たのしかった、うんどうかい
名倉さんに背を向けた俺は、逃げるように改札へと歩みを進める。
体育祭をサボるのだ、どこか遠くへ向かいたかった。
名倉さんのことを努めて考えないよう、益体も無いことに思考を向ける。
しかし、俺の足はその場で止まった。
服の裾を掴まれたのだ。
首を回して後ろを見ると、案の定というか予想外にというか……とにかく、名倉さんだった。
「……すまない、言い逃げは良くないな。文句でも罵声でも、甘んじて受け入れよう。それで少しでも気を晴らしてくれ」
俺が言うと、彼女は俯いたまま首を振った。
「文句なんて、言わないよ」
「では、何を?」
しかし、俺の問いに反応は無い。
そうして彼女の手は俺の服から離れたけれど、再び歩き出した俺の後に名倉さんは続いている。
俺はどうにも、彼女の気持ちが分からなかった。
分からないまま、少し後ろを歩く名倉さんを意識している。
轟音と共に音楽が流れ、電車が来たと知らせる。
通勤のピークを過ぎたのか、車内はガランとしていた。
俺が手近なボックス席に座ると、名倉さんは逡巡した後で少し離れたところに立った。
電車は再び動き出し、ガタンッと強く揺れる。
名倉さんは「……ゎ」と言ってたたらを踏んだ。
幸い転びはしなかったが、随分ふらふらしているので少し心配だ。
俺が横目で見ていると、彼女は少し恥ずかしそうに俯いて手すりを握った。
「危ないから、座ったどうかな」
「あ、う、うん」
名倉さんは口の中で小さくそう言って、俺と対角線上の席に着く。
電車は、ガタンガタンと定期的に揺れていた。
車窓から流れる景色は、あまり見覚えが無い。
俺は電車に乗らないから。
目的地を探すようにスマホを開いた。
とはいえ行きたい場所があるわけでもないので、地図アプリの検索欄を埋められない。
「名倉さん、行きたい場所はあるかな?」
「えっ、あっ、えと……」
声を掛けられると思っていなかったのか、彼女は慌てたように俺の顔と自分の手を交互に見つめた。
「あの、ゆっくりお話しできるところ、行きたい、かもです」
こちらを窺うような視線。
どこか、観察されているように感じる。
「話ができるところか……川?」
「えっ」
「あ、いや、そうだな。カフェとか、そういう場所が良いのか」
「えっと、あの、大丈夫っ! 川、行きたい」
「あ、じゃあ、まあ、行きますか」
確か丁度次の駅で、近くの自然公園に川があったはずだ。
小さい頃、親に連れられて遊びに行った記憶がある。
それは特段不快な記憶でも無い、普通の記憶だ。しかし同時に、子供の頃に親と遊んで楽しかったという、如何にもな記憶そのものが不快だった。
ともあれ、あの場所は嫌いじゃない。
だから決して、悪い選択ではないように思えた。
「あ、名倉さん。降りるよ」
電車が止まる。
新しく乗ってくる人はおらず、俺達は駅員が一人で回している改札を抜けた。
何故だろう? 外は同じ快晴なのだけれど、電車に乗ろうとしたときよりも太陽が少しだけ優しく思える。
人が少ないからかもな。
俺は名倉さんの隣を歩きつつ、目的地まで先導する。
こうしていると、彼女の俺よりも高い身長が少し気になった。
「……? どうしたの」
「や、なんでもないとも」
視線に気づかれた。
別段コンプレックスがあるわけでもないが、しかし妙に居心地が悪い。
彼女からすれば俺は随分と弱々しく、まるで死にかけの虫のように見えていることだろう。
朝起きて鏡を見ると、俺もたまにそう思うのだ。
「ねえ、浅野くん」
「ん?」
チラリと彼女の顔を見上げる。
「もう、始まっちゃったね。応援合戦」
「ああ……」
スマホを取り出して時間を見る。
もう正午前だ。彼女の言う通り、午前最後の競技である応援合戦が始まろうとしていた。
きっと今頃、連中は妙なダンスと共に替え歌を大きな声で歌っていることだろう。
俺は少し、愉快だった。
……そういえば、綾加はどうしているだろう?
一つ気がかりがあるとすれば、それだ。
ともあれ彼女は、自分で応援練習に戻りたいと言った。
つまりそれは選択で、俺が心配することでは無い。
俺はスマホから視線を上げ、再び名倉さんを見た。
「こういう瞬間って、少し気分が楽になるな。もうどう足掻いても参加できないから、応援を気にする必要がなくなった感覚というか、荷が下りたみたいな。そう、余裕が生まれる」
「……ちょっと、分かるかも」
俺の言葉に、名倉さんはそう言って少し微笑んだ。
その表情は確かに、緊張がゆるんでいるように見えた。
「あ、そこだ」
目的地の川が見えてくる。
それは近寄ると底が見える程度に浅く、記憶よりも随分小さい。
けれど、小さくとも水辺は水辺。
残暑を追い払うような川の流れは、過ごしやすい涼しさを感じさせる。
俺達は横に並んで、ぼーっと川を眺めた。
名倉さんはしゃがみ込むと、手を川に浸け心地よさそうに目を細めている。
「…………」
鳥が鳴いていた。
俺は名倉さんの隣に腰を下ろし、夏休みのことをぼんやりと思い出していた。
『私、浅野くんの首を絞めたい。苦しんで、弱っていく、そんな浅野くんが見たいの。私の言うことをちゃんと聞いて、私にダメって言わなくて、私を怒らない……私より弱い人なんて、浅野くんが初めてだったから』
以前、彼女が言っていた言葉だ。
俺に向けられていた感情。自分を拒絶しない人。
安心の、方法。
「名倉さんは今も、俺の首を絞めたいか?」
「っ……うん」
少し言葉に詰まった後で、彼女はハッキリと頷いた。
「そうか」
風が優しく頬を撫でる。
俺はどうすれば良いか、分からなかった。
しばらく黙って水の流れる音を聞いていると、彼女が「でも……」と言葉を続ける。
「本当は、それだけじゃなくて、沢山したいことがあるの。前は自分のしたいことなんて一つも分からなかったのに。なんだか、浅野くんと普通のこともしたいなって、最近思うよ」
彼女の声は少し震えて、上ずっていた。
俺の心臓はドキリと跳ねる。
考え過ぎだろうか? なんだかそれは告白のように思えた。
……いや、まあ、考えすぎだ。
というかそんな雑念でなく、注目すべきは彼女の変化だろう。
何にも興味を持てず、暇な時間はただ時計を見つめていた彼女が、普通の事をしたいと言ったのだ。
何にも興味を持てない人生と、普通のことをしたい人生、そのどちらが幸せか俺には分からないけれど。
ただ、彼女が嬉しそうに言ったので、それが一番大切だと思った。
「色々しよう、普通のこと」
「いいの?」
「ああ、勿論だとも」
「じゃあ、あの、運動会のお弁当、一緒に食べない?」
彼女は首を傾げ、そっと両手で弁当箱を取り出した。
「良いな、ピクニックみたいだ。俺もコンビニで何か買ってくるから、少し待っていてくれ」
俺は立ち上がると、スマホを取り出し近くのコンビニを探す。
そのまま方向にあたりをつけて歩き出そうとすると、名倉さんが「まって」と言った。
「あの、お弁当、実はその……二つあって」
そう言った後で、彼女は言い訳でもするように言葉を付け加える。
「えと、その、なんとなく、作っちゃたというか、えへ」
彼女は誤魔化すように笑った。
まあ、食べて良いと言うのであれば良いのだろう。
俺は大人しく座り、彼女の弁当を開く。
……カレーだった。
弁当箱の中にカレーという少々予想外の光景に驚きつつも、名倉さんが「いただきます」と手を合わせたので、俺も続けて手を合わせる。
「ど、どうかな? ちゃんとレシピから外れないように、丁寧に作ってみたんだけど……」
名倉さんは期待と不安が入り混じったかような顔で、俺を見つめていた。
味はまあ、普通だ。
少し玉ねぎに火が通っていなかったり、米が固くなっていたりしたけれど、十分に美味しく食べられる。
弁当にカレーという意外性に面食らったが、食べてみれば別に問題はない。
「良いと思う。夏休みの最初と比べて、随分上手くなったのではないか?」
「そ、そっかな? ふふ、へへ」
二人でスプーンを使って、弁当の中身を平らげていく。
そのとき会話は無かったが、漂っていた心の壁のようなものは霧散したように思えた。