腐った牛乳
「……なかなか良い案が出ないわね」
黒板に羅列された文化祭出し物の案を見て、平川が呟く。
俺もその意見には同意だった。
まさか五人もいて、出た案がお化け屋敷と部誌制作とトーナメントとは。
「そもそもトーナメントって何よ」
平川が苛立たしげに言う。
「……? さっきも説明したじゃないっすか。なんか、とにかくトーナメントっす。とりあえず盛り上がって楽しいことと言えば、トーナメントじゃないすか?」
「じゃないすか? って言われても、そもそもトーナメントって形式の話でしょ。今の議題は、稲塚さんが言う所の『なんかとにかく』の部分を決めたいの」
「じゃあマラソントーナメントが良いっす!」
「一試合が長すぎるわよ!」
そのツッコミも違うと思うが……。
平川と綾加のすれ違ったやり取りが続く。
馴染んでいるのはきっと良い事だが、このままでは会議が平行線だ。
どうしたものかと黒板を眺める。
すると、名倉さんがおずおずと手を上げた。
「あの、部誌制作はなんでダメなのかな?」
「あ~……」
俺と平川は同時に苦い顔を浮かべた。
そうしてチラリと視線を交わし、平川が説明を引き受ける。
「その、去年かなり頑張って部誌を作ったのよ。けど、一部も持ち帰ってもらえなかったの。出来に自信があった分、余計にキツくてね。だから、できればもうやりたくないわ」
更に言えば、パラパラと部誌を見て俺の小説に目を止めた女生徒が「暗……」と呟いた後に部誌を置いて去ったことも、部誌制作をやりたくない理由の一つだ。
尤も、この件に関しては平川も芥屋先輩も休憩中だったので知らないわけだが。
果たして、名倉さんは俺達の様子を見ると、困ったように笑った。
「そ、そっか、じゃあお化け屋敷が良い? かな?」
しかし彼女の表情は暗に、お化け屋敷も違うだろうと言っている。
そしてそれには、俺と平川も同意見だ。
だが同時に、アレも嫌、コレも嫌、では何も進まない。
そこで停滞した会議に鶴の一声を上げたのは、やはり我らが部長の芥屋先輩である。
「も~、決まらないし全部まとめようか? お化け屋敷部誌トーナメントをやろう!」
「やろう! じゃないですよ先輩! だったら私、普通に文芸喫茶とかやりたいですから!」
反射的にツッコミを入れた平川を見て、芥屋先輩はニヤリと笑う。
「おー、良い案出せるじゃないの平川ちゃん。文芸喫茶って言ったら、漫画喫茶の文芸版的なのだろう? それで行こうよ」
芥屋先輩はあっさりと意見を翻し、飄々とそんなことを言う。
こういう場で司会を担当して案を出す側に回りたがらない平川に対し、芥屋先輩の作戦勝ちである。
自分が乗せられたことに気が付いたのか、平川はジトッと目を細めた。
「……では、多数決を取ります」
――結果は大方予想通り、文芸喫茶に四票、なんかトーナメントに一票となった。
なんかトーナメントを推していた綾加は、がっくりと項垂れている。
「……なあ、綾加君。トーナメントも内容次第だろう。部員で作品を持ち寄るなりして投票で競わせるとか。とにかく、そんなにやってみたいのであれば文芸喫茶と並行して進められるよう自分で企画してみてはどうかな? 真面目に提出したなら平川もきっと無下にはしないさ」
俺がそう言うと、綾加は不安げにこちらを見る。
「え、あ……綾加にできるんすかね」
「同じ部活内の企画だ、難しそうなら手を貸すくらいはするとも」
「ぁ、えへっ、だったらちょっと頑張ってみるっす!」
「そうか、励みたまえよ」
フンスと気合を入れる綾加を後目に、平川が黒板の「なんかトーナメント」に保留の二文字を追記した。
これにて文化祭の企画会議は終了である。
本日から突然五人になった文芸部はしかし、存外悪くない出足。
今後もこの調子で進めば良いが、毎年文化祭というものは何かしら不快な事象に見舞われる。ジンクスなどという根拠のないことを信じるほど落ちぶれてはいないが、それでも不安は残った。
帰り支度を進める平川を見て、中学時代の生徒会を思い出す。
帰ろう……。
バッグにノートとスマホをしまう。
シャープペンも片付けようと机の上に視線を走らせるが、見当たらない。
引き出し、床、と順に見るが、先ほどまで使っていたはずのそれは、やはり見つけられなかった。
どうしたものか。
一応予備にもう一本持ってはいるが、あまり安いモノでもないし諦めるには惜しい。
俺はしばらく引き出しをひっくり返したり、椅子の下に頭を潜らせたりしていた。
だが、五分ほど探し回っても成果は上がらない。
ふむ、と小さく溜息を吐いて顔を上げる。
そこでふと違和感を覚えた。
平川と名倉さんが、露骨に俺を待っているのだ。
そわそわと髪を触り、なんとなく机を撫で、帰り支度も済んでいるのに帰ろうとしない。
無論、俺の勘違いという線もあるが、しかし彼女らは俺を待っているのだろうとしか思えなかった。
そしてそれは、なんだか妙に居心地が悪い。
人間関係の煩わしさというか、大切な相手だからこそ感じる面倒臭さというか……。
俺はどうにも全てが嫌に思えて、二人と目を合わせずに部室を出てしまう。
シャープペンのことが頭を過らないわけでもないが、そんなことよりも余程、俺にとって平川や名倉さんとの関わりが重大で面倒だった。
廊下に出ると、逃げるように足早になる。
そんな自分は客観的に見て少し嫌だったが、それでも我慢ならなかった。
人間関係のストレスが多すぎたのだ。
自分が原因で人が部活に入ってくるというのは、些か以上に心が騒めく。
いや、別に平川や名倉さんが嫌いなわけではないのだ。
ただ、彼女らの行動が少し俺の心に近づき過ぎていた。
あゆみのように一歩引いていない、無防備な彼女らが怖かったのかもしれない。
分からない。
彼女らの孤独があって、それを埋めるよう求められたと感じたから、今の俺はこんなにも焦燥の念に駆られているのかもしれない。
そうやって色々と考えてみるが、どこかしっくりと来なかった。
「…………」
ただ、分からないことと、俺が今逃げていることだけは、どうやら確からしい。
それが分かったのなら、彼女らから逃げることは良くないということもおのずと分かった。
俺は電源が切れたようにふっと足を止め、踵を返す。
部室に戻らなければならない。
自分から人に関わるのと、人に求められて関わるのは随分大きく違う事だ。
それを自覚して尚、自分がここで引き返せるようになっていたことに、自分のことながら驚いていた。
+++++
「……いない、か」
勇気を出して引き返したが、部室には誰もおらず静かに夕日が差すばかりだった。
遠くから響く吹奏楽部の金管楽器が、シンとした教室の静寂を浮き上がらせる。
誰もいない事実にどこか安堵した俺は、どうせ戻って来たのだからとシャープペンを探した。
……が、何度見ても無いものは無い。
俺が諦めて帰ろうとしたところで、ふと床に落ちている紙切れが目に留まる。
ルーズリーフの紙だった。
誰かが落としたのだろうか?
なんとはなしに持ち上げ、裏側を見る。
そこには雑多なメモが書いてあった。『体育祭、運動靴で登校:9月19日』『数学ワークp34:9月24日』といった具合で、期日が過ぎたものは横線で消されている。
「……っ」
ふと、ある一点に目が留まる。
『浅野晋作殺害:10月2日』
筆跡は特に仰々しくもなく、他のメモと同じような空気感。
期日が来たら他の予定と同じように、横線を引かれ当然の如く実行に移されてしまいそうな……。
10月2日と言えば、文化祭当日である。
ぞっとした。
何故ならここは文芸部の部室で、きっとこの紙は部員のものだからだ。
もしも今日話した彼女らの中に俺の殺害を計画してる人間がいるのだとしたら?
それは、とても、踏み込み難い心の問題。
けれど諦めて見ない振りをするには、どうにも重くて大きすぎる事実だった。
俺はそっとルーズリーフを折りたたんでポケットにしまう。
何が正しいかなんて、考えられもしないままに。