カラスといっしょに帰りましょ
「ほら、さっさと手を動かす!」
平川がとんでもない打鍵音を掻き鳴らしながら、周囲に声をかける。今日の平川の作業速度は目を見張るものがあったが、それでも紹介文の進みはあまり良くない。
本来紹介文の担当でなかった名倉さんまで動員している現状でも、デッドラインの八時までに紹介文が仕上がるかどうかは微妙なところだ。
そんなギリギリの状況に加え、いつもは帰宅している時間に学校で祭りの準備をしている非日常感も相まって、俺達のテンションは無意識に上がっていく。
「平川、今やってる作業終わったから次の十冊分俺がやる」
「分かったわ、データ更新しとく。芥屋先輩、手書きデータの清書進捗どうですか?」
「ん〜? まあ終わるんじゃないかなあ。というか、今終わったよん」
「じゃあ追加の手書きデータ上がるまで少し掛かりそうなので、紹介文の用紙コピーお願いします」
先輩の報告を聞き、平川はすぐに次のタスクを振る。恐らく彼女の脳内では、タスク消化の段取りが一部の隙もなく組み上がっているのだろう。
しかし、芥屋先輩はうにゃうにゃと机に突っ伏して文句を垂れる。
「え〜、ちょっと休憩したいよ〜」
「芥屋先輩、さっきも休憩してたじゃないですか」
「バレてた! 後輩ちゃんパソコンから顔上げてなかったのに何で分かるの?」
芥屋先輩はフラフラと平川に近づいて肩を揉みはじめる。
「こら、じゃれつかないでさっさと仕事してください」
「え〜、じゃあ二人でコピー行こうよ。後輩ちゃんも私と楽しくお話ししながらコピー機眺めようよ〜」
「私はまだ作業ありますから!」
平川はそう言って、まとわりついてくる芥屋先輩を押しのける。それでも先輩がぐにゃぐにゃと平川にちょっかいを掛けているのは、休憩を挟まず作業を続けている平川を心配してのことだろう。
俺としても、平川がぶっ通しで作業を進めている現状は致命的なミスに繋がりそうで心配だ。
「なあ平川、さっきの芥屋先輩の進捗で少し余裕もできたのだし、休憩も兼ねてコピーに行ってきても良いんじゃないかね?」
目が合った。
平川は酷く冷たい目で俺を見る。
「なにそれ、私が邪魔ってこと?」
「え、いやいや、そんなことは言っていない」
この一言が悪手だった。尤も、この状況では最善手さえ悪手だったようにも思えるが。
平川は過剰に声を荒げる。
「そりゃあアンタはそこの女と乳繰り合うのに夢中かもしれませんけどね、部活中くらい我慢できないわけ? ここは文芸部であってしょうもない色恋にうつつを抜かした連中の溜り場じゃないの!」
「……いつ俺が色恋にうつつを抜かしたというんだ? 言い掛かりは止してくれ」
俺が苛立ち混じりに返答すると、平川は今にも飛びかかりそうな勢いで反論する。
「はあっ?! じゃあ昨日階段の下でその女と何してたのよ!」
昨日、階段の下、何をしていたか?
記憶を辿れば首筋を撫でる名倉さんの手の感触が蘇った。
……これは俺が悪いかもしれない。
「いや、確かに。すまん、全面的に謝罪する。だが、最初の言葉に他意は無かった。俺は、ただ本当に休憩を勧めたかっただけだ」
素直に謝罪すると、平川はギリリと奥歯を噛み締め舌打ちする。彼女はそのまましばらく俺を睨みつけていたが、やがて視線を逸らし何も言わずに部室から出て行った。慌てた様子で芥屋先輩がその後を追いかける。
俺達には、打鍵音の消えた部室だけが残されていた。
+++++
私は苛立ちが収まらない頭を振って、あてもなく校舎を歩き回った。
ガヤガヤと騒々しい。なんだか全てが嫌いになってしまいそうだった。
浅野が悪い。
昨日から何度もフラッシュバックする浅野の情事。
名倉さんがアイツの首筋を撫でる指はしなやかで、それが酷く気持ち悪かった。
浅野がコピーを取りに行くよう言ったのも、私を追い出そうとして言ったわけではないと本当は分かっている。
それでも怒りは収まらない。頭の中が悪意で埋まって、指の先まで荒っぽくなる。
でも浅野が悪い。
後から芥屋先輩がついて来ていることは分かっていた。一人になりたかった。
ふと目についたトイレに入る。
鏡の中に映る泣き出しそうな歪んだ顔が、喧嘩ばかりの両親と重なった。
……嫌い。
鏡から目を背け、逃げ出すようにトイレを後にする。そのまま、走った。
外は日が落ち始めて茜色、肌寒い秋の空気が肺を満たす。
喉が痛くなるまで走って、走って、走っていたら、気がつくと図書室の前に居た。
体育祭の時期、綾加さんと浅野がイチャついていた場所だ。
「はぁ……」
遣る瀬無い気持ちで胸が詰まり、私は廊下にしゃがみ込む。
どうしてこうなってしまったのだろう?
何時から間違えてしまったのだろう?
私はどうしてこうなのだろう?
中学の頃、生きづらそうなほどに真面目だった浅野が変わってしまったのは、きっと私のせいだった。
私が一言でも浅野のことを見ている伝えていたら、きっとそれだけで浅野は浅野のままでいられた筈。でも私は何も言えなくて……だからダメダメになった浅野のことを受け入れてあげたのに。
気がつけば、全部無駄。
私が浅野を最初に見つけたのに。
私だけが本当の浅野を知っているのに。
浅野が私を頼ってくれれば、私達は友達になれたんだ。
誰にも悪意を向けないアイツが、全部自分で抱え込むアイツだけが、喧嘩なんか絶対にしない私の本当の友達になる筈だった。
無意識に握り込んだ拳がギリギリと痛む。爪が食い込んでいた。私はもっと強く爪を立てた。
……痛い。
「後輩ちゃん」
「……」
芥屋先輩が、私の隣に座り込む。
「手、血が出てる。先輩の可愛い絆創膏を貼ってあげよう」
先輩は優しく私の手を取って、ピンク色の絆創膏を貼る。手に夕日が差して赤く色づいていることが、妙に印象深く思えた。
優しいのだと思う。ただ、私の心は夕日を反射した赤にしか反応せず、無感動に先輩の施した処置を眺めた。
浅野が来てくれたのなら良かったのに。
失礼だ。でも、本音というものは大抵の場合失礼なものだと思う。
「ほら、バッチリ。そのうちに痛くなくなるよ」
「……ありがとうございます」
その声が先輩に聞こえたのか自信が無かった。私は静かなまま、自分の膝に顔を埋めた。
「大丈夫かい、後輩ちゃん?」
「……」
黙ったままの私に、先輩は優しく話し続ける。
「疲れちゃったかな? 後輩ちゃんはとっても頑張っていたからね、ゆっくり休もう」
それでも私が黙っていたら、先輩も何も言わなくなった。体の横に先輩の体温を感じる。
少し寒かったから、その熱に自然と緊張が和らぐのを感じた。
「……先輩、私ってどうすれば良いですか?」
「うーん、後輩ちゃんはどうなりたいの?」
「私は友達が欲しいだけです」
私がそう言うと、芥屋先輩は困ったように笑った。
「私や後輩くんは、友達とは違うのかい? それに綾加後輩だって、随分慕ってくれてるように見えるけど」
「そうじゃないです」
どうせ先輩には伝わらない。分かってはいたけれど、今はどうにも分かってほしい気分で、だからつい言葉が漏れた。
「昔、学校のアンケートで、本当の友達は居ますかって質問があったんです。芥屋先輩は、本当の友達って居ますか?」
「え?」
「先輩から見て、私も浅野も本当の友達じゃなくて、あくまで後輩ですよね? 周りにいる人達って、みんな本当の友達かと聞かれると違うような気がしませんか?」
先輩はしばらく考え込むように俯くと、それから小さく息を吐いて私を見た。
「だから、後輩ちゃんも私も、文芸に惹かれたんじゃないのかな?」
私はその言葉に納得できない。よく聞く言葉だけど、だからこそ、おためごかしにしか聞こえない。
「本は孤独を埋めてくれません。少しの間、忘れさせてくれるだけです。だから人間失格は、何度も心中しようとするんです」
「けれども後輩ちゃん、私の好きなラノベのヒロインはいつも前を向いてるぜ?」
……やっぱり私の言葉は伝わらない。
これはいっそ絶望だった。何度も繰り返す絶望。父も母も自分のことばっかりで、どいつもこいつも自分のことばっかりで、私と話している筈なのに、私の言葉は届かない。
でも、これだって浅野なら分かってくれた筈なんだ。
でも、アイツは私から離れて行ってしまった。
でも、期待がいつまで経っても捨てられない。
私にはアイツしかいないし、アイツにだって私しかいなかった筈なのに。
「……芥屋先輩、ありがとうございます。少し落ち着きました。そろそろコピーを取りに行きましょうか」
「あ、うん、良かったよ。それと、あんまり気負いすぎないようにね」
私の嘘を先輩は分かって、それでも踏み込んでくることは無かった。
「はい、大丈夫です」
色濃ゆくなった夕日の赤が、明日の事を想起させる。
明日、明日の、浅野晋作殺害計画。
夕焼け小焼けの曲が鳴る。
やけに澄んだカラスの声が、祭りの気配に反響した。