、かなりの急用でもない限り、この手を離してくれるとありがたいのだが」
「急用よっ! 世界で一番大事!」
「分かった」
世界で一番大事なのであれば、致し方あるまい。
俺は平川に手を引かれながら、スマホで綾香君にメッセージを送る。
『突然連れ去られてすまない。放課後にゆっくり話そう』
綾香はいつも、即既読・即返信なのだが、今日は既読がつくばかりで返信が来ることはなかった。
「……」
段々と人混みから離れて行く。
妙に静かな廊下で俺たちの足音だけが響いていた。
薄暗い。文化祭の喧騒から隔絶された第二校舎三階の外れ。いつか訪れた屋上前だ。
「いや……」
「何よ」
「すまない、やはり俺は世界で一番大事な用事より、順番というものを大事にしたい」
「え、あっ、待っ!」
俺は平川の手を振りほどき、後方に駆け出す。
綾香が告白したのだ。告白というものがどれだけ重大なものか俺は良く分かっていないけれども、それは小説を読む限りにおいて世界の一大事とも釣り合う出来事の筈だった。
いや、というかそんな事はどうでも良い。
俺は告白に対する返事の内容にかかわらず──
鈍い痛みが後頭部に走った。
+++++
「……ん」
「おはよう、浅野。気分はどう?」
「……」
意識の覚醒と共に目を開くと、視界に映る平川の顔。
後頭部には鈍い痛み。手足は椅子に縛り付けられているようで身動きは取れないが、猿ぐつわは噛まされていなかった。
どうやらここは空き教室らしく、遠くから聞こえてくる文化祭の放送から察するに、気を失ってからそれほど時間は経過していない。
「気分は悪くない、後頭部が少し痛む程度だ。ところで平川、よければ拘束を解いてくれないか?」
「……嫌に冷静ね。アンタの拘束を解くつもりは無いわ」
「理由は?」
「アンタを殺すから」
ヒヤリと冷たい言葉が走った。
現実味が無いと言いたいところだが、殺害計画を知っていた俺としては、そこそこに覚悟が決まっていた流れでもある。
何より彼女の手でクルクルと回る白いハサミが、「殺す」という言葉を現実のものにしていた。
「まさか『浅野晋作殺害計画』の犯人が、平川だったとは。思ってもみなかったよ」
俺がそう言うと、平川はつまらなさそうに「そう」とだけ呟く。
「何故俺を殺したい?」
「知らないわよ。でもまあ、ムカつくから、とか」
「そうか……」
そんな理由で殺されてたまるか、と憤りたいところではあるが、動機についてはもう少し掘り下げるべきだろう。不可解な理由で殺されかけるのには慣れている。
嫌な慣れだ。
「まあ、俺としても心当たりがないわけではない。夏休みの文芸部を辞めるかどうかという話、それが切っ掛けだろう?」
「違うわよ、バカ」
静かにそう告げる平川は無表情だ。
だというのに、彼女は今にも泣き出しそうに見えて、どこか小さな子供のようだった。
「そんなことじゃない、そんなことじゃない」
「であれば言葉で説明してくれ、何を言いたいのか、何を考えているのか、皆目見当もつかない」
平川は今にも泣きだしそうな無表情を崩し、キッと俺を睨みつける。
「……っなんで分からないのよ」
瞬間、痛みと共に俺の頭がクラクラ揺れる。
少し遅れて頬を打たれたのだと気が付いた。
痛みに涙が滲んでも、椅子に縛られた俺はどうすることもできない。
「名倉さんとも、綾香さんとも、あゆみさんとも、アンタ随分仲が良さそうじゃない! 少し前まで文芸部しかなかった癖に! 私しかいなかった癖に!」
俺を真っ直ぐに睨みつけ、平川は静かな教室で独り吠える。
「要らなくなったら捨てるの? 今までの時間は何だったの? 私ってアンタの何? アンタにとって人って何? アンタは私がいないとダメだったのに、私がいたからちゃんとできてたのに、何で私がいない間に変わっちゃうのよ!?」
「平川……」
彼女が繰り返し言っていた『私がいないと駄目』という言葉。
つまり彼女は、俺にそう在って欲しかったのだろう。
椅子に縛られたまま俺は平川を正視する。
夏休みの監禁初日を思い出した。きっと俺は、以前より幾分か冷静だ。
平川は興奮しているようだった。或いは半分くらい、興奮を演じている。
どうあれ今の彼女は、らしくない。それが端的な俺の感想だ。
「俺と平川が友達ではないと言ったのは、君自身だろう? であれば俺と君との関係は、知人であり部員であり同級生である筈だ」
「そんなこと聞いてない!」
カッと、机にハサミが突き立てられる。
冷静沈着を気取っていても、俺の体は確かな恐怖に震えていた。
名倉さんが纏う鈍く温かい死の気配に比べ、平川のそれは鋭く、熱い。
冷たすぎる氷が皮膚を焼くように、彼女の激情の裏に昏いものが垣間見える。
「ていうかさ、アンタ、全部私が悪いみたいに言うけど、だったら何? 私が友達だって言ったらアンタ友達になるわけ?」
一歩、二歩と平川は俺に近づいて来る。
「私覚えてるわよ? 綾加さんや名倉さんに思わせぶりな態度取ってる癖に、これは恋愛じゃない~とか言って、バカじゃないの? そうやって周囲のことばっかで、かと思えば突然自己完結して部活辞めるなんて言い出して!」
烈火のように捲し立てる平川は、目と目を合わせ、息が掛かるほどに近づき、最後に強く言い放った。
「何考えてるのか分からないのは、アンタの方じゃない!」
その言葉を最後に、教室はシンと静まり返る。
彼女の荒い呼吸音が静寂を際立たせ、俺の視界いっぱいに瞳がある。きっと平川から見ても、視界は俺の瞳が占めているのだろう。
なんだか、時間が止まったようだった。
平川から随分と色々なことを言われた筈なのに、俺は「瞳というものは綺麗なのだな」と場違いなことを考えている。
教室の壁かけ時計に気が付いた。分針がカチリと動く。
本トーナメントの時間だった。
「……君が本当に言いたい事は何だ?」
平川は目を瞑って深く息を吐き出すと、再び俺の瞳を覗き込む。
「さっき、全部言ったじゃない」
その声音は酷く静かだ。
「違うよ、平川。君は大切なことを何も言っていない。俺が誰と仲が良いとか、俺が何を考えているとか、そういうことは全部、平川の言いたいことではない」
「……アンタに何が分かるのよ」
「分かるさ、君だって分かっている筈だ。そもそもらしく無いんだ、いつ人が来るかも分からない教室の椅子に俺を縛り付けて、ハサミで殺害? 文化祭なんて腐るほど人が集まる日の真昼間に? なあ、計画があまりにもお粗末だよ」
平川は「違う」とボソリ呟いた。
しかし、視線は俺の瞳でなく足元へ落ちる。
「君は馬鹿じゃないし、嫌に善良でお節介な人間だ。何より俺と似て人を頼るのが苦手だ。そういう奴が暴走するのは決まって家庭の事情。この状況はあゆみの真似事か? 助けて欲しいんだろう? 俺にはずっとそう見えている」
「……っぅ」
平川は項垂れ、縛られた俺の体にもたれかかる。
耳元で、彼女は言葉をふっと漏らした。
「だったら、助けなさいよ……全部、分かってるなら、なんとかしてよ」
俺は平川の抱える家庭の問題を知らない。
しかし彼女が抱える病理は分かっていた。それは孤独だ。
彼女は友達が欲しいと何度も口にしていた。しかし同時に、誰も友達と認めない。
恐らく彼女の『友達』に対するハードルが高すぎるのだろう。そして、そういった感覚は俺にも覚えがあった。
心の大切な部分を言い当てられないと、何だか全てが嘘のように思えて、だから誰も友達だなんて呼べる気がしないのだ。
俺は、きっと平川の友達になれるだろう。あゆみが俺にしたように、俺が彼女の心に踏み込めば、根本的な寂しさを暴き出せる確信がある。
しかし、俺は踏み込めない。
至極単純な話、動機が無かった。
俺は平川と友達になりたいとは思えないのだ。
平川は優しくて面倒見が良くて頭が良い。探さなくても魅力が見つかるほどに良い奴だ。
今でこそ俺を椅子に縛りつけてハサミなんかを持ち出しているけれど、そんな行動が、らしくないと思えるほどに常識もある。
少々性格が面倒臭く嫌味な部分もあるが、友達になれないほど嫌な奴ではない。
でも、友達にはなれない。
今以上の関係にはなれない。
今くらいの関係が、丁度いい。
或いは一般的な尺度で言うところの『友達』という意味に於いて、俺たちは既に友達なのかもしれない。
けれども面倒臭い性格の俺たちにとって、やはり今の関係は友達じゃないのだ。
「なあ、平川」
寄せられた耳元に、俺はそっと返事を送る。
「きっと平川の願う方法で、俺は君を助けないよ」
平川は俺にもたれかかったままだった。
一向に顔を上げないものだから、彼女の表情は分からない。
平川は「……そ」とだけ呟いた。
それから、長い長い沈黙があった。
秒針の音、遠い文化祭の喧騒、それらよりも大きく静かな平川の呼吸音。
スルリと溶けるように、彼女は俺の膝上に腰掛けた。
「私、べつに、そんなに賢くないの。子供よ、子供……」
俺の首にハサミが押し当てられていた。
つう、と血が、首筋を伝ったのだと、産毛の逆立つ感覚で分かった。
鼓動のリズムで疼く傷口。
痛み。
不思議と恐怖は薄く、良く分からない陶酔があった。
俺が殺されることで、彼女の何かが変わってくれるのだろうか? と、そんなことを考えていた。




