思春期の恥晒し、後悔しないのなら無敵
手枷足枷に拘束されたまま、俺は床で何度も体勢を変えていた。
寝苦しい。
女子小学生が俺に用意したのは、薄っぺらいタオルケットとフロアマットの上に置かれたクッションだけだった。
ベッドの上からは、すぅすぅと穏やかな寝息が聞こえてくる。
恨めしい。手枷に硬く結びつけられた紐を引っ張る。しかし、その先に繋がったベッドはビクともしなかった。
これでは一階に降りてソファで寝ることもかなわない。
まあ、いいか。
俺は今、畜生の如き待遇に心中で反発する気力すら残っていない。
そして、そんな事実がまた遣る瀬無さを加速させた。
『こっちが疲れて戦うの止めても、馬鹿なやつらは勝った気になるじゃん』
女子小学生の言葉が、暗く蒸し暑い夜を更に寝苦しくさせる。
俺だって昔は同じように考えていたさ。
自らの正義を貫くには戦闘も辞さないと、諦めて良識があるように振舞う大人は負け犬だと。
だが、正義を掲げた戦闘は不毛である。
俺はそんな不毛さに屈してしまったのだ。
ヘラヘラとしながら心中で文句を垂れてきた今までの人生が、なんと格好悪いことか!
きっと彼女から見れば、俺こそが正しく大衆そのものである。
正義の味方や、信念の悪役が好きだった筈なのに。
大衆になんか、絶対になりたくなかった筈なのに。
しかし、俺はもう戦えない。
諦めてしまった今までの十七年間が、俺を形作っているのは確かな事実だったから。
……格好良いよな。
俺は、自分の信念に基づいて行動することにすら恥を覚える大人になってしまったよ。
寝返りを打ち、クッションに顔を埋める。
なんだか酷く苦しかった。
俺はもう、戻れない。大人になってしまったから。
大人の俺にできることは、真摯に大人というものを観察させてあげることだろう。
諦めきった情けない大人を見せて、彼女が少しでも格好いい大人になれるように。
……なんて潔く諦めきることすらできないから、社会では高校生を子供と呼ぶのだろう。
俺は再び、寝返りを打った。
+++++
『新しい朝が来た 希望の朝だ』
ラジオ体操の歌、その冒頭が俺の頭を過った。
女子小学生に揺り起こされ、視界に入った朝日が妙に白々しく見えたからだ。
監禁生活二日目の始まりである。
「ねえ、私、ラジオ体操行くから。お前は名倉花香の部屋に入ってて」
「……昨日会話を失敗してしまって気まずいから、できればそれは避けたい」
女子小学生はフンと鼻を鳴らし、俺の要求は却下された。
大人しく体を起こし、俺は部屋から出た女子小学生に続く。
手枷足枷をしたまま寝ていたからだろう、一歩進む度に体が軋むようだった。
「ほら、入って」
ノックも無しに、女子小学生は名倉さんの部屋を開ける。
「いや……まだ八時半だし、名倉さんにも何かと準備があるのではないか?」
「さっさと入って。ゴネてもラジオ体操に連れてってなんてやんないから」
「いや、君と一緒にラジオ体操がしたかった訳ではなく……」
俺のぼやきは黙殺された。
抵抗を早々に諦めて、俺は名倉さんの部屋へと入る。
「…………っ!?」
ヒヤリとした。名倉さんの様子が、ハッキリと異様だったから。
彼女は平日と同じように制服を纏い、ベッドの上で微動だにせず正座をしている。
彼女は無表情だった。機械のように無機質で、無感情。その視線は淡々と動き続ける時計に注がれている。まるで、時間の流れしか見るべきものが無いとでも言うように。
その姿は、学校での朗らかな様子と余りにも異なっていた。
「あ……えっと、お、おはよう、名倉さん」
恐る恐る声をかける。
瞬間、色のなかった名倉さんの表情は、スイッチで切り替えたかのように笑顔へと変化する。
「あ、おはよう浅野くん! 今日も良い天気だね!」
学校で聞くのと全く同じ、明るくて穏やかなトーン。
たった一瞬、それだけで空気が弛緩した。その事実が、ただひたすらに不気味である。
昨日の会話や、学校で周囲に見せていた今までの彼女は、全て虚構だったのだ。
作り物の表情、作り物の言葉。一部の隙もなく閉じられた心に、上から塗りつけた笑顔の鉄仮面。
こんな薄ら寒い状況で会話を続けることなど、俺にはできない。
助けを求めるように後ろを見るが、既に女子小学生は去った後だった。
……畜生。
きっと名倉さんは全てを諦めきった人間なのだろう。
他人に何を言っても意味がないと分かっているから、自分の本心を押し隠して笑顔で『正解』の言葉を吐いている。それが一番、円滑だから。
到底我慢ならなかった。
他ならぬ俺が、当たり障りのない言葉と表情で誤魔化せる人間だと侮られ、諦められている!
「……名倉さん、止めてくれ。俺に、俺を、そんな、そんな目で見ないでくれ」
『諦め』それは俺がいつも周囲に向けていた感情で、だからそれがどこまでも侮蔑的なものだと知っている。
「え?」
名倉さんの表情が、少しだけ不安げに崩れた。
「なんか、こう……分かるんだ、全部、諦めて、それで殻に閉じこもれば何とかなる。いや、何とかならないけど、何とかならないことに慣れられる。でも、でも……」
急に語り出した俺は、きっと彼女から見ると滑稽なことだろう。
それでも俺が今話しているのは、昨晩に格好悪い自分を自覚してしまったから。
俺は今更『かっこ悪い大人』じゃなくなることなんてできないけれど、それでもあんな目で見られるような存在ではない。
……そう、信じたかったのだ。
「そうやっていると腹が立つだろ? 苛立つだろ? ずっと文句を心中で吐いて、全部が嫌にならないか? 馬鹿の顔見て正解が分かるから、自分の本心が間違いだって分かるんだ。でも、他の奴らとひっくるめて、俺まで馬鹿だと思うのは止めてくれ」
名倉さんの表情には困惑の色が浮かんでいる。
それだけで今の言葉が間違いだと分かった。羞恥心が湧き上がる。
けれど、それでも、俺は最後まで言葉を吐き出すつもりだ。
今、俺は自分に酔っている。
「表面上は馬鹿みたいにヘラヘラ生きてきた。でも、俺はずっと心の中で文句を言い続けたんだ。社会の正しくなさを考え続けた。だから、名倉さんと俺の考えていることは違っても、その本心の一端くらいは共有できるかもしれない。言ってくれたら、気持ちが分かるかもしれないから……」
彼女の表情を見た。そして彼女が、取り繕った『正解』の言葉を準備し終えたのだと悟る。
それでも、俺は……!
「……噓みたいな言葉で、俺をやりすごさないでくれ」
果たして、名倉さんは少し照れくさそうな笑顔を作った。
「うん……ごめんね? 私、人に本心を話すのが怖くて……でも、浅野くんになら、ちょっと、話せるかも?」
俺は言葉を、飲み込んだ。
「……分かった。ごめん」
そして、ただ謝った。
彼女が腹の内を晒す気など無いと理解できたから。
「……ところで、いつも朝食はどうしているのかな? 俺はどうにも朝食というものが受け付けなくてね、あまり量が多いと吐いてしまうんだ」
俺は諦めて、当たり障りのない言葉を提示。
名倉さんはおずおずと口を開く。
「わ、私が作ってるよ? だから要望があれば、遠慮せずに言ってね。あ、あと、その、しゃべりかた……あんまり仰々しくしなくても大丈夫だよ?」
「いや、生憎とこちらの方が慣れているのでね」
嘘である。
だが、即答した。この口調はある種の演技で、鎧なのだから。
どうやら人に本心を開示する気が無いのは、俺の方も同じだったようである。
先程偉そうに吐いた言葉が一周回って突き刺さる。
あんな言葉に絆されて人がパッと心を開けるのなら、自己同一性などという単語は生まれない。
酷く浅はかなことを言ったと自覚する。羞恥心で死にそうだ。
けれでも、後悔はしていない。
何故ならあれは、確かに俺の本心だったから。
高校二年の夏休み、自分以外を社会と定義してきた俺は、ようやく他人と遭遇できた気がした。