正直に言って、の、意味って
憂鬱だ。
今日はいよいよ体育祭本番、不愉快なことに空は晴天。
だが、俺の頭を悩ます問題はそれだけでは無かった。
平川の件だ。
仲直りというのは、アレで良かったのだろうか?
どうにも実感が湧かない。
平川とのやり取りは、すれ違った小学生の「ごめんね」と「いいよ」を思い出すのだ。
俺はまだ、平川の気持ちを何も聞けていない。
ただ聞かれたことに答えただけ。故に俺は、どうしたって平川の話を聞かねばならない訳だが、やはりそれが怖かった。
「平川とも、名倉さんみたいになるのは嫌だな……」
枕に口を押し付けて呟く。
とはいえ、もう時間だ。
俺は動く死体のように体を持ち上げ、ゆっくりと学校へ向かう準備を整えた。
+++++
「……ぁ」
駅前を通っていたら、植込みの陰に名倉さんを見つけた。
隠れるようにして、彼女は小さくうずくまっている。
以前少し学校で話したとはいえ、俺と彼女は未だに気まずい関係だ。
そのまま通り過ぎてしまおうかとも思ったが、まるっきり動かないのが少し気になる。
「やあ、名倉さん。えー、具合でも悪いのかな?」
俺は結局、声を掛けた。
すると、彼女の膝に押し付けられていた顔が上げられ、目が合う。
その表情は無表情に見えて、しかし口は噛みしめるように固く結ばれている。
「……大丈夫、だよ~」
「そうか」
しかし、今の彼女は上手な笑顔さえ作れていなかった。
「…………」
流れる沈黙。
以前、屋上前の階段で少し話したせいで、寧ろ俺達は距離感を測りかねていた。
「た、体育祭、行かないとだねぇ」
どこかぎこちない、焦るような声音。
彼女は言葉と裏腹に、その場から立とうとしない。
「……まあ、あまり積極的に行きたいものではないがね」
「え?」
聞き返す彼女は、何かを期待するように俺を見た。
何を期待されているのか、俺にはまるで分からないが。
とはいえ、ここで分からないからと投げ出すのはいかがなものだろうか?
俺の中のわだかまりは、何よりもまず名倉さんに起因している。
誰にも話を聞いてもらえない人の話を聞きたいという理想と、聞いたところで受け止めきれないという二律背反が、俺を苦悩させるのだ。
そして、その苦悩さえも諦め投げ出し宙に浮いたまま過ごした結果が、纏わりつくような今だった。
「俺は体育祭に行きたくない」
気がつけば俺は、次の言葉を続けている。
「きっと名倉さんも、同じだろう?」
「う、うん」
「じゃあ、一緒にサボろうか」
未練というか……俺は彼女の本心を暴いた責任も取れなかった癖に、こんな事を言う。
名倉さんは、驚いたように俺の目を見た。
「え、だ、ダメだと思う」
そして数秒俺と目を合わせ、力が抜けたように彼女は俯く。
「……良いの?」
「駄目だろうね」
「あ、うん、そうだね!」
名倉さんは上手に笑って、すっと立ち上がった。
そしてそのまま、学校の方へと歩き出す。
「駄目だろうけれども、俺はサボる」
彼女が立ち止まり、振り返る。
「だ、ダメだよ? みんなに迷惑かけちゃう」
「全力で参加して迷惑をかける奴が、参加しなくても結果迷惑をかけるのなら、それはシステム上の問題だ。俺の関知するところではないよ」
「誰も浅野くんのことを迷惑だなんて……」
「名倉さん、体育祭は得点制だ。文化祭とは違ってね。だから真剣に勝利を目指す人にとって、戦力外の人間である俺は無価値だとする結論は正しい」
「……そんなこと、ないよ」
彼女は俺のシステム的に正しく、道徳的に正しくない意見を否定した。
「だが君、練習をサボり得点にも寄与しない俺を誰が歓迎する? きっと応援団の団長なんかは、終始迷惑そうな顔で俺を見るぜ?」
「そうじゃ、なくてっ」
滔々と喋る俺に、彼女は言葉をつっかえながら、少し大きな声を出した。
「浅野くん、はっ、無価値なんかじゃないって、その……」
彼女の言葉は尻すぼみになって消える。
そしてそれっきり、彼女は手をぎゅっと握りしめて黙り込んでしまった。
俺はどうすれば良いのか。
名倉さんは俯いていて、その表情が窺えない。
故に彼女の発言が、表面的な道徳的正しさによるものか、彼女本人の意思なのか、まるで判断がつかなかった。
実際のところ俺は、今の名倉さんからどう思われているのからすら知らないのである。
手持無沙汰に周囲を見渡した。すると、さっきまで駅周辺にいた学生達はいつの間にかいなくなっている。
登校するつもりなら、そろそろ向かい始めないと遅刻になりそうだ。
「…………」
しかし、彼女は黙ったまま。
痺れを切らして問いかける。
「行かないのかね?」
果たして、彼女は俯いたままだ。
ただ何となく、名倉さんのような運動ができる人間の持つ、体育祭に行きたくないという感情は、俺のものよりも複雑な気がした。
「まあ、サボるか」
彼女の隣に腰掛ける。
「……なんで」
黙りこくっていた名倉さんが、そう一言呟いた。
そして俯いていた顔を少し上げ、窺うように俺を見る。
「なんでまだ、私に優しくしてくれるの?」
彼女と目が合う。
思考は巡り、頭が止まったみたいになった。
俺は名倉さんに優しくしているのか? 優しさとは何か? その思考が加速を始める前に、彼女の言葉は更に進んだ。
「私、浅野くんに間違えたことをしたよ。もう嫌われたんだなって、気持ち悪いって思われたなって、思った。だって普通じゃないでしょ? 首を絞めたがる女の子なんて、普通じゃなくて、怖いから……」
名倉さんの言葉を聞き、俺は無意識に自分の首筋を撫でる。
彼女はずっと、どこか必死に見えた。
「それなのに何で、今も浅野くんは私とちゃんと話してくれるの? 無視しないの? 声をかけてくれるの? ちゃんと気持ち悪いって言ってくれないと、拒絶してくれないと、私……ダメだって分かってても、期待しちゃうよ」
消えるように幽かなその言葉に、俺は思わず半歩退く。
聞くばかりで何も言おうとしないのは、以前あゆみに指摘された悪癖だ。
彼女の期待には応えられない、首を絞められるのが怖いから。
思えばそれを伝えたことは、今まで一度も無かったな。
脳裏に過るのは、かつて諦めた選択肢。
ここで俺が我慢すれば、受け入れるとただ言えば、俺は彼女を裏切らなかったことになる。
勝手に彼女が俺の気持ちを類推して離れただけだった、という事の顛末にできるのだ。
つまりは俺が無責任に暴いた彼女の本心を、果たせなかった責任を、背負いなおす事ができるという訳である。
「……っぅ」
言葉に、詰まった。
やはり駄目だな。無理だ。
「…………」
俺は一度、諦めていた。
「名倉さん、ずっと何も言わないでいて悪かったと思っている。だが、俺は君の期待には応えられない……首を絞められるのは、実のところ平気ではなかった」
それを聞いて、名倉さんは、微笑んだ。
その表情を見て、きっと謝罪とはこういう気持ちを吐き出すために言うのだろうと理解する。
「君に本心を言えと言いながら、俺はそれを受け止めきれなかった。本当に、すまない」
果たして、彼女はなおも微笑み続ける。
「ありがとう。でも、浅野くんは悪くないよ? 私が気持ち悪いからいけないの」
俺は思わず口を開く。
「違う! ただ、生存本能に俺が敗北しただけだ。気持ち悪いなどと思ったわけではない。怖かったかもしれないけれど、でも、それは、別に嫌う理由には……」
気がつくと彼女の微笑みは崩れ、観察するように俺を見る名倉さんがいた。
そして俺は、その瞳に映る自分を見た。
随分言い訳染みた言葉だったと気づく。
条件反射のような感情に支配される自分が嫌になった。
「……すまない。結局、君の示してくれた本心を受け入れられなかった事実は変わらないな。変に関わろうとして悪かった」
俺は静かに振り返る。
駅の周辺には、もう殆ど人がいなかった。
アスファルトを靴で踏む。
天気は快晴、この場から逃げるように体育祭をサボろうと決めた俺を、太陽が睨んでいるようだった。
蝉はもう、鳴いていない。