あなたのためにやっているのよ
今日もやはり俺と綾加は図書室にいた。
残る練習日は三日、今頃応援団の方は大詰めの完成度向上に努めている頃だろうか?
そんなことを考えながら、俺はペラリと本のページを捲った。
対する綾加は、珍しく思いつめたような表情でじっと自分の手を見つめている。
「……先輩」
「何かな?」
「えーっと、あの……やっぱ、なんでもないっす」
「そうか」
気の無い俺の反応に、綾加は少しだけムッとしたように頬を膨らませる。
「なんか冷たくないっすか?」
「だが、何でもないんだろう? もしくは何かあったとしても言いたくない。であれば、無理に聞くものでもあるまい」
「……先輩、モテなさそうっすよね」
「失礼だぞ、綾加君」
「え、モテないこと気にしてたんすか? だったら謝るっす」
彼女は素直に頭を下げたが、最初の心底意外そうな「え、モテないこと気にしてたんすか?」のせいで心は酷くささくれ立った。
別に気にしていようがいまいが、モテなさそうと言われて不快になるのに特段おかしな点など無いだろうに。
俺は黙って本に視線を落とすと、綾加は焦ったようにフォローを入れてくる。
「あ、でもっ! 先輩ここぞってときは気づかいしてくれるっすから、意外とモテてるかもっす! いやホント、告白してない人達が見る目ないだけっすよ!」
……余計にいたたまれなくなってきた。
別に誰かから好かれようとして日々を生きているわけではない。
だから、告白なんぞされなくとも当然である。
そう、当然のことが当然のように起こっているだけ。故に、俺は気にしてなどいない。
本のページを捲る指が震えていた。
すると、先ほどとは一転して静かな声音で綾加が呟く。
「ごめんなさいっす。でもホントに、告白してない人達の見る目がないって思ってるっすよ?」
「……急に、どうしたのかね」
俺は本から顔を上げた。
綾加は照れくさそうに頬を掻く。
「なんか、さっき何でもないって言ったこと、やっぱ聞いてもらっても良いっすか?」
「……構わんよ」
俺が頷くと、綾加はポツポツと語り始める。
「綾加、今まで真面目だけが取り柄だったんす。運動も勉強も全然ダメで、空気読めないから友達もいなくて。でも真面目にしてたら、バカでダメダメでも自分が正しいって思えてたっす」
「…………」
「だから今までだったらきっと、応援団の皆と衝突しても自分が正しいんだって、練習に参加し続けてたはずなんすよ。でも先輩が……逃げ場所作ってくれて、優しくしてくれて、そんなことしてくれる人って初めてで、嬉しくて……でも、なんか弱くなっちゃったっす」
綾加はそう言いながら、不安そうに俺の方を見ている。
俺は何と言えば良いのか分からず、「あぁ」と曖昧に頷いた。
「でも先輩、初めて会ったときに言ってくれたじゃないっすか。今の応援団を綾加が良い方向に引っ張っていけるように応援してるって。綾加、逃げ場所作ってもらったのも初めてだったけど、期待して応援して貰えたのも初めてだったから、ホントは応援団、頑張りたくて……」
彼女の表情は、今にも泣きだしそうだった。
「……先輩、綾加はどうすれば、どうすればちゃんとできるんすか?」
そんなことを問われても、分かる筈が無かった。
俺だってちゃんとしていない側の人間だ。
自分の無力さと無責任さが嫌になる。
彼女の板挟みは、徹頭徹尾俺の言動が原因だったから。
こうなるとやはり、人と関わろうとすることが間違いなのではないかと、夏休み中盤に渦巻いていた思考が戻ってくる。
どうすれば良いのかなんて、こっちが聞きたいくらいだ。
だが、そんなことを言うわけにもいかない。
彼女にとってどんな言葉が正解だ?
下手なことは言いたくない。ここ一週間ほど毎日放課後を共にして、少なからず情というものが湧いている。
とはいえ俺には諦めた経験しかない。
挑戦するまでもなく、心を折られていたから。
俺は「あー」とか「うー」とか言いながら、できる限り言葉を引っ張る。
だが、こちらを見つめるのは期待と不安が入り混じった目。
結局絞り出したのは、随分ちんけな提案だった。
「とりあえず、そうだな、綾加君が頑張りたいと思っているのであれば、まあ、アレだ……応援練習、一緒に行ってみるか?」
「い、一緒に行ってくれるんすか?」
「まあ、元々そういう感じだったというか、綾加君がサボっている俺を連れ戻しに来ているという、うん、アレだったので」
俺がそう言うと、綾加は嬉しそうに「あは!」と笑う。
「逆っすよ! サボってた綾加を、先輩が連れ出してくれたっす! だからほら、手を繋いで行くっすよ! お互いが、サボれないように!」
元気に明るく手を差し出した彼女に、俺はやはり苦手だなあと思いながらも、苦笑してその手を取ったのであった。
そして、ガラリと扉を開ける。
輝く綾加の笑顔、窓から差し込む傾いた日差し、繋がれた少し温かい手、そして図書室の前で……平川が目を見開いて立っていた。
+++++
私はたぶん、浅野と友達になりたかったんだと思う。
だって浅野と最初に出会ったのも、浅野を一番気にかけているのも、私なんだ。
それなのに、あゆみさんは私なんかよりよっぽど浅野の心の深いところに入り込んでいるみたいで、私だけずっと蚊帳の外。
浅野は一方的に文芸部を──私を切り捨てた癖に、夏休みが明けたら急に謝って来た。
私がどれだけ引き留めても聞く耳を持たなかったのに、あゆみさんか誰かの言葉で、あっさりと文芸部に戻る気になったのだ。
私なんて、浅野にとってはどうでも良い人間なんだと思った。
そんな折に、浅野はどうやら応援団に選ばれていたらしく、それが原因で文芸部に来られなかったのではないかと芥屋先輩から聞いた。
それで怒りが治まるわけでは無いけれど、少し、反省した……反省して、いたのに。
浅野は、応援練習にずっと来ていないと団員の子から聞いた。図書室でサボっているらしい。
そうして私は聞いてしまったのだ。図書室の中で、知らない女子生徒と仲良さげに話している浅野の声を。
ガラリと図書室の戸が開かれる。
「……っ!」
手を、繋いでいた。
浅野と、知らない女子生徒が。
そのまま二人は通り過ぎて行く、私の隣を。
浅野は、少し気まずそうな表情をしていて、それを見たらもう我慢できなかった。
「ちょっと待ちなさいよ!」
静かな廊下に私の声が響く。
「……なんすか、急に大きな声出して」
「綾加君、彼女は俺の知り合いだ。先に行っておいてくれ」
浅野が、知らない女子生徒を下の名前で呼んでいた。
上がっていた血の気が一瞬で引く。
「あ、アンタたち、どういう関係なのよ」
「綾加と先輩は、友達っす! 今は!」
「…………」
また、知らない間に浅野の交友関係が広がってる。
一学期までは、浅野の人間関係なんて文芸部の中にしか存在しなかったのに。
……全部、夏休みを境に変わってしまった。
浅野に最初にあったのも、浅野のことを一番分かっているのも、浅野のことを助けてあげられるのも、私だけだったはずなのに。
浅野の隣には、私がいたはずだったのに。
私の居場所だった、はずなのに。
「ねえ、何がそこまでアンタを変えたの? あゆみさんが原因? 夏休みに、何があったの?」
気が付くと、私は縋りつくようにして問うていた。
浅野は、私から視線を逸らした。
「それは、言えない」
「……そう」
視界が涙で滲む。
「まあ、そうよね。私達は友達でもなんでもない、部活仲間でも無い。もう、赤の他人だもんね」
私は気が付くと、駆け出していた。
振り返らない。どうせ誰も、私のことを一番に考えてくれることなんて無い。
なんだか私ばかり癇癪を起しているみたいで嫌だった。
私はやっぱり、ずっと喧嘩をしている父と母の娘なのだと思った。
廊下の曲がり角で、足を滑らせて転ぶ。
……本当は、追いかけて来て欲しかった。
ジンジンと痛む膝を抱えながら、やるせなくそう思った。