お熱で学校やすみ
落ち着け、冷静になれ。
ルーズリーフの切れ端一つでは、まだ決定打に掛ける。
「すまない、ちょっとトイレに行ってくる」
「分かった、ここで待ってるから」
俺は「ああ」と短く返事をしてトイレの個室に駆け込む。
そこで改めて、平川の作った買い物メモを取り出した。
こういうときは筆跡を確認するのがセオリーだ。
特に同じ文字をいくつかピックアップして、書く時の癖なんかを見るのが良さそうだが。
浅野晋作殺害計画の紙と、買い物メモを見比べる。
何度も何度も、筆跡から紙質まで確認できるところは全て確認した。
「…………」
だが分からん。素人には無理だ。
似ている個所もあれば違う個所もある、平川の文字が特徴的でないのも相まって確信に至らない。
やはり動機や日々の会話から犯人を割り出すしかないのだろうか?
どうにも骨が折れる作業である。
俺は重い足取りと心持ちでトイレから戻った。
「すまない、少し遅くなった」
「おかえり、じゃあ次の店に……って、アンタ大丈夫? 顔色悪いわよ?」
「ん? そうかね、特に問題はないのだが」
確かに最近はあまりよく眠れなかったが、体調に影響は感じない。
とはいえ平川の目から疲労して見えるということは、俺の想像以上にあのメモがストレスになっているのだろうか?
「……まあ、恐らく問題はないさ。次の買い物に行こう」
「ダメ、帰るわよ。アンタ文化祭準備が始まってから学校でも働き通しじゃない。文芸喫茶の準備だけじゃなくて、稲塚さんの企画も手伝ってるでしょ? その上にクラスの方でも委員長に頼まれて書類整理とか色々とやってるって聞いたわよ?」
「……良く見ているものだね」
「別にそんなんじゃない! というか、どうしちゃったのよ実際。今までのアンタだったら自分の仕事だけ適当にこなすくらいだったじゃない」
平川は胡乱気な目で俺を見つめる。
「ああ、確かにそうだったな。あまり自覚していなかった。けれども実際にやってみると大して仕事量が多いわけでもない。あまり気にしてくれなくても結構だ」
「そうやってまた隠れて色々やるつもり? そんなんじゃ誰も見てくれないわよ」
「流石にそこは生徒会の件で学んでいるとも。だがね、もう評価とか、見てもらうとか、そういうのは諦めたから良いんだ」
平川は酷く傷ついたような顔で俺を見た。
彼女が何故そんな顔をするのかは分からない。
俺が黙ったままでいると、彼女はゆっくりと口を開いた。
「じゃあ、何で頑張ってるのよ……」
別に頑張ってなどいない。と、言いたいところだが、少しは頑張っているかもしれない。
俺は何故、頑張っているのか?
体育祭では怠惰の限りを尽くしたというのに随分な変化だ。
これは平川から変に思われても仕方があるまい。
「まあ、今回はたまたまさ。最低限こなさなければならない仕事が多かっただけ。それに、もし俺と同じ状況に平川がいたとしたら、恐らく君は俺よりも頑張っている筈だよ」
「……でも、私はもっと、ちゃんと周囲を頼るわ」
「本当か? 俺には平川が人を頼っているというより、芥屋先輩が目端を利かせて作業を回収しているように見えるがね」
「うるさいわね! それでも私はちゃんと頼ってるわよ! でもアンタは芥屋先輩が寄って来ても、減っても減らなくても変わらないような仕事しか渡さないじゃない!」
「いやまあ、否定はできない」
頷く他あるまい、事実だ。
すると平川は何故か余計にヒートアップし、俺は粛々と俯き続けた。
+++++
風邪をひいた。
どうやら昨日の平川の見立ては正しかったらしい。
誠に遺憾である。が、立って歩くのはどうにも厳しい。
俺は学校に今日は休むと連絡し、布団に寝転がりながら文化祭の作業を進めた。
ワーカーホリックのようで少々癪だが、俺は元来真面目な性分なのだ。
……いやしかし、今の自分を真面目な性分で片づけるのには違和感がある。
昨日平川から指摘されたことは事実だ。
俺は生徒会の一件以来、誰にも認められずに何かを頑張る意味が分からず適当に過ごしてきた。
では今の作業に意味はあるのか?
綾加の作業を俺が手伝う理由は無いし、文芸喫茶の準備だって一年のときの文化祭のように最低限やれば良い。
クラスの業務を頼んできた委員長だって、別に大した面識があったわけではない。
せいぜい、体育祭のときに副団長をやっていた委員長に対して、色々なことをサボった引け目があるくらいか。
どれもこれも、今までの俺だったら頑張るには至らない、無視できていたような小さな理由だ。
けれども俺は、なんとなく、少しだけ、今は頑張りたいと思っていた。
「……はぁ、ぐ、げほっ」
気分が悪い。少し目を瞑る。
すると、急速に意識が落ちていくのを感じる。
そうして気が付けば、俺は眠ってしまっていた。
次に目を覚ましたのは、台所から響く水音を耳にしたときだ。
俺はのそりと上体を起こし、音の元を確認する。
「あ、晋作起きた。体調悪いんでしょ? かんびょーしてやるから寝てて良いよ」
……そう言えば合鍵を渡していたのだった。
「申し出は有り難いが、風邪がうつると良くない。帰りたまえ」
「うるさ、晋作がうつさないように注意してよ。それで、もしうつしたら次は晋作が私をかんびょーね」
あゆみは不遜に笑ってそう言うと、べちゃりと濡れタオルを額に押し付けてくる。
看病にしては妙に古典的だし、ちゃんと絞れていないので水がダラダラ垂れてくる。
「引き出しに冷感シートがある。それを出してきてくれると有り難い」
「えー、濡れタオルの方が面白いのに」
あゆみは良く分からない文句を言いながらも素直に冷感シートを取ってくる。
そしてそのまま、俺の額にペタリと貼り付けた。しかし、額が濡れていたせいですぐに剥がれ落ちてしまう。
ペタリ。
また剥がれる。
あゆみは楽しそうだった。
そうやって遊んで満足したのか、彼女は俺の服で水を拭ってからシートを貼り付ける。
「ね、晋作お昼食べた? 食べてても良いけど、お腹いっぱいでも、おかゆ食べてね。私が買ってきたやつだから」
「ああ、食べていなかったから助かる。ところで、俺の体調のことは誰から聞いたのかね」
「ん~、平川さん」
あゆみはガサガサと袋を漁りながら答える。
そういえば二人は知り合いだった。
「よく話すのか」
「そんなには話さない~」
あゆみは電子レンジを鼻歌交じりにイジっている。
随分ご機嫌な様子だ、何か良い事でもあったのだろうか?
俺は、少し冷えてきた肩を毛布に潜り込ませる。
改めて天井を見てみると、少しその白さが気になった。
俺のワンルームは壁も天井も白いスタンダードなタイプだけれど、何故だか今はその無機質さが寒々しく思えたのだ。
「…………」
寝返りを打つ。
そのとき、玄関でチャイムが鳴った。
チラと視線をやると、あゆみは様子を窺うように無言で玄関のドアを見つめている。
どうやら客に応対する気は無いらしい。
俺は重い体を起こし玄関に向かう。
のぞき穴を覗くと、そこには名倉さんが立っていた。
ドキリとする。とはいえまだ文化祭には遠い。
俺はゆっくりと息を吸い込み、ドアを開けた。
「やあ、いらっしゃい。あゆみ君も来ているよ」
「あ、そ、そうなんだ」
名倉さんは俺の背後にいるあゆみに視線を向け、小さく会釈をする。
俺が振り返ると、あゆみは不機嫌そうに口を尖らせていた。
レンジがチンと鳴る。
「えと、その、ゼリーとか、買ってきたから」
「ああ、ありがとう。まあとりあえず上がってくれたまえ」
こうして名倉姉妹に見つめられながら、俺はおかゆを食べる運びとなった。
……気まずい。




